ひかりへと続く扉2-O〜告白

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 内容は全く覚えていないけれど、僕は長い夢を見ていたらしい。

 

 

 僕を現実へと引き戻したのは、掠れた嗚咽と、胸に感じる温かな重みと、そして愛してやまない人の香りだった。それとも、僕はまだ夢を見ているのだろうか・・・・・?

けれど、この頬に触れる金の髪の感触は、紛れもなく僕の肌が覚えているのものだ。

 

「ふ・・・・・・・う・・・・・ヒッ・・・・ク、・・・ア、ル・・・・・・・」

 

僕の名を呼ぶ、その愛おしい声。

 

首筋には、涙の雫がぽたぽたと落ち、下へと伝っていく感触があった。

 

ああ、泣かないで。お願いだから、そんなふうに泣かないで・・・・胸が痛いよ。

 

 

 

不意にその温もりが離れていく時、僕は無意識に聞いていた。

 

 

「どうして、泣いているの・・・・・・?」

 

 

「アルッ!?」

 

 

驚いた表情のまま、その人は僕の眼を暫く見下ろしていた。狭いテントの中は、小さなランタンの揺らめく明かりだけが頼りの薄暗い状態だったから、今が夜なのだということだけは分かった。あの爆発の衝撃を受けてからどれくらいの時間が経過しているのだろうか・・・・・・・・・・いや、それよりも         

 

どうやら僕は、無事に生還できたらしい。あの土壇場で、僕はこの目の前にいる愛しい人の姿を最後まで思い描いていた。そして目を覚ましてみれば、現実にその人がこうして近くにいてくれている。

 

身体のあちこちに多少の痛みを感じながらゆっくりと身を起そうとすると、兄が控え目に僕の肩に腕を回して、それを助けてくれる。再び間近に感じるその香りに、思わず目を細めた。

 

触れたい。抱きしめてしまいたい。

 

だけど、もうこの人は                 

 

そう思い、唇を噛んだその時だった。

 

 

「アル・・・・・・・ッ!」

 

切羽詰った掠れた声で短く僕の名を呼びながら、兄が僕の背に腕を回し強く抱きしめてきたのだ。顎の下に触れる、僕の大好きなその髪の感触に眩暈がしそうだった。

 

・・・・そうか。恋人ではなくても、あんなに酷い仕打ちをした男でも、この人にとって僕はまだ、無事を喜ぶべき存在のままでいるらしい。そう思い、戸惑いながらもそっと手のひらをその小さな背に回した。

 

 

「アル、アル・・・・・・良かった・・・・・・俺、お前がいなくなっちまったら・・・・・そう考えたら怖くて、どうにかなっちまいそうだった」

 

「兄さん、ゴメンね。心配・・・・してくれたんだよね・・・・」

 

僕がぽつりとそう呟いた途端、兄は物凄い形相になって此方の胸倉を乱暴に掴み上げてきた。

 

「何言ってんだお前!?俺が心配しないとでも思ったのか!?俺がどれだけお前のことで一杯いっぱいになってるのか、お前は全然分かってねぇ・・・・・!いいか?俺にはな、お前より大事なものなんか何一つねぇんだぞ?」

 

表情も、その口調も明らかに怒っているのに、その金の目からは次から次へと涙がはらはらとこぼれ落ち頬を濡らしている。

 

「にい・・・・・さ・・・」

 

その頬に触れようと伸ばしかけた手を両手で引き寄せられ、手のひらに口付けられた。

 

 

僕はまだ・・・・・・こうして、あなたに触れてもいいの?

 

どうしたらいいのか戸惑う僕の手の平に濡れた頬を押し付けたまま、兄は言った。

 

 

「お前が嫌なら、気付かれないように内緒で付いてくよ。でも・・・・・・お前が死んだら、俺も死ぬ」

 

「兄さん・・・・・・っ!?」

 

「アル・・・・・・愛してる。お前を愛してる。お前がいなければ、俺がこの世に生きる意味なんてこれっぽっちもない・・・・・・・・だから頼む、あんな風に黙って俺の前から去らないでくれ。俺の事を恋人と思えなくなったとしても、それでもいいから・・・・・兄弟としてでいいから、側にいてくれよ・・・・!!」

 

この人は一体、何を言っているのだろう。僕はすっかり混乱していた。

 

あなたの心は、ナターヤに移ってしまっていたのではなかったの?もう、僕に愛想を尽かしてしまったのではなかったの?こんな僕を、それでもまだ愛していると言ってくれるの・・・・・・・・・?

 

 

「恋人として愛せなくなったって、俺はお前の兄貴なんだぞッ!俺は、お前の傍にいられるなら何にだってなってやる。お前が望むなら父親にだって、母親みたいな存在にだってなってやる。嫌なら、もう無理して抱いてくれなくたっていい・・・・・・」

 

「ちょっと待って、何?恋人として愛せないとか、無理して抱くとかって・・・・・・・・・あ・・・・!」

 

あの最後の日、無理やりに身体をあばいた行為を、この人が曲解してしまっているのだと知る。僕の心が恋人から離れて、彼を抱く行為に嫌悪感を持ったから、あんな酷い抱き方をしたのだ・・・・・と?

それにしたって、何故この人はあんな仕打ちを受けてさえ、僕に恨み言を言うことすらせず逆に自分に非があるかのように感じてしまうのだろう。

 

「違う!あれは、僕が勝手にあなたの心を取り違えて・・・・・」

 

 少しでも早くその誤解を解かなければと、焦りながら紡ぎ出した僕の言葉を遮って、兄は言った。苦しそうにようやく搾り出したような、掠れた、切ない声で。

 

「俺の身体を愛せないのは、お前の所為じゃ・・・・・・ない・・・・。それが、普通の感覚、なんだ。お前を欲しがる俺の方が間違ってるんだ。だから・・・、それは、もう、いい。お前が生きて、俺の近くにいてくれたら、他に何もなくて、いい」

 

嗚咽をもらし、絶えず溢れ続ける涙を拭う余裕さえないまま、僕の砂埃で汚れたシャツの胸元を掴み、小さな肩を震わせている愛しい人。後ろで結んだ金の髪は解けかかって、幾筋もの金の糸が白い首や胸元を流れ、頼りなく震える濡れた睫毛から零れた涙が輪郭を滑り落ち薄紅色の唇までを濡らしている。ランタンの心もとない光りを反射させる金の瞳を真っ直ぐに向けてくる、僕の           恋人。

 

 

 堪らなかった。とても抑えることなど出来ない『抱きしめたい』という衝動のままに、僕は兄の体を掻き抱いた。

 

「アル・・・・・ッ?」

 

戸惑ったように声を上げ、腕の中から此方の顔を見上げてくるその唇にキスをした。深く・・・・・・深く、思いの丈を込めて。

 

「ン・・・・・・・・ウ、ンッ・・・・・・・ふ」

 

首を振って逃れようとする項に手のひらを添えて、さらに奥を味わう。弄るのではなく、この心が伝わるように唇を愛撫する。蹂躙するのではなく、より深く繫がるために舌で奥を舐め尽くす。

 

焦らずに、時間をかけ、この胸を締め上げている愛おしい気持ちを少しでも伝えようと懸命に愛撫を施したけれど、兄の体は依然強張ったまま・・・・いや、そればかりか次第にカタカタと小刻みに震え始めた。

 

一度唇を離し、その人の顔を見た僕は瞠目した。

 

濡れた唇を噛み締め、目をきつく閉じ、まるで裁きを待つ重罪人のような面持ちで身を硬くしているのだ。

 

 「兄さん・・・・・・・?」

 

 囁きながら頬に触れた僕の手のひらの感触にさえ、ビクリとその身を震わせている。あの夜、無理やり身体を引き裂いた行為が心に傷を残してしまったのだろうか。兄は、明らかに怯えていた。

 

 「僕が、怖いんだね・・・・・・ゴメン。あんな酷い事をしておきながら、また元通りにあなたに触れるなんてしてはいけなかったよね」

 

 「違う!怖いのは、お前じゃねぇよ!我慢して抱こうとしたお前が途中で嫌になって・・・・また、放っぽり出されるんじゃねえかって思うと・・・・駄目なんだ・・・・。だからこんなこと、もうしなくたっていい。無理しないでくれ、俺が惨めになるだけだ・・・・!」

 

 俯いて、両腕で自分の身を守るように抱きながら言ったその言葉に、僕は更なる衝撃を受けた。

 

 

 兄はあの夜、僕が最後まで抱かずに途中で止めたと思っているらしい。傷つけた身体を癒す為に施した錬金術によって行為の形跡や残滓までが分解されてしまった上、彼は途中から完全に意識を失っていた。そして目を覚ましてみれば、その場に僕の姿がないのだ。途中で放り出されたと思い込むのも、この人の思考の傾向から考えれば無理もないのかも知れない。

 しかしその理由について、僕が兄の体に欲望を感じなくなった為という結論にしか辿り着くことができなかったその人の脆弱さを垣間見て、僕は悲しくなった。彼をそこまで弱らせてしまったのは、紛れもなく僕の落ち度なのだろう。

 

 一人勝手に結論付けて、兄の心を置き去りにしたまま突き進んでしまった事の、これは代償なのだ。

 

 

 兄は、何か誤解をしているに違いない。僕が、兄の心がナターヤに傾いたと一人勝手に思い込んでしまったように。

 

 

 

 ・・・・・・・・・まさか・・・・・。

 

 

 その時、これまでバラバラだったパズルのピースが一斉に音を立ててあるべき場所へ次々と収まっていくかのように、自分の中の誤った認識が修正されていった。

 

そして・・・・・僕は新たに浮かび上がったその事実に驚愕した。

 

 兄も僕と同じように、僕がナターヤに心を奪われたと思い込んでいたのではないか。だとすれば当然この兄のことだ。一も二もなく身を引き、自分の心を殺して兄としての立場に戻ろうとするだろう。チェルニーに僕の性的な嗜好がノーマルだと(兄がチェルニーに言いたかったのは、つまりそういう事だろう)弁明したのも、いずれナターヤと相応の関係に発展した暁に、義兄弟となるチェルニーが障害にならないようにとの、彼なりの配慮だったのだ。

 

 

 

 

 「僕はもう、あなたを抱いてはいけないの?あなたは残りの人生を僕に抱かれないで過ごすことが出来る?」

 

 僕の言葉を聞き、虚を衝かれたように一度目を見開いた兄は、もう一度唇を引き結ぶと痛みを堪える表情でコクリと頷いた。それさえも・・・・・・全てが、僕を想うが故。

 

 「僕は出来ないよ。あなたを愛したい。抱きしめたいし、触れたい。繋がって、あなたが僕にしか見せないあの表情を何度でも見たい」

 

 「アル、何でそんな事言うんだ・・・・・・・」

 

 分からない、と首を振りながら困惑した顔を向けてくる人の頬に手を伸ばし、振り払われない事を祈りながらそっと触れた。

 

 「僕も、あなたも・・・・・・・言葉が足りなかった。ごめんね、愛しているよ、エドワード」

 

 「・・・・・・・・・・・・・!?」

 

 見開かれた金の両眼を熱く見据えながら、僕は続けた。

 

 「ここへ来る前日、僕はあなたが北の前線へ行かされると知ったんだ。それも、ナターヤの身の自由と引き換えに中将に頼み込んだのだと聞いた。あなたはそんなにまで彼女を愛しているのかと思ったら、嫉妬でどうにかなってしまいそうだった。ううん、きっとおかしくなっていた。無理やりあなたを・・・・・・犯した。僕は最低な男だ」 

 

 「アル・・・・何を言って・・・・・・・?」

 

 まだ混乱しているらしい兄の頬を愛撫しながら、僕の告白は静かに続いた。

 

 「途中で意識を失ったあなたを、何度も何度も・・・・・・・。終わってみれば、あなたはまるで死んでいるようで・・・・目も当てられないほど酷い状態だったよ。たくさん出血して・・・・・足の間も、背中も、シーツも、全部あなたの血で真っ赤になって・・・・・僕は一瞬あなたを殺してしまったんじゃないかと思った」

 

 兄が知らずにいてくれるのなら、そのまま隠しておきたい事実。これを知ったら、この人の心は僕から離れていってしまうのではと思いながら、僕は懺悔した。今、この心にあるもの全てをさらけ出さなければ、この先また僕達は同じ轍を踏むだろう。

 

 「もしあなたが僕のものでなくなる時がきたら、僕はあなたを殺してしまうかもしれない。覚えていて。あなたの目の前にいる男は、いつでもそんな狂気を抱えているんだって事を。例え逃げても、何処までも追いかけて捕まえて、何度でも教えてあげる。あなたは僕のものなんだという事を・・・・・」

 

 それは、今まで隠していた、僕の胸の内にあったものだ。こんな自分本位な激情を・・・・兄への狂気じみた執着を、僕は一生隠して生きていくつもりでいた。こんな想いは、兄にとって重荷以外の何物でもないだろうからだ。

 兄は、こんな心を隠し持っていた僕を知って、どう思うだろう。いつもの穏やかな表情の裏にある狂気の存在を知り、恐れを抱きはしないだろうか。

 

 僕の告白を黙って聞いていた兄は、やはり呆然とした表情で何かを考えているようだ。沈黙が、肌に痛かった。

 

 そして漸くその口を開いた兄の言葉。

 

 「俺は・・・・・・・まだ、お前のものなのか?じゃあお前は?お前は俺のもの?」

 

 「あなたが望むなら、全てあなたのものだよ」

 

 

 その刹那、目の前の人が浮かべた笑顔に、僕は魅せられた。

 ふわりと、心から幸せそうに・・・・お前が愛しくて仕方が無いのだとでも言うような表情に、胸が張り裂けそうになった。

 

 「アル・・・・ッ!」

 

 そして次に、泣き笑いのような表情になったその人が、僕の腕の中へと飛び込んできた。痛い程の力で僕の背に腕を回してしがみ付き、額や頬を胸に押し付け、何度も何度も僕の名を呼ぶ。

 

 

 「アル、アル、アル・・・・・ッ!俺のアル・・・・!」

 

 「兄さん・・・・・・」

 

「アルが、俺じゃない誰かにキスするのなんか見たくない、その手が他の誰かを触るなんて嫌だ・・・・アル・・・・!アルに愛されないのなら、俺なんか存在している意味もない・・・・!俺だけのお前でいてくれよ。ずっと・・・ずっと・・・・!!」

 

 いつでも“弟の幸せ”を何より優先してきた兄が、自分の心の奥底にあったものを吐き出していた。

 

 『お前の為』でもなく、『兄として』でもない。

 この人自身が何を望んでいるのか、どうしたいのかを、切々と訴えている。

 

 

 

 今、初めて、僕達は互いの本当の心を確認し合ったのだ。

 

 

 自分だけが、この激しい想いにとらわれている訳ではない。この狂気じみた烈情は、等しく互いの身の内にあるものだと知る。いま、この時が、僕と彼が本当に結ばれた瞬間なのだ。

 

 

 乱れた髪の頭の後ろに手を添え引き寄せ、額に口付けながら僕は誓った。

 

 「生きている限り、この先何があろうと、僕の全てはあなただけのものだよ」

 

 その言葉を受けて、腕の中の恋人が同じように返してきた。

 

 「俺が生きている限り、例え何があろうと、俺の全ては・・・・・アル、お前たった一人だけのものだ」

 

 

 自然に目と目を合わせ、互いの唇を触れさせ・・・・・・ふと。儀式めいたその雰囲気に、急に照れくさくなったらしい恋人が頬を染める様の、なんと愛おしいことか。

 

 ここが野営の場でなく、危険のさ中でなければ、思う存分抱き合い愛を交し合いたいところだけれど、それは叶わない願いだ。勝手に熱を孕み始める正直な自分の身体が恨めしかった。そしてそれは相手も同じらしく、熱っぽい目で僕を見上げた後、居心地悪そうに視線をさ迷わせている。

 

 

 「・・・・・・帰ったら・・・・・・」

 

 「・・・え?」

 

 ぽつり、と。消え入りそうな声で、あらぬ方向を向いたままの恋人が言った。

 

 

 「滅茶苦茶に抱いてくれ・・・・・・・」

 

 

 

            ああ!!心臓が・・・・・・壊れてしまいそうだ。

 

理性を総動員して湧き上がる嵐のような衝動をどうにか押さえ込む。

 

 

 「何で・・・・ッ!今、この状況でそんな危ないことを言うの!?もしかして、まだ何か僕に言っていない不満でもある訳?」

 

 「し・・・ッ仕方ねぇだろ!?ついポロリと出ちまったんだよ!お前が妙に真面目腐った顔で語ったりするから、俺まで変なスイッチ入っちまったんだろ!」

 

 「あ、僕の所為にするの?絶対に出来ないこの状況を知りながらのその凶悪な誘い文句にどこか作為的なものを感じるのは、僕が汚れた人間だからなのかな?」

 

 「ああそうだな!お前みたいに腹黒い人間、そうそういるもんじゃねえ」

 

 つい先ほどまでのしおらしい態度はどこへやら、だ。顎を尖らせて可愛げのないセリフを吐く唇に手を伸ばし、親指でわざと官能を刺激するように撫でながら、この人が苦手とする声音を使い囁いた。

 

 「・・・・帰ったら、ご希望通り滅茶苦茶にしてあげる。もう手加減は要らないんだよね・・・・それは素敵だ。時間をかけて、思う存分愛してあげるよ。どんな声で啼いてくれるのか、今から楽しみだな」

 

 「ア・・・・・・ッおま・・・・え!汚ねぇ、ぞ・・・・!」

 

 感じてしまった恋人が身を震わせる様子が嬉しくて、思わず目を細めた僕がもう一度彼を抱きしめようとした時・・・。

 

 

 それまでの静寂を打ち破るかの如く発砲音が断続的に響き渡り、途端に大勢の男達の上げる声で周囲は溢れかえった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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