ひかりへと続く扉2〜A守りたい
俺の記憶している限り、弟のアルフォンスが泣いている姿を見るのは大人になってからは今日で2度目だ。それこそ、まだ母親が死んだばかりの頃は、度々泣いていた弟を兄の俺が慰めていたものだったけれど、その俺と身長が並んだ途端、奴は急に涙を見せなくなった。だから、もう長いことアルフォンスの涙に免疫のない俺は、先刻のように泣かれるとどうしたら良いのか分からずにとても狼狽するのだ。
でも、アルフォンスが大人になってから初めて見せた涙も今日の涙も、同じく俺に対する感情から流したものだと思うと、そこにたまらない愛おしさと幸せを感じてしまう俺は、いい加減どこかイカレているのかも知れない。
男らしく筋張った、だけどいつも繊細な動きをする掌で顔を覆い涙を流す可愛い男の姿に、俺の中にあるかも定かではなかった母性本能らしきものが覚醒したらしい。まるで赤ん坊を慈しむような気持ちで、いつもなら自分より頭一つ分高い位置にある弟の頭を胸に抱いた。
可愛い、可愛いアルフォンス。俺の、俺だけの、大事なアル。
その後、二人で笑って、キスをして、また抱き合って・・・・・・。ふと目をやった時計に、さすがにこれは拙いと大慌てで立ち上がり、朝っぱらから妙にこそばゆい雰囲気の中で、俺とアルフォンスは慌しく朝食を済ませた。
家から研究所までの道のりは、大人の足でのんびりと歩いて20分ほどだ。遅刻だ遅刻だと大騒ぎする俺に対し、今更少し急いだところで大して状況は変わらないのだからとゆっくり歩くアルフォンスの鷹揚さは相変わらずだ。この程度の事でこの男が慌てて走ったりする筈もなかったと思い直し、俺も腹を括って並んでのんびりと歩くことにした。
道すがら、話題に上るのは同僚の失敗談や研究室で起きたちょっとしたハプニングなど他愛ない内容のものばかりだったけれど、昨日までとは違い、今はもう二人の間で隠さなくてはならない事など何もなかったから、俺は本当に久しぶりにアルフォンスとの会話を楽しんだ。そうして、研究所の建物の外壁と同じ煉瓦で出来た重厚な造りの塀の前まで来たときだった。アルフォンスが、それまでコートのポケットに入れていた手を俺の頬に伸ばし、その長身を屈め冬の外気に晒されて冷たくなっているだろう耳朶に唇でそっと触れてきたのだ。塀の外とはいえ、よりによって職場の建物の真ん前でのこの行い。記憶を失くしていても、この男の無神経さは十二分に健在のようだった。
「お前!何・・・考えてんだよっ!仕事場の前だぞ?誰が見てるか分かんねえんだぞ?」
「ゴメンね。でも、下手すれば帰宅するまで顔が見れないのかと思ったら、無性に恋しくなってしまって・・・・お願いだから、もう少しだけ・・・」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!!!!」
健在なのは無神経さだけではなかったようだ。そう、例の、俺を骨抜きにするアノ声音を耳元で使われて、思わず膝から力が抜けたところを抱きとめられ、ロクに抵抗も出来ないまま唇を貪られた。
もうこうなったら、どうか今の俺たちを誰も目撃していませんようにと、天国の母に祈るくらいしか出来ない無力な俺だった。
そうして結局俺が自分の研究室のいつもの定位置についたのは、間もなく10時の休憩になるかという頃だった。というのも、塀の外でようやく苦労して自分の身体に纏わりつく弟のデカイ体を引き剥がしたものの、今度は研究所の入り口付近で襟首を後ろから掴まれ帰宅予定の時間をしつこく問い質された為だ。弟の所属する総務部が毎日ほぼ定時に終業を迎えるのに対し、研究部門はその時々によっては急遽泊まりこみ勤務になるなんて事もザラだったから、俺としてもその問いには答えようもないのだ。そう事情を説明すると今度は、自分の終業後は俺の研究室で何か手伝えることはないか、などと聞いてくる粘りようだ。仕方なくそれに頷いてやると、ようやく俺を解放する気になったらしく手を離した弟は、背を向けて自分の研究室へと向け歩き出した俺の後姿を、まるで飼い主から引き離された大型犬のような哀れを誘う表情でいつまでも見ていたらしい。これは後日、偶然この場面を目撃していたマイラーの口から聞かされたことだけれど。
そして案の定、夕方の一応定められている終業時刻間際になってから、他部署から大量の分析の依頼を回されたのだが、当然大幅な遅刻をやらかした俺がコレを引き受けるのが筋というものだろう。口ばかりで碌に役に立つわけでもない邪魔な年寄り共を先に帰らせた室内には、俺とあとは自分の手持ちの業務の後片付けをしている研究員が数名いるだけで、閑散としたものだった。
デスクの上に、必須分析項目などを記した分析依頼書とサンプルを、分析方法別に大まかに分類しながら並べていく。同じような分析方法をとるもの毎に流れ作業的にまとめて分析をかけていけば、手間も時間も大幅に短縮できるからだ。ただ問題は、そのサンプルの数の多さだった。普通にまともにやれば徹夜でやっても明日の昼頃に終わるか終わらないかという量なのだ。分析データを取った後で、それらを集計し分析報告書を作成する人間に回すことも考えると、明朝までには終えておきたいところだった。さてどうしたものかと方法を考えていると、常時開け放したままのドアをノックする音がして俺は出入り口に目を向けた。そこには大きな紙袋を手にした弟が、室内を覗き込むようにしながらこちらに笑みを向けていた。
指の合図だけで“入って来い”といってやると、人好きのする笑顔で他の居残っていた研究員たちに挨拶をし、俺の隣にやってきた。
「どう?」
「やっぱりだ。今日は帰れそうもねえ。こんだけ、明朝までに分析上げておかなくちゃなんなくなった」
言いながら人差し指でトントンとサンプルを陳列した机を叩いて見せると、弟は一緒に並べてある分析依頼書をまじまじと眺めはじめた。錬金術に関する知識だけではなく、その土台となる基礎的な知識さえほとんど失ってしまった弟が、それらを取り戻すべく連日深夜まで様々な分野の学問の本を広げては熱心に見入っているのを俺は知っていた。けれど、あれだけキレイに記憶を飛ばしてしまった人間がその後いくら必死に勉強をしたからといって、この専門用語ばかりが並ぶ書類の内容をそうすぐに理解できるようになるとは思えなかった。それでもこのサンプルの山を前にして、手は多い方がいいのだから単純な作業くらいは手伝ってもらおうかと考えていたその時だった。
「・・・・・・じゃあ、僕は先にこの分類の山をやらせてもらおうかな。他のは溶出に少し時間がかかりそうだし、遠心分離機がこれ一機だけだとあとがつかえるかも知れない。振とうと撹拌の時間を表にしたものがあると助かるんだけど・・・・・・・」
独り言のように、それでもてきぱきと、およそ一般人が普段使わないような用語を自然に使う弟の横顔を、俺はあっけにとられるように見上げた。
「聞いてる?兄さん。検液の含有物質毎の振とうと撹拌の時間の表は?」
「お前・・・・何?何でこの依頼書見ただけで分析の工程まで分かってんの?そこンとこだけ記憶残ってたのか?」
「何言ってるの。僕がどれだけ必死に勉強していると思ってるの?」
いかにも心外だという風に言ってくるけれど、記憶を失くしてからまだ一ヶ月程度しか経っていないということはつまり、その短期間で知識がほぼ皆無な状態から分析に関わる専門的なレベルまでに独学で到達しているという事で・・・。
「お前・・・・天才?」
「努力の賜物」
驚いて本気でそう聞く俺に、事もなげに答えながら爽やかに笑いかけてくる弟の表情に不覚にもドキリとさせられてしまった。この弟は、兄の俺から見ても時々とんでもない程格好よく見えるから、困る。
その後、実践的な知識のない人間とは到底思えない手際の良さで次々にサンプルを処理していく弟の動きを見ていた研究員達も驚いていた様子だった。皆それぞれ特に用事がある訳でもなさそうで、結局そこに居残っていた全員で手分けして分析作業をこなした。途中、用意周到な弟が大量に持ち込んでいた差し入れ用のサンドイッチとコーヒーで休憩を取ったけれど、それでも予想より早く全ての分析が完了し研究所に泊まり込むことを免れた俺は、後日この面々と弟に酒を奢る約束をさせられた。
その後弟と二人で家へと帰り着いたのは、とっくに午前を回った時刻で、シャワーを浴びベッドに横になると、自分で意識していたよりも疲労していたらしく、瞬く間に睡魔に襲われものの数秒で寝入ってしまった。
それからどれくらい経った頃だろうか。自分以外の人間の気配にふと目を開けると、睫が触れそうなほどすぐ目の前に、生成りの木綿のパジャマがあった。いつの間に入ってきたのか、その上ご丁寧にも弟の胸にしっかりと抱きかかえられるようにされていたのに、全く気付かずに眠っていたようだ。
目の前にある温もりにそっと頬を寄せると、アルフォンスが確かに生を紡いでいる証・・・・鼓動が、耳に心地よく響いてくる。
この温かい身体を失って魂だけの寄る辺ない存在だった弟と過ごした過去の日々を思った。無理やり鎧にその魂を定着させるなどという荒業で弟をこの世に繋ぎ留めることが出来たこと自体が、今にして思えば奇蹟だった。幼さ故、無知故に犯した罪の代償で失ったものを取り戻したのは、皮肉にもまた、幼いが故にこそ持つことが出来ただろうその貪欲さだったのかも知れない。
例えようのない不安の中にあった、あの日の自分達。それでも真っ直ぐに前だけを見て、いつかきっとこの身体を取り戻すのだと信じて歩き続けていた自分のあの強さは、全て弟から貰ったものだった。自分ひとりならきっと、とっくの昔に挫折し、歩みを止めていただろう。アルフォンスがいなければきっと、俺は俺でいられなかった。扉の向うに持っていかれた弟の魂を引き戻した時点で俺は、既に本能のようにそれを理解していたのだ。弟が、アルフォンスがいなければ生きていけない・・・・と。
冷たい、ザラリとした感触の、硬い鉄の塊に凭れて眠った。時々さり気なく背中にあてられるなめし革の手指がくれる安堵感を、今でもはっきりと覚えている。怒れば手加減なしで俺に拳をふるい、楽しければ表情のない鎧の顔で笑った・・・・。苦悩、憤り、悲しみ、不安、そしてどこまでも付きまとう罪の意識・・・・・・すべて二人で分かち合って乗り越えてきた。信頼なんて生易しい言葉では言い表せないほど、互いを信じあっていた。このときはまさか、その気持ちがやがてこんな変貌を遂げることになるとは夢にも思っていなかったけれど・・・・・・。
「・・・・アルフォンス・・・・・」
愛しているよ。
いつもコイツが俺にするように、その心臓の上に唇を押し当てた。
「・・・・なあに?兄さん?」
と、眠っているものとばかり思っていた相手から囁くような声をかけられ、俺は内心焦った。まさか、たった今した恥ずかしい素振りを見られてはいなかっただろうか・・・と。
「お前、いつの間にひとのベッドに潜り込んだんだよ」
わざと必要以上に不機嫌そうな声で俺が言うのに、きっと全てお見通しなんだろう弟の静かな声が「ついさっき」と笑いを含ませながら応えてくる。
「ごめんね、寝る前に兄さんの顔が見たくなって・・・・でも顔を見たら今度は一緒に寝たいなと思っちゃって・・・」
起こしてしまったねと言いながら、毛布と上掛けごと俺の身体をもう一度しっかりと抱きこんでくる弟の声には、確かに寝起きの人間特有の掠れた様子がなかった。
「いつもこんな遅くまで勉強してんのか?身体壊すぞ。大概にしとけ」
「平気だよ。兄さんが僕を丈夫に錬成してくれたんだから・・・・」
「無茶すんな、生身なんだからどうにかなってからじゃ遅ぇんだぞ?」
「・・・・・兄さん・・・・・ごめんね」
突然脈絡のない言葉を囁く弟の声に顔を上げると、やや細められた金の双眸がこちらに向けられていた。
「・・・・・・・・・・・何がだよ?」
「僕のしていた研究が元でこんな事になってしまって。僕は覚えてないけど、あの日2箇所に銃弾を受けて瀕死の状態だったっていうあなたの姿を思い浮かべたら・・・・・」
「アル、止せ」
「不安なんだ。もしまたそんな事態が起きたら、今の僕ではあなたを守ることも助けることも出来ない。そればかりか足手まといになってしまうかも知れない」
失ってしまった錬金術が如何に自らの礎の多くの部分を占めていたのか、それを失くしたアルフォンス自身が一番良く分かっていたのだ。だからそれを何としてでも取り戻そうと、らしくもなく躍起になっているのだろう。それもすべて俺を守りたいが為に。胸が温かいもので一杯になり、だけど同時にその温度が痛みに変わる。
アルフォンスは、まだ知らない。たとえ身を削るような努力をして知識を蓄えたところで、錬金術をその手に取り戻すには決定的に足りないものがあるということを。
術を発動する為の最後のパーツであるインスピレーション。かつては弟の中にあったあの清らかに流れゆく水のイメージは、俺の中にある。
それを今、伝えるべきだろうか。
お前がもう一度錬金術を使えるようになる望みは、もはや無いに等しいのだと。
いや、俺が伝えるまでもなく、弟が自ずからその答に到達する時はまもなくやってきてしまうだろう。
でもいいんだ。いいんだよ、アルフォンス。お前はその“力”と引き換えに、俺に命をくれたんだ。だからこれからは、俺がお前を守ってやるよ。
らしくなく頼りなげな目をする弟の頬骨に、伸び上がって唇を寄せた。
「心配すんな、あんな事は二度と起こらねえから。それに、今のお前は分からねえだろうが、俺たちはハンパじゃねえ修羅場を生き延びてきてんだぜ?錬金術が使えないくらいで弱気になる事なんか・・・・」
その後に続くはずだった俺の言葉は、突然重ねられた唇に絡め取られてしまった。離れそうになってはまた深く貪られ、角度を変えては何度も何度も繰り返される行為に、俺は抗う事無くただ身を任せた。
いつまで続ければ気が済むのかという程の長い間、唇と咥内を弟の熱い唇と舌で愛されながらも不思議に性的な情動が湧くことはなく、それは相手も同じようだった。ただ、途方もない幸福感が全身をあますところなく包み込み、満たされていることを実感していた。
唇を離すその短い間々に、弟の囁きが零れては俺の耳に落ちてくる。
「兄さん・・・・・兄さん・・・・・・いなくならないで」
ああ何だか今日のお前は昔の小さな頃に戻ってしまったかのようだ。
「あなたが・・・・いなければ・・・・僕は、生きて・・・・いけない」
まだ人目をはばかる事無くよく涙を見せていた頃の、頑是無い子供のアルフォンス。
「愛してる、愛してる、愛してる、愛してる・・・・・・・アイシテルヨ」
大きな身体を丸めて俺にしがみつきながら子守唄のように囁き続ける弟の腕の中で、ふたたび降りてきたまどろみの戸張にいつしか俺の意識は心地よい闇へと引き込まれていた。
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