ひかりへと続く扉2−I亀裂

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナターヤと兄が初めて視線を交わし合った瞬間、僕は気付いてしまった。

 

ナターヤは一目で兄に心を奪われ、そして兄もまた、それに近い感情を自分でそうとは知らずに僅かながら抱いただろう事を。





 青ざめた顔色が兄に視線を向ける毎に赤みを帯びて、目が合おうものなら途端にその表情を緊張に強張らせていたというのに、幸いにも兄はサーシャの熱のこもった眼差しにまったく気付いていなかった。

 

彼女は危険だ・・・と、僕の中で警鐘が鳴っていた。

 

彼女と兄を決して近づけてはいけないと、わざとらしい美辞麗句を並べたて彼女の関心をこれ以上兄へと向けないように、また兄が彼女に話し掛ける隙を与えないように僕は必死だった。
 
 そして、先を行く兄の後ろに続いて部屋を辞そうとしていた僕を彼女は引きとめ、こう言ったのだ。

 

 

「彼には、あなたでは不釣り合いだわね」・・・・・・・・・と。

 

 

僕は自分の耳を疑った。しかし驚きながら振り向いた瞬間そこにあったのは、切れるあまりに冷たささえ感じさせる程の怜悧さを滲ませた、強い瞳を向けてくる女の姿だった。兄の前で見せた、可憐で儚いまだどこかあどけない様子の女性と同一人物だとは俄かに信じがたい豹変ぶりだった。

 

 

「それはどういう意味?彼は、僕の兄だ。釣り合うも釣り合わないもないでしょう」

 

「じゃあ遠慮なく、私が彼を幸せにするわ」

 

「させません」

 

「なぜ?兄弟なんでしょう?」

 

そう言って挑戦的に口角を釣りあげながらも、彼女の目は真剣そのものだった。彼女は彼女で、一歩でも引くまいと必死なのだろう。僕が後から付いて来ない事に気がつかないまま先に部屋を出て行った兄に聞こえないよう小さな声で、でも互いの譲れない気持ちを代弁するかのごとく強い口調での攻防だった。

 

 「僕は彼を誰よりも愛しているし、彼も僕だけを愛してくれてる。君に出来る事は、あの人を諦めることだけだよ」

 

 「あきらめないわ」

 

 そう言ったその瞳が放つ力強さに既視感を覚えた。いつ何処で触れたのだったか、この強く狂おしい程の灼熱の色を持つ瞳に。

 

 「私、これまでずっと、いつ自分が死ぬか分からないと思いながら生きていたわ。だから欲しいと思ったものには何でもすぐに手を伸ばしてきたの」

 

 「心は、“もの”ではないよ」

 

 「その通りね。でも例えば彼の心が私に向いた時にも、あなたはそれと同じセリフを私に言えるのかしらね」

 

 それは痛い言葉だった。出逢ったばかりとはいえ、彼女は本気で兄に惹かれているのだろう。でなければたったあれだけの短い時間の中で、僕たち兄弟の関係が特別なものである事を見破り、また僕が兄へと向ける狂気さえ孕んだ烈情ともいえる強すぎる愛を悟れるはずがないのだ。

 

 

「・・・・・アル、どうした?病人に無理させんな、帰るぞ」

 

僕が付いて来ない事を不審に思った兄が顔を覗かせた。今の会話の内容を兄に悟らせるわけにはいなかったから、僕は咄嗟に口からでまかせのその場しのぎの約束を口にした。

 

「サーシャ、また来るよ。次は面白い本でも持ってね」

 

 

 

 

 

 

病院からの帰り道、何となく兄との間に流れる空気に不自然さを感じていた僕は、その原因について思いを巡らせていた。

部屋に入り、彼女の姿を目にした時の兄の様子を思い出す。目を見開いて、言葉を発する事も忘れて彼女の姿に見惚れていた。そして、もう子供ではないとはいえ、あんなに物腰柔らかな紳士的な態度で異性に接する兄を見るのは初めての事だった。

 

恋とか、そんな明確なものではなくとも、異性としてサーシャに心惹かれる端緒のようなものが兄の中で生まれたことは明確だった。きっと鈍いこの人の事だから、そんな自分の心の深部の変化になど全く気付いてはいないのだろうけれど。

 

それでいい。あなたが気付かない内に、その芽をこっそり摘み取ってしまおう。そう思っていた矢先、まるでその卑劣な考えを見越したような兄の言葉に、僕の心は震えあがった。嫉妬による激しく醜い怒りと、そしてこの人の愛が自分以外の誰かへと移ってしまう事に対する恐怖に。

 

 

「サーシャって言ったっけ・・・・・・。マジで綺麗だったよな、あの女」

 

そう兄は言ったのだ。はっきりと。今まで女性に対する賛辞の言葉など、ただの一度も口にした事がない兄が、だ。

 

僕はこの瞬間、先刻口にした嘘の約束を実行する事を決めた。きっと僕がサーシャと兄の間に介入しないでいれば、いずれふたりの距離は縮まりやがてそれが愛情へと変わるのは目に見えていたから。

 

 

女性との(兄が言うところの)真っ当な恋愛をし、やがて暖かく穏やかな家庭を手に入れ、そしてその血を残す。

今、兄の前に拓かれたもう一筋の・・・・恐らく正しいだろう道が、僕の目にははっきりと見て取れた。

 

本来ならば、僕はここで潔く身を引くべきなのだろう。でも、僕にとってそれは選択肢の中にさえありえないものだった。例え罪であろうと、誰に罵られようと、この人が自分以外の人間を愛する事を僕は赦しはしない。生涯、赦すことはできないだろう。

 

 



その日を境に、僕は兄の部屋で夜を過ごすことを止めた。その人の香りやぬくもりを近くにして、手を出さずにいられる自信がなかったからだ。その人の心を、快楽で縛り付けているのではない。心が、心を求め合っているんだというあたりまえの事を確認したかったのだけれど・・・・・・・。

 

その行動がより兄の心を凍えさせ、さらに僕たち2人の間に生じた僅かな亀裂を広げてしまうことになると思い至れなかったこの時の僕は、愛しい人を失うことに恐れをなしてすっかり冷静さをなくしていたのだ。

 

 

 

 

その翌々日、僕がナターヤの元へと出かけていくのを無言で見送る兄の表情に陰りを見つけて、僕の心は罪悪感と悲しみに苛まれた。

 

その辛そうな表情は、僕と彼女、どちらに嫉妬してのものなの?

 

もし実際にこんな事を言おうものなら、きっと兄は怒って殴りかかってくるだろう。自分の心の奥底の変化になんて、全く気が付いていないのだから。でも、僕はそれでも信じたかった。

僕と兄の間に存在する絆の強さは、なにものにも劣ることがないのだ、決して壊れたり失われたりすることはないのだ・・・・・と。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あら、本当に来てくれるとは思わなかったわ」

 

再び病室を訪れた僕の姿を見るなり、いかにも意外という表情で言った彼女の第一声がそれだった。勿論、僕だって好き好んで来た訳ではない。ただ、自分の都合ともう一つ、気になることを確認する為に訪れる必要があったのだ。

 

 

「たまたまエクサンドルの書物を集めていてね。君に丁度いいんじゃないかと思って持ってきたんだよ」

 

古めかしい数冊の本を彼女が座るベッドのサイドテーブルに置きながら言った後、目を上げて見たナターヤの表情は歳相応の少女らしく怯えを滲ませていた。

 

「・・・・・あなた・・・軍の関係者なの?それとも・・・」

 

「一応中途半端な軍籍を持っているといえばそうだけど・・・・ゴメン、驚かせてしまって。大丈夫だよ、僕はアンソニー=ストーとは一切関係ない人間だから安心して」

 

そう言ってもまだ緊張した表情を緩めないナターヤに、僕は順序だてて説明をした。

 

僕が錬金術研究所でチェルニー=ハルトマンという人物と共に働いていたこと。その人物はアンソニー=ストーから僕の暗殺と研究データの強奪を強要されていたが、それが失敗に終わったこと。そして今そのチェルニーは僕の家に身を潜ませている事を。

 

「僕はその事件で記憶を失くしてしまっていてね。でも何か気にかかって、一昨日君に会った後に、過去自分が書き付けたメモやノートをあさってみたんだ・・・・・・これを見てごらん」

 

そう言って彼女に手渡したのは、当時僕が常日頃持ち歩いていた手帳で、これにはふと思いついた構築式や新しい法則、そして日常のちょっとした雑記や覚書のようなものがぎっしりと書き付けてあるのだ。実はこれは僕の錬金術の研究手帳と対になるもので、その研究手帳の暗号化した内容を読み解くにはこの雑然とした手帳と照らし合わせなくてはいけないという寸法だ。

このメモ自体に大した意味は含まれてはいないのだが、書き付けてある内容はどうやら本物らしい。内容は多岐に渡り上司の住所や、その家族の名前や年齢、果ては靴のサイズから生年月日まで。その中から、チェルニーに関するメモはないかと探してみたところ・・・・・。

 

『チェルニー  北方出身 医療錬金術を得意とする。医師免許取得済み。地質学に造詣が深い。20歳。エクサンドルの訛り有。明朗快活。体術の心得あり。家族は17歳の妹のみ。名はナターヤ。妹が飼っている猫の名前、サーシャ』

 

 

ナターヤの震える手から手帳が落ちた。やはり、僕の勘は間違いではなかったのだと知る。

 

「兄は・・・・・・・・本当に?あなたのところにいるの?捕えられているのではなかったの?無事なの?お願い教えて・・・・!!」

 

取り乱し、思わず大きな声を上げて僕に詰め寄るナターヤの身体をやんわりと押し戻しながら、唇の前で人差し指をたて目線で落ち着くように促した。

 

「まだこれは、マスタング氏にも話していないんだ。僕と兄は、出来ればチェルニー君と君を軍の手から解放して上げたいと思ってる。大丈夫、彼は元気でいるよ。だから、今は焦ってはいけない。慎重に動くんだ」

 

「・・・・兄は、あなたを暗殺しようとしたんでしょう?それなのに、なんで?」

 

「チェルニー君は、妹の君の身を盾に取られながらも最後まで僕達の身に実害が及ばないようにと動いてくれたんだ。はっきり言って、チェルニー君にその意図さえなければあの計画は完璧に遂行されていたはずだ。僕は・・・彼に命を助けて貰ったんだよ。それに・・・・」

 

そして・・・・・・これを言うべきかと、僕は逡巡した。言ってしまえば、彼女の持つ兄への気持ちがより強いものになってしまうだろうから。けれど、それでも僕は彼女に言いたかった。知って欲しかった。僕の兄が・・・エドワード=エルリックという人間が、どれだけ奥深い情と優しさをその胸に秘めているのかという事を。

 

「・・・・兄が、彼と君を助けると決めたんだ。弟の僕は、その兄の言葉に従って動いているだけだよ」

 

案の定、その言葉を聞いた瞬間の彼女の表情は途端に華やいだ色を見せ・・・・・・しかしその直後、何かを思い切るように頬にかかっていた髪をさばさばした仕草で後ろに跳ね上げ、くるりと僕に背を向けてベッドの脇に屈みこんだ。

 

「・・・・サーシャ?」

 

不意のことに声を掛ける僕を振り返ると、ナターヤはベッドの下に隠してあったらしい分厚い数冊のファイルを差し出してきた。

 

「あなた、エクサンドル語は?」

 

「少し読み書きが出来る程度・・・かな。これはエクサンドル語のファイルだね・・・ええと・・・」

 

言いながら、表紙の手書きの文字を目で追う。

 

「北方の地域・・・・地質調査・・・・油脈についてのレポート?」

 

「フフ・・・合格ね!」

 

そう言って笑うナターヤは、不遜な態度は変わらずながら17歳の少女らしい可憐な部分を垣間見せていて、この姿が彼女の本質なのだと、そう感じさせた。

 

「アルフォンス。あなたを信用して私と兄が持っている情報を教えるわ。だからどうかお願い。虫のいい頼みかもしれないけど、手伝って貰いたいの」

 

「何をするかにも拠るね。僕に何をしろと?」

 

「この周辺に潜伏している仲間と連絡を取りたいの。ドラクマに迎合するエクサンドルの軍事体制に反対しているレジスタンス、とでも言えばいいのかしら。そういった組織はいくつかあるんだけど・・・。とにかくその組織のメンバーが多分セントラルの周辺に何人か潜んでいるはずなのよ」

 

「何故そんな事を知ってるの?」

 

「軍の病院に訪ねて来て教えてくれたのよ。私もまさか彼らが軍施設内にお見舞いの花やフルーツを持って暢気にやって来るなんて思いもしなかったわ」

 

彼女の言葉に僕はあっけに取られた。チェルニーの件といい、反体制派側の人間とはいえ敵対国の人間をそう簡単に国の心臓部とも言える中央軍施設内を闊歩させてしまうとは、アメストリス軍は何処まで腑抜けているのか。それとも彼らのやり口が余程巧妙だったのだろうか。

 

「じゃあ、彼らはチェルニーにも接触しているかもしれないんだね?」

 

「どうかしら。私のところに来てくれたのは、兄とは違う組織の人達だったから・・・」

 

「そう、君の事は折を見ながらチェルニー君に知らせるよ。本当は直ぐにでも君の無事を知らせてあげたいところだけど、無鉄砲でそそっかしい君の兄さんは後先考えずにここに押しかけてきて騒ぎを大きくしないとも限らないからね。さて、それじゃあ早速だけど、具体的に僕がどう動いたらいいのかを聞こうか」

 

僕は時計を気にしながら、話の流れを正した。ナターヤと兄の間に介入するのは、ほんの形だけで十分だった。逆に長い時間ナターヤと会っているのだと思われれば、兄に要らぬ疑惑を抱かせてしまうだけだ。早々に話を終わらせて退散するに越したことはない。

 

しかし、ナターヤの持ちかけてきた依頼は思いもよらぬ難題で、しかも危険を孕んだものだった。

 

 

 チェルニーと妹のナターヤ、そして共に活動するいわゆる地下組織のメンバーは皆、元は同じ大学で地質学を専攻しているグループだった。しかしある日偶然にも、エクサンドルのみならずドラクマをはじめとする広大な北方の周辺の地下に途轍もなく大規模な油脈があることを突き止めた。彼らは地道な活動によってその油脈を覆う地層のデータを集めそれらを調査したのだが、皮肉なことに鉄を大量に含んだ厚い岩盤に阻まれ、現在の掘削技術では油脈を掘り出すことは不可能だという結論に達した。しかし、これだけの資源をもし自国が手にする事が出来れば、軍事大国ドラクマに追従する必要がなくなるのだ。チェルニーが妹の病を自力で治そうとアメストリスに旅立った後も、残った仲間はどこかに採掘が可能な場所はないかと、探し続けていたのだという。しかし、何処にも裏切り者は存在するもので、その組織に所属していた一人が、油脈の情報の一部を企業に売り渡してしまったことでその存在は広く知れ渡ることとなり、そのデータを奪おうとする者達の手から逃れるために、メンバーは国外へ脱出することを余儀なくされてしまった。重い病を患い、一人母国に残されたナターヤは、その彼らが密かに残していったデータの分析を一人で続けていたのだ。

 

 

 「その私も結局アメストリスの諜報員に保護されてここに居るわけなのだけど。その時持ち出したデータがこのファイルなの。でもこれを全て調べるのにはとても私一人の手には余って・・・・」

 

 「この内容は軍にチェックされなかった?」

 

 「分からない。でも私が入院している間は、ホークアイさんに預けていたわ。そうするしかなくて・・・」

 

 ということは、このデータはほぼ間違いなくロイ=マスタング中将の知るところとなっているはずだ。軍が北へ向けて大規模な人員や物資の移動をしていないところを見ると、恐らくこの情報はマスタング中将のところでとまっているのだろう。

 

 「アルフォンスは錬金術師・・・・化学者でしょう?出来ればこのデータの分析を手伝って貰いたいの。そして彼らとの連絡係も」

 

 「やれやれ、随分とこき使うんだね。余程の見返りを貰わないとあわないな」

 

 わざと恩着せがましく溜息を吐いた僕に、ナターヤはさらに畳み掛けた。

 

 「でも仲間は既に、このデータを狙う北が差し向けた追っ手にマークされていると思うの。あなた、体術の心得や武器の扱いは習得してる?相手の目的はあくまでもデータのみだから・・・」

 

 「つまり、殺人も厭わない・・・と、そういう事?」

 

 うんざりだ。僕が何だってこんな事をしなくてはいけないのだろうか。でも一度兄が助けると約束している以上、その目的の達成に自分は力を貸すべきで・・・・。

 

 「仕方ないなあ・・・。じゃあ、卑怯なようだけど取引だね」

 

 「どうせ、協力する代わりにエドワードさんのことは諦めろって言うんでしょう。分かってるわよ」

 

 腕を組み唇を尖らせて、如何にも面白くないといった表情で言う彼女に、流石に驚いた僕だ。つい一昨日アレだけの啖呵を切った彼女が、何故こうもあっさり頷くのかと、その心情を理解しかねた。

 

 「ただし、私からは動かないって言う条件よ。エドワードさんが私に近付いてくる分は見逃してもらわないと困るわ」

 

 「いいよ。それでいこう。でも僕がこの件で協力する事は、兄には言わないで。いいね、約束だよ」

 

 もし兄がこれを知れば、いまだ錬金術が使えない僕を庇って自分の身を犠牲にするのは考えるまでもない事で、つまりこの目論見は目的を達成するまでの間、決して兄に知られてはいけないのだ。

 

 「交渉成立ねアルフォンス。頼りにしてるわよ、同志!」


 右手を差し出しながらにっこりと笑いかけてくる力強いその笑みが何処となくマイラー=フォーグルを思わせ、その容貌に似合わず豪胆な性格をしているのかもしれないと感じながら、僕は握手に応じた。

 



 










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