ひかりへと続く扉2-M〜暗転
地図やデータを元に机上の計算だけで割り出した掘削ポイントは実際に現場に立ってみると、予想を上回る厄介な条件下にあった。
そこは、木さえ満足に生えない切り立った50ヤード程の高さがある谷の底にあり、もしアンソー=ストーのような敵に狙われたらひとたまりもないような見通しの良い場所だった。なにしろ岩や乾いた土ばかりで、姿を隠せる木一本生えていないのだ。
状況によっては追加部隊の要請も可能だとの事で、第一陣のメンバーは錬金術師として僕とチェルニーが。他に爆発物の専門知識を持つ軍曹が一名に、周囲の見張り等の要員として3名の上等兵。たったこれだけの人間で構成されるチームだった。これに実際の掘削作業に携わる、旧体制派からの有志によって集められた20数名が現地で合流した。
ポイントに到着すると、僕とチェルニーは早速データと現状の照合をした。掘削ポイントはどうやらこの切り立った崖の壁面を30ヤード程度掘り進んだ先の地中にあるらしい事が分かった。
「まずはこの岩壁を掘るのか?こりゃあ手間だなァ」
エクサンドエルの掘削要員のリーダーが何とか他のポイントを割り出せないかと言ってきたが、此方の調べによれば他の掘削の可能な場所はここ以上に人目につき易い地域にあって、秘密裏に作業をする事はとても出来そうにないのだ。
チェルニーがエクサンドル語で作業の工程を説明する一方で、僕は早速錬金術を使って一部の地質を変化させていく作業に取り掛かった。一度に沢山の範囲を行えないために少しの時間も惜しかったのだ。掘削作業中の落盤を防ぐ為に、術の範囲を厳密にするよう注意しながら慎重に進める必要があった。ある程度済んだところで実際に掘削作業をし、掘り進んだ場所は再び錬金術で頑強な物質へと錬成し直していく、といった具合だ。
「思ったより手間取るな。錬金術師の数がもっと欲しいところだね。夕方の定期連絡で錬金術師の増員を要請してみようか」
「そっすねーこれじゃあカラダ持ちませんよ。あ、主任、そろそろ休んで下さい。俺、代わります」
研究室の主任であったのは過去のことなのに、未だに僕への呼びかけを『主任』と言って譲らないチェルニーは、まだ作業を始めてから一時間も経っていないからと言う僕を強引に仮設テントの方へと押しやり、岩の壁面に錬成陣を書き込んでいる。昨日の早朝、アルコールが抜け切らず調子が悪かった僕の体を心配しているのだろう。
セントラルから汽車で半日。そこから車でもう半日。丸一晩かけ徒歩で国境を越え、途中馬に乗りさらに半日。ほぼ休みなしの移動に次ぐ移動で、確かに身体は疲労を感じていた。これから何日続くか分からない作業の為に、ここは少しでも疲労を蓄積させないよう休養を取るのが最善の策だろうと考え、僕はチェルニーの厚意に甘えることにした。
仮設テントの中にあるシートに横になり、目を閉じた。すると後から後から浮かんでくるのは、当然のようにあの人の事ばかりだった。
いつでも僕のことばかりを気に掛けて、自分の事を疎かにしてしまう兄。昔は取っ組み合いの喧嘩を良くしたなんて聞いていたけど、恋人になってからの記憶しかない僕にとっては想像できない事だ。いつでも傷つけないように、慈しむように、思いの限り大事にしたい愛しい人なのだ。今のあの人に手を上げることなんて、考えられない僕だ。それなのに・・・・・・・・。
一昨日の夜、何故兄は僕の手から逃げようとしなかったのだろう。ろくに慣らすこともせず力任せに押し込まれ、思いやりの欠片さえない一方的な行為をその身に受けても、僕を止めようともそこから逃げようともしなかった。閉じた目から涙を流し、最後の方は喉を嗄らして悲鳴にさえならない声を上げ、耐えていた姿。淡い明かりに照らされ浮かび上がった鎖骨や肩の陰影が作るラインが、まだはっきりとこの目の奥に残っている。
彼は、あんなに華奢な肩をしていただろうか。腕や脚は、あんなにほっそりとしていただろうか。そういえば、もう随分と長い間、同じデーブルでまともに食事を取ってはいないのだった。兄はその間、ひとりでちゃんとした物を食べていたのだろうか?
もう一度最後に、彼を抱きしめておけば良かった・・・・・・・。今この手に残るのは、あの夜乱暴に掴んだ両腕や、繋がる為に無理にすくい上げたひざ裏の悲しい感触だけだ。
僕は一生・・・・・こんな空しさを抱えて生きていかなければならないのだろうか。
不意にそんな思いに駆られてしまい、ぞっとした。
駄目だ、これではとても身体を休めることなど出来ない。
あの人と過ごした幸せな日々だけを思い出そう。せめて、夢の中でだけは。愛しい人と微笑みを交わし、想いを通わせ、指を絡ませ、唇でふれあい、熱を感じ合う。
兄さん。兄さん。兄さん 。
僕が望むのはあなたの幸せだけだと言いたいけれど、それは無理なんだ。
あなたとあなたが選んだ人が紡ぎだす幸せを、壊してしまいたくなるだろう自分が怖いよ。
僕の幸せはあなたと共にある事、ただそれだけなんだ。
でも、それはなんて贅沢な奇跡なのだろうね。
ようやく笑顔の兄の姿を思い描く事が出来た僕は、心地よい夢の世界へと逃げ込んだ。
2時間後目を覚ました僕が仮設テントから出ると、この計画を聞きつけ掘削作業を手伝いたいとエクサンドルの各地から反軍事化の運動家や同じ考えを持つ学生のグループなどが次々にやってきてはチームに加わった為に、総勢50余名の大所帯になっていた。チェルニーが硬質な岩壁をもろい物質に変換していく傍から、人の手により岩が削られ土が掘り出され、そして手際よく運び出されている。錬金術による前行程作業が追い付かないほどだ。既に夕刻の定期連絡は完了していて、軍からは錬金術師5名を一両日中には選出して送り出すとの返答があったらしい。
しかしそこで僕は、ある懸念を抱いた。兄は無機物を専門とする錬金術の第一人者だ。つまり、鉱物関係の錬成を得意中の得意とする錬金術師なのだ。軍は今回の追加派遣のメンバーに兄を入れてはこないだろうかと思うと、気が気でなかった。体力も、また身を守る術も人並み以上にある人だけれど、国境を越えてからここに辿り着くまでの間に何があってもおかしくない危険な状況なのだ。次の定期連絡は20時間以上先で、おそらくその頃には追加部隊は出発してしまっているに違いない。
適当な岩場でチェルニーと並び、携帯食料のクラッカーとパサついたチーズを薄いコーヒーで流し込む夕食を取っていた僕に、そのチェルニーから心配そうな声が掛けられた。
「エドワードさんなら、北の生っちょろい追っ手程度にどうこうされる訳無いっすよ。逆にとっ捕まえて組織ごと一網打尽・・・・なんて無茶をやる心配はあるかも知ンねーですけど」
「あれ、そんなに心配そうな顔しちゃってたかな・・・・・・うん、あの人なら心配は無用だとも思うんだけどね・・・・」
割り当てられた分だけはせめて腹に入れなければと、半ば無理やり飲み込みながら頷いた。体力の維持も任務の内だ。ほとんど空になっていたふたつの鉄製のカップにコーヒーを注ぎ足していると、チェルニーが突然ぽつりと切り出した。
「・・・・・俺、気になってたんですよ」
「何が?」
「主任・・・・エドワードさんと、まだぎくしゃくしてるんじゃないっすか?これ、俺が主任トコに居候しちゃったせいかもって、ちょっとだけ心配したんです」
確かに、チェルニーが僕たちの家に来たばかりの頃はまだ兄と僕との関係に歪みは生じていなかった。それが次第にすれ違うようになったのはチェルニーに原因があった訳ではなかったけれど、彼は状況から自分の所為なのではと、一人責任を感じていたのだろう。
「チェルニー君、それは違うよ。原因はもっと全然違うところにあるんだ、決して君の所為じゃない」
「・・・・俺、エドワードさんにもそれを云った事があるんです。そしたらね、エドワードさん主任との関係を『今までのことは全部自分が弟に執着した結果だ』って、『アルフォンスは普通の感覚を持った正常な人間なんだ』『誤解して欲しくない』って・・・・・まるで主任を擁護するみたいに言うんです。何でかな・・・・まるで俺が主任に不信感を持たないよう言い訳してるみたいで。とにかく、必死な様子でした」
チェルニーが、実の兄と恋人関係にあるからという理由で僕に不信感を抱くのなら、それはそれで仕方のない事だ。けれど幸いにしてチェルニーにはこの事実を容認してもらっている。だからそのチェルニー相手に、今更何を弁明する必要があったのだろうか。僕と兄の関係を『兄の一方的な執着によるものだ』と言い、僕が『普通の感覚を持った正常な人間』であるとチェルニーに思わせなくてはならなかった兄の意図とは、一体なんなのだろう。手の届く場所にあるように思えたが、すぐに明確な答えに行き当たれそうにない。
暫し考え込んだが、今はとにかく早くこの作業を終え無事に帰る事が最優先事項だと頭を切り替え、僕はチェルニーを促し立ち上がった。
このポイントに辿り着いた直後に作業に着手をしていたから、これでもう30時間以上延々と掘削作業をしている事になる。当初は覇気に溢れていた現場も、厳しい作業を続けた事でどの顔にも疲労の色が滲み出ていた。作業の工程は横穴を掘削ポイントまで掘り終え、地中の油脈に達するまでの鉄を多く含んだ頑強な地層との格闘が始まった処だった。錬金術師5名の到着は予定通りに行けばもう間もなくのはずだったから、僕とチェルニーは殆ど休む間もなく作業を続けていた。
「エドワードさんなら、もちっと効率よくやってくれるでしょう。そうしたら作業のスピードアップは確実っすね」
嬉しそうにチェルニーがそう言ってくるのに、僕は水を差すように答えてあげた。
「チェルニー君。甘く見てはいけない。それで楽をさせて貰えると思ったら大間違いだよ。あの人の辞書に“ペース配分”という言葉はないんだから、馬車馬のようにコキ使われるに決まってるんだ」
途端に苦虫を噛み潰したような顔をするチェルニーに笑いながら、暫し中断していた作業に戻る。
しかし、今チェルニーに言った『扱きを使われる』発言は、厳密に言うと正しくはない。兄は確かにペース配分を考えずに何事も全力で取り組む人ではあるけれど、決してそれを周囲に無理強いすることはないからだ。ただ、その身を削ってあまりにも一心に打ち込む様子に周りの人間達は不安を覚え、やがて手を貸すより仕方がないといった心理状態に追い込まれるのだ。そして結果的にはとんでもない激務に自主的に付き合わされることになる。良くも悪くも、周囲の人間を巻き込む台風の目のような存在の兄。
その兄を含む総勢10名の追加要員がセントラルから此方に向けて発ったという事を聞いたのは昨日の夕方、二回目の定期連絡の時だった。やはり僕が危惧した通り、兄は第二陣メンバーの筆頭に入れられていた。ただ救いは、同行するメンバーが皆一様に体術や武器の扱いに熟達した人間だという事だ。これならば万が一、道中襲撃されたとしても、余程のことがない限り上手く切り抜けられるだろう。
最後に目にした兄は、青ざめた顔で僕のベッドに力なく横たわる姿だ。医療錬金術で傷ついた部位の再生はしたけれど、その後の体調は大丈夫だったろうか。どんな顔をして会えばいいのだろう。兄はきっと何事もなかったように僕に接してくるに違いないけれど、僕はいざその人を前にして自分がどういうふうになってしまうのか分からなかった。けれど、今はこんな危険の最中にあるのだ。
そう、今はただ、あの人が無事にこの場所へと辿り着いてくれる事だけを祈ろう。そして無事に再会を果たした暁には、今度は自分が力の限り兄を守ろう。作業をしながらの僕の思考は、再び掛けられたチェルニーの声によって遮られた。
呼びかけに振り向くと、チェルニーは錬成陣を書く白墨を持つ手を止め、何かを考え込むようにしていた。
「何か、問題でも・・・?」
僕が問いかけると、チェルニーはわざわざ此方の耳元に口を寄せ、僕にしか聞こえない音量で話した。この直径が大人の身長の二倍程しかない穴の中には大勢の人間がひしめき合い、各々がスコップを手に無心に土や岩を掘り、またその掘り出した土を洞穴の外へと運び出していた。その作業の音が穴の中に間断なく響いていたから、多少大きな声で話したところで会話の内容を他の人間達に聞かれる心配は殆どないのだ。それを知ってあえてそうしたチェルニーの意図に、僕は周囲にさり気なく視線をやりながら耳を傾けた。
「俺、思ったんすけど。2,3人、見覚えがない顔があるような気がするんですよ」
僕が最初の休憩を取っている間、この採掘作業の噂を聞きつけ集まった同志達の人数は26人。皆互いに会合や集会などで顔を合わせたこともあり身元の確認が取れている者たちばかりだったけれど、僕は念の為にほぼ3時間おきに点呼を取り、彼らの所在の確認を行っていた。最後の確認は2時間ほど前だったから、もうあと一時間もすれば次の点呼を取る時間だ。僕とチェルニーは掘削要員と地中に向かって掘り進む穴の中にいた為、2人で休憩がてら上の様子をみようと縄梯子を登った。
「・・・アメストリスに来て長いとはいえ、俺も奴らの顔はある程度覚えてはいるんですよ。でもね、2時間くらい前からかな・・・・明らかに俺の知らない顔があるんです。最初は気のせいかと思って暫く様子を見てたんスけど、どうやら3人ほどあやしいのが紛れ込んでるみたいス」
確かに、これだけの人数を、しかも絶えず薄暗い穴の中を入れ替わり立ち代り動き回る人間一人ひとりに注意を配るのは不可能だ。途中で2,3人が紛れ込んだところでそれに気がつく人間はそういないだろう。
「特徴は?」
「赤い髪でグレーのシャツ。あとの2人は金髪で片方は濃い緑色のジャケット、もう一人の白いTシャツは口髭有り」
休憩に外の仮設テントへと歩いていく振りをしながら、すれ違う人間一人ひとりに視線を走らせた。チェルニーの言ったとおり、三人とも最後の点呼の時にはいなかった顔だった。チェルニーの記憶が正しければ、彼らは点呼のすぐ後に紛れ込んだのだろう。つまり、三時間おきに人員の確認を行っていることを知っていると考えた方が良い。だとすれば、行動を起こすのはその次の点呼で自分達の存在が知れてしまう前と考えるのが自然だ。その次の点呼まであと1時間を切っているのを腕の時計で確認した僕は、わざとのんびりした口調でチェルニーに指示を出した。
「そろそろ強力な助っ人が到着する頃だろうし、全員でお茶でも飲みながら彼らを待とうか?僕は中の人達を呼び戻してくるから、君はここの皆を外のテントのところへ集めておいてくれるかな」
「了解、上手いコーヒー淹れときます」
そういつもの軽い口調で言いながら、チェルニーの表情は緊張を滲ませていた。不安げな視線を寄越してくる厳つい肩をポンポンと叩いて笑いかけたあと、僕はすぐさま今自分がいた地中の掘削現場に戻った。
「休憩しよう、全員上に上がってきて」
僕の言葉に5,6ヤードは掘り進んでいる穴の下から声が返ってくる。彼らが縄梯子を上ってくるのを待ちながら、周囲に不自然な形跡がないか視線を巡らせる。
掘り進み、落盤を防ぐ為にその傍から錬金術で壁面を補強する作業を施していたから、壁面に何かを埋め込むことはおそらく不可能だ。だとすると、地面に何か細工を・・・・・・・・。
見つけた。
ソレは、縄梯子を固定する為に地面に打ち込んだアンカーボルトの直ぐ横にころりと落ちていた。
黒光りする小ぶりの真珠のような球体。
兄が危うく命を落としかけ、僕の記憶が兄へと流れ込んでしまった元凶である、あの石だ。
この5,6ヤード下の穴の中では何の支障も無く錬金術を使えていた。ごく限られた範囲内でのみその効力を発揮するものだということは、どうやら本当らしい。問題はこれをここに置いた人間が、錬金術を無効化した上で何をしようとしているのか、だ。
「やれやれ、追加の部隊の到着は?我々だけではとてもじゃないが手に余るなあ」
「まったくだ」
そう口々に言いながら出口へと向かって歩き出す彼らの後ろについて歩き出そうと、足を一歩踏み出した瞬間、それは起きた。
今向かっていた出口の数ヤード手前の地面が突然爆音と共に破裂する瞬間を、まるで映画のフィルムをこま送りするように僕の目は捉えた。そんな危機的な状況の中にあって、何故かその時僕の脳裏では、兄の明るい笑顔の映像が鮮明に浮かんでいた。
そして、土砂や砕けた岩が爆風を伴ってこちらに向かってくるのを見た直後、世界は暗転した。