ひかりへと続く扉2〜@僕の為の痛み
髪に指が差し込まれて、そのまま撫でるように梳いていく。一回、二回・・・・・・三回・・・・・。
その優しい触れ方が心地よくて目を閉じたままの僕の額に、唇が押し付けられる。キス・・・・ではなく、体温を測っているらしい。シャワーを浴びてきたのか、シャンプーの香りがして、まだ少し湿った髪の先が頬に触れる。それが離れていくと、今度はさっきまで髪を撫でていた両手の指先が首のリンパ腺の位置を探っている様子だ。
あの事件後、この家での生活を再開した最初の数日は毎朝の日課だった兄のこの行動。普通の兄弟間でならばありえない習慣だと気がついたらしい兄が意識的に僕に触れることを避けるようになってからの事だから、これは久しぶりの嬉しい感触だ。
まだ僕の頬に触れている両掌をそっと捕まえると、本当に僕が目を覚ましていたことを知らなかったらしいその人がビクリと反応するのが可笑しくて、思わず笑ってしまった。
「何だよ・・・・・!起きてるなら起きてるって、ちゃんとそう言えよ!」
「怒らないで、今起きたんだよ・・・・おはよう、兄さん」
僕がそういって微笑みかけると、兄は驚いたような、困ったような、泣きだしそうな、そんな複雑な表情を浮かべ、やがて向日葵のような盛大な笑顔を返してくれた。
「はよ。まずはシャワー浴びてきちゃいな。そんで、メシにしようぜ」
すん、と鼻を啜りながら背を向けると足早にドアの向こうへと姿消す様子を眺めていた僕は、ああそうか、と納得する。
昨日までの僕が、毎朝大抵キッチンにいる兄に最初にかけていた言葉は、「おはようございます、ニイサン」だったのだ。そんな風に僕が無意識に紡ぎだす他人行儀な言葉の端々に距離を感じ、その事に傷つきながらも、それを悟られないように無理に明るい笑顔を作っていたのだろう。でも、今のあの人の笑顔は本物だ。それが、たったそれだけの事が、堪らなく嬉しかった。
バスタブには、たっぷりと湯が張られていて、バスオイルを使ったのか、浴室にはハーブの香りが心地よく漂っていた。この湯を張ってから、自分も先に入浴を済ませ、今ではキッチンで朝食の支度の途中という様子だった兄は、いったい何時頃から起きていたのだろうか。この穏やかな朝を迎えた事で、ともすれば隅に追いやられてしまいそうな昨夜の一件。途中からは極力兄の身体に負担をかけないようにと気を配ることはしたものの、その前には僕の乱暴な仕打ちを受けている身体が辛くない筈はないのだ。ぼんやりとして、そんな大事なことを失念していた自分自身に舌打ちし、僕は大急ぎで身体を洗い終えると、まだ水滴が残ったままの身体に服を纏い兄のもとへ向かった。
「兄さんごめん!そんな事僕がやるから・・・・・」
そう声をかけながらキッチンへと足を踏み入れると同時に、ガシャンと金属製の何かが床に落ちる音が響いた。見れば床には水濡れのレタスと小振りのトマトが転がっていて、それらが入っていた金属製のボールを兄が取り落としたのだと分かった。やはり今日も、僕がいなければ水を使う作業まで自分でこなすのだな、と思いながら兄の足元に散らばった物たちを拾い集める。
「兄さん、やっぱり手袋したままじゃこういう作業は難しいと思うよ・・・?」
と、目を上げた先には、苦笑いをした兄の表情があって、そしてその兄の手からは手袋が外されていた。しかしどういう訳か、その両手ともを握り込んで、不自然な動作で傍らにあったタオルを手に取ると「わりい、それ片しといてくれ」とだけ言ってキッチンを出て行ってしまった。
その兄の不可解な行動を訝しみながらも、とりあえず目の前のものに始末をつけ、まだ途中だった朝食の支度を引き継いだ。茹で上がっていた卵の殻を剥き、既に刻んであったピクルスと玉葱が入ったボールに入れる。オーブンにサーモンのグリルが丁度焼きあがっていて、どうやら兄は、これに添えるソースを作っていたらしい。珍しく、朝からずいぶんと手間の掛かる事をするものだ。でも何故か、出所の分からない面映ゆい感情が湧いてきて、僕はひとり頬を緩ませていた。
それを見つけたのは、盛り付けた皿を手にダイニングのテーブルに足を向けた時だった。視界の下の方を白いものが掠めたような気がしてそちらに目をやると、床には兄が落としたままになっているらしい手袋の片方があった。おそらく、先刻水を使う際に外した手袋の片方を落としたまま、気付かずにいたようだ。手の皿をテーブルに置き、落ちていたそれを手に取ると、ところどころに血のような染みがあることに気が付いた。もしやと思い、その手袋を裏返して見れば、至る所に乾いた血がこびり付いていたのだった。
いつでも手袋をしていたからといって、何故それに気が付かなかったのか。そもそもどうして手袋を常に着用していた兄のその不自然さに、自分は目を向けなかったのか。
「わりぃ!メシの支度途中で放っぽり出したまんまで・・・・・・アル?」
そこに丁度戻ってきた兄が声をかけてきて、見ればまたその手には新しい白い手袋がはめられていた。
「兄さん。ごめんね、ちょっと見せてね」
「え・・・・な、なんだ・・・っ?」
素早く後ろに回りこんでその人の身体を両腕の中に抱きこみ、右腕を固定して手袋を取り去った。僕の意図を察したらしい兄が、左手で自分の手を掴んで見られまいとしたけれど赦さなかった。
「・・・・酷いよ。これ、どうしたの?」
「別に、どうもしねえよ。もう治りかけだし、気にするほどの事じゃねえだろ」
「そう?じゃあこっちは?」
言いながら強引に左の腕を掴みあげてそちらの手袋もとってみれば、案の定・・・・・・・。
その両手の指先や甲の部分には、まだ塞がっていない生々しい傷が無数にあって、中にはすっかり肉が抉り取られているような酷いものまであり、親指の爪などは剥がれかけてしまっている。
「一体何したら、こんな傷ができるの・・・・!?」
つい詰問口調になりそうな自分を押さえながらの僕の問いかけに、兄は気まずそうに目を逸らしてボソリと歯切れ悪く答えてきた。
「え・・・・・あれだろ?ほら・・・アレルギー・・・?」
「あのね。もう少しマシな嘘はつけないのかな・・・・」
ため息交じりに言いながら、まだ腕の中にいる兄の肩越しに、その掴まえた両手をあらためて見る。
「どう見ても咬み傷でしょう。しかもこれはヒトの歯型・・・・・誰かにこんな事されるあなたでもないだろうし・・・・・・・ん・・・?」
相変わらず背けたままでいる顔を伺い見れば、真っ赤になっている上に、じわりと汗までかいていた。
「・・・・・・お前・・・・ほんと、ヤな奴だ・・・・・・・」
「兄さん・・・・・?」
「ああ、そうだよ。気がつくとヤッちまってたんだよ。で、あんまりみっともねえから手袋で隠してたってワケ。ははっ!馬鹿だろ?こんな兄貴で幻滅しちまったか、アル?」
あの手袋の染みを見つけた瞬間に何となくそんな気はしていたけれど、まるで何ともないような明るい口調でそれを言う兄に、僕の胸は痛んで仕方が無かった。
兄の両手にあるそれらは、紛れもなく自傷行為と呼ばれるものによる傷だ。大きな心の苦しみから逃れようと、無意識の内に現実の肉体を傷つけ、その痛みに縋っていたに違いない。
相当強く噛み締めたのだろう。中には、骨まで達してしまいそうな深い傷まであった。その痛みですらも、“安らぎ”だと錯覚してしまうほどの“苦しみ”とは如何ばかりだったのか・・・・。
時折、夜中に階下で物音がすることには気がついていた。てっきり水か何かを飲みに降りているだけかと思っていたけれど、そうではなかったのだ。僕に気付かれないように、あの暗く寒いダイニングのテーブルで。あるいは静まり返ったリビングのソファの隅で。身の内にある堪えようの無い苦しみとたった一人で闘っていたのだろう。
それなのに、朝になればまるで何事もなかったような明るい笑顔で僕が好きだといった紅茶を淹れ、その手で朝食の準備をし、甲斐甲斐しく僕の食事に気を配り、他愛ない話をしては楽しそうに笑ったりして・・・・・。
駄目だ・・・・・・・・目が、熱い・・・・・。僕は、片腕で兄の身体を抱き締めたまま、思わず掌で顔を覆った。
この人の苦しみはすべて僕の為だけにあって、だけどその痛みに耐える姿は僕にだけは見せてはならないもので。それでもこの人は、自分の持てる愛情の全てを、弟に向けるものとしての形に作り変え、懸命に差し出してくれていた。
「・・・・・アル?おい、どうした?ちょ・・・・な、泣いてンのか、お前っ」
腕の中で身じろぎしながら聞いてくる声に応える余裕など無かった。涙腺が壊れてしまったのではないかという勢いで涙が流れ出して、それが止まらないのだ。
切ないのか、嬉しいのか、悲しいのか・・・・・・自分でも全く理解出来ない感情に晒されていて、ただ、胸だけが苦しくて、痛かった。
やがて兄は、何も応える様子の無い僕の腕をそっとはずして身体の向きを変えると、僕の肩に両手を置いて床に跪かせ、母親のような仕草で僕の頭を胸に抱きこんだ。そして、僕の髪やこめかみや、前髪をかき上げて露わにした額に、何度も優しく唇をあてながら囁いてくれる。
「アル、アル・・・・・泣くな。ごめんな、お前がそんな風に辛く感じる事なんかないんだ。ごめん、ゴメンな。こんな兄貴で・・・・ほら、そんなデカイ図体でメソメソすんな。イイ男が台無しだぜ?」
「あ・・・・・なたの、泣き虫が・・・・感染った・・・」
苦し紛れにそう言い返したら、それまでの思いやりに満ちた仕草は何処へやら、乱暴に両耳を引っ張られた。本気で痛い。
「オウ?この俺が、“泣き虫”だと言いやがったな?」
「でしょう?昨夜あれだけ大声でわんわん泣いた可愛い人は、何処の誰?」
「お前だ!」
「ふ・・ふふ・・・っ!兄さんの記憶喪失のほうが重症みたいだ!」
「お前のが感染った」
・・・・こんな風に二人で声を上げて笑うのは、記憶を失くした僕にとっては初めての事だった。ひとしきり笑ったあと、視線を合わせ、どちらからともなく顔を・・・・唇を寄せ合い、柔らかいキスをした。
唇に、鼻先に、頬に、瞼に、眉間に、そしてまた・・・・・唇に。
テーブルの上の冷めてしまった朝食を食べて早く仕事に行かなくてはと、頭のどこかでは考えているのに、身体がいう事をきかなかった。床に座り込んでいる僕の頭を膝立ちの兄が大事そうに胸に抱え込み、僕は自分の口元にある兄の傷ついた指先に唇を寄せて・・・・・本当に長いこと、ただ、ふたりでそうしていた。
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