ひかりへと続く扉2-L〜勇気
俺は激昂した。
生まれてこの方ただ事でない人生を歩んできた俺だが、この時ばかりは近年稀に見るほどに我を失い怒り狂った。まさしく鬼の形相だったろう俺が烈火の如き勢いで執務室に殴り込みをかけるのを見た周りの人間達が、その俺を取り囲み根気よく宥めなければ、今頃この執務室は原形を留めていなかったに違いない。
そして、その怒りの矛先にいるのは誰あろう、中央軍総司令官にして焔の錬金術師、ロイ=マスタング中将だった。
「その昔懐かしい三白眼で睨みつけるのはやめてくれないかね。肝が冷える」
「抜かすな!あんたがそんなデリケートなタマか。それより、一体どういう事なのか、納得いくまできっちりと説明してもらおうか」
「まあ、そんなに殺気立つものではないよ。そこにかけたまえ。幸い今日は暇な日だし、金髪の美丈夫とゆっくり茶を楽しみつつ愛について語らうというのもいい趣向かも知れないね」
「生憎アンタは俺のストライクゾーンに掠りもしねえよ。この部屋をアンタのドス黒い血で汚したくなかったら、下手なはぐらかしは止めておくんだな」
「酷いな、まるでその目で見たかのように決め付けている。私の血が黒いなんて、なんと心ない誹謗中傷か」
いつまでたっても不真面目な態度を改めない上官に、どうにか繕ったばかりの堪忍袋の緒が再び千切れそうになった。このままでは、目の前の男を本気でブチ殺してしまいそうだ。
・・・・・本当ならば、今頃北に向かっているのは自分である筈なのに。一体何故、こんな事になってしまったのだろう。
弟のベッドで目を覚ました俺はシャワーを浴び身支度を済ませると、そのままあの古びた革のトランクを手にこの司令部へとやって来た。俺はそこで形ばかりの辞令書を受け取り、用意されている筈の軍服に着替え、十数名の下士官や兵卒と共に北の国境付近にある軍事拠点へと出発する予定だったのだ。
それがいざ来てみれば、『上層部ののっぴきならない事情』により急きょ国境への派兵が取りやめとなり、まるでその代替のように編成された特殊任務チームがエクサンドルへ向け、つい先ほど出発したばかりであることを聞かされた。そして、そのチームの指揮官がアルフォンスなのだという事も。
北部の国境付近は、アメストリスの領地側にいてさえ常に命の危険に晒されるような場所だ。軍事化を急激に推し進めようとするエクサンドルは、戦争の火種を作ろうと躍起になっているのだ。だから、そんな国の領土に潜入し任務をこなすなどというのは、もはや狂気の沙汰としか思えなかった。中将はアルフォンスに口止めされているのか多くを語らなかったが、恐らく弟は俺が黙って北へ行くことを知り、すぐさまその作戦の代替案を提示して自分がその任に就く事を上申したのだろう。そして、俺に何も告げないまま北へと行ってしまった。
昨夜遅く、酷く酒に酔った状態で帰宅したアルフォンスの様子は確かにいつもとは違いすぎた。いや、ずっとそれ以前から、アルフォンスの態度はどこかよそよそしかった。俺と目を合わせなくなり、会話することも避け、向けてくる笑顔は明らかに心からのものではなく、また家にいる時間も少なかった。
俺は、それら全てが弟の心がサーシャへと移ってしまったことによるものだと思っていたけれど、そのサーシャを残して何故生きて帰れる保障のない危険な任務を自ら望んで買って出たのだろうか。
アルフォンスが何を考えているのか、全く解からなかった。最近のアルフォンスの行動すべてが、腑に落ちないのだ。思えばこうしてアルフォンスとの間がぎくしゃくし始めてから、一度たりとも心からの言葉を互いに掛け合っていなかった。俺は何か、大切なことを見落としてはいなかっただろうか。
「で、その掘削作業はどれくらいの日数で片付く算段なんだ?」
「さて。それは現場にいる人間にすら判らない事だろうね。私としては一刻でも早く採掘に成功し、彼らが無事に帰還することを願うばかりだよ」
依然眉間に皺を寄せたままの俺が発した問いでさえまたしても受け流すようにされ、最早この場に居る事は無意味と悟り扉に向けて踵を返したところで「そういえば」と、まるで世間話の延長のような緊張感のない声が言った。
「アルフォンスから、君に伝言があったのだった」
「・・・・・・・・」
振り向くことなくドアノブに手をかけながら次を待つ俺の耳に届いた言葉は、想像だにしていないものだった。
「“錬金術を取り戻していた事を、黙っていて済まなかった”・・・・と」
「な・・・・・・・・んだ・・・って?」
「経緯などは詳しく話さなかったが、アルフォンスは君にそう伝えて欲しいとだけ私に言い置いて行ったよ。だから、自分の事は心配するな・・・・・・・と」
弟は錬金術を取り戻していた?あの失われたイメージは完全に消え去ることなく、弟のどこかに眠っていただけということか?
しかも何故、それを黙っていたのか。これでようやく昔の記憶を取り戻し、失われていた過去を共有することができたはずなのに・・・・・・?
息を呑み振り向いた俺の目の先にあったのは、それまでの軽薄な口調とは裏腹な、まるで事の全てを悟った上で労わるかの様な静かな眼差しだった。
「アンタ・・・・一体何なんだ!?他に何を知ってるんだ?その思わせぶりな態度は止してくれ!」
「落ち着きなさい、エドワード。これでも私は君たち兄弟に古くから関わってきた人間の一人として、その行く末を案じながら見守ってきたつもりなのだよ」
抑えた口調でそう云われたことで、この男が暗に何を語りたいのかが窺えた。
俺達兄弟の関係は、ありえない事ながら既に職場である研究所では公然の事実となっていたから、当然そう遠くない場所にあるこの軍にだってその醜聞は届いていたのだろう。予想してはいたものの、面と向かってその事実を悟らされた俺は、なんとも身の置き所の無い心持ちになった。
「アンタのトコにも、やっぱり伝わってた訳か・・・・どんな風に言われてた?最年少国家錬金術師だったかつての天才は、実の弟とデキちまう変態野郎だとか?」
「エドワード・・・・」
困ったように眉をひそめるその表情に、俺は苦笑せざるを得なかった。どうやら噂は、それと当たらずとも遠からずといったところらしい。当然と言えば当然の事だ。
「ついでにこう付け加えて広めて欲しいね。ノーマルだった弟を誘惑したのは異常な性癖を持つ兄貴のほうだったってな。大した天才振りだろう?こんなアニキを持っちまったアルフォンスは良い迷惑だろうよ」
「エドワード・・・・君は、それを恥じているのか?」
それは、唐突な問いかけだった。そして、限りなく核心に触れるものだった。俺達二人の間にあるものを自ら貶め、そうまでしなければ弟を護ることさえ出来ない己の無力さを認め、全てを曝け出してしまえと言われているようだった。
「誇れるものさえ無いというのなら、そのままその手を離すが良かろう。そうして世間一般並みの兄弟として生きてゆくが良いよ。人の噂など、所詮いつかは消えていくものだろうしね」
俺は、俺とアルフォンスの間にあった感情を恥ずべきものだと思っていただろうか。誇るべきものなど何一つ無いと、思っていたのだろうか。
確かに、アルフォンスへの愛を募らせるたび、それと同じだけ罪の意識も増した。けれど俺が心からの想いを示すたびにアルフォンスが作る幸せの表情を、幸福感と共に誇らしさ感じながら見ていたのも紛れのない事実なのだ。俺は今、コイツを幸せな気持ちにしてやれているんだと、そう感じる瞬間がまた俺自身に幸せをもたらした。
そう、俺は、実の弟であるアルフォンスにこの感情を抱いた事を悔いてなどいない。確かに同じ性を持つだけではなく、同じ血肉を分けた者同士という禁忌を破った上に成り立つこの関係だけれど、それでも。
この愛は、成るべくして成ったものなのだと、俺はそう自負するのだ。
「・・・・・俺達の関係は、決して褒められたもんなんかじゃなかった・・・・・・・・・・でも」
俺は、静かに此方を見据えてくる目をしっかりと見返して告げた。
「俺達は・・・・・間違ってなんか、いない。俺はこの気持ちを“恥”だなんて思わない」
不思議だった。
これまで俺は、自分と弟の関係についてこんな風に第三者の前で堂々と口にできた事など一度もなかったのだ。でも今、自分ですら自覚していなかった心の深淵にあったものを、まるで引きずり出されるようにすんなりと言葉にしていた。
この目の前にいる男の、未だかつて見せた事のなかった表情がそうさせたのだろう。その姿が、俺と弟に馴染みの薄かった“父性”というものに似ていたからなのかも知れない。
「そうか・・・・・では、北への追加部隊の派遣は恐らく2,3日中になるだろうから、君は出立前に私の屋敷にいるサーシャのところへ一度顔を出しておいてくれたまえ。以前から君を呼んではくれないかと、それはウンザリするほど強請られているのだよ」
俺の言葉を受けた後暫し目を閉じ、やがて見せた微笑をにじませた穏やかなその面持ちに、俺は今までこの人間のほんの一部分しか見ていなかったのだという自分の浅はかさを思い知ったのだった。
司令部を後にした俺はその足で、サーシャに会うためにマスタング邸に立ち寄った。アルフォンスが北へと行ってしまった事で不安になり、かといってそのことを話して心を紛らわせようにも話せる相手もいないのだ。きっとそれで俺に会いたいと言ってきたのに違いないから、早めに出向いたほうが良いだろうと考えたのだ。
ところがいざ顔を合わせてみれば今までになく華やいだ表情で部屋へと迎え入れた俺に茶を勧め、次から次へと菓子やら果物やらを目前のティーテーブルの上に並べるサーシャの様子に、俺は怪訝な表情を隠しきれずにいた。
まだ恋人という関係かどうかは分からないが、それなりに想いを寄せているはずの相手が危険な状況に置かれていると言うのに、この心底楽しげな表情はどういうわけなのか。俺は些かムッとした口調で問い質してしまった。アルフォンスが危険な任務に就いているのに心配ではないのか、と。
「あ、ごめんなさい。そうだったわよね。エドワードさんの気持ちも考えずに私ったらついはしゃいでしまったわ」
「いや?俺の気持ちとかじゃなく、アンタ・・・・・アルが心配じゃないのか?」
「それは・・・確かに心配だけど?」
半ば責めるような口調で俺が言うのにも、首をかしげながら口ほどには心配していないようなサーシャに、妙な違和感を覚えた。おかしい。これが戦地ともいえる危険な場所へと旅立った想い人を送り出したばかりの女の態度だろうか。
「あ ・・・・まあ、なんだ。別に無理に心配しろとか言うわけじゃねえけど。アンタさ、自分の好きなやつが危ない目とかにあってもわりと平気な方・・・・?」
大概俺も失礼な言い草だったかも知れない。感情表現が一般的でないだけで、内心では不安を抱えながら無理に明るく振舞っているのかもしれないとも考えたが、目前の明るすぎる様子に俺はどうも納得がいかなかった。何も弟が帰る日まで泣いて暮らせとは言わないが、それでもアルフォンスが蔑ろに扱われているようで俺は面白くなかったのだ。
「そんな事ないわ!もしエドワードさんが危険な目にあったりしたら私、いても立ってもいられなくなっちゃうわ!!」
「いや、だから俺じゃなくてアルフォンスの話をしているんだって」
「なんで好きな人の話でアルフォンスが出てくるの?」
「だって、アルが好きなんだろう?」
「え・・・・・・・・?」
サーシャの目がこれ以上ない程見開かれ、そして数秒動きを止めた。俺は訳も分からずその様子をただ眺めていたのだが、突然クッキーやらチョコレートやらが載った銀のトレイの上に突っ伏して奇声を上げる尋常でない様子に思わず腰を浮かせた。
「ぎゃあああああああああ〜〜〜〜〜ん!!!違うの違うの違うの〜〜〜!!そうじゃないのに〜〜〜!私の好きな人は違うのに〜〜〜〜〜!!!でも私の口からはこれ以上言っちゃいけないの〜〜〜!!!いやあああああああ!!!」
「ま、待て・・・・・待ってくれ。頼むから落ち着いてくれ・・・・・!」
「言いたい〜〜〜!!!でも約束だから駄目なの〜〜〜!!だけど酷いわ酷いわ酷いわ酷いわ!どうして私の好きな人がアルフォンスになってるの〜〜〜〜!!神様の馬鹿〜〜〜〜〜!!!エドワードさんの天然〜〜〜!!アルフォンスの意地悪〜〜〜〜!!」
所狭しと菓子や果物やティーカップなどが並べられているのにお構いなしでティーテーブルに突っ伏し、椅子に座ったまま地団駄を踏み感情の吐露を続けるサーシャに、俺はどう対応していいのか分からず、弾かれて床に零れ落ちたクッキーやチョコレートを拾い集めたり、振動で中身がこぼれない様ティーカップを脇の椅子の上に避難させたりしながら途方に暮れた。
しかし今、サーシャは自分の想い人がアルフォンスではないことをはっきりと口にしていた。つまり、アルフォンスが一方的に想いを寄せている・・・・ということだったのか。けれどそれでは数日前ここで目にしたキスはなんだったのだろう。
「サーシャ、悪かったよ。きっと俺が無神経なこと言っちまったんだな?ゴメン。ええ・・・と、まあ、とにかく俺も追加部隊に混ざって2,3日中にはエクサンドルに行ける事になったから、アルフォンスも多分予定よりは早く戻って来られると思うし・・・・」
「ええっ!何ですって!?」
今まで伏せていた顔を勢い良く上げると、今度は俺の両肩に手を置き思いがけないほどの力強さで揺さぶってくる。
「ちょ・・・・・っま、待てって!アンタ一応まだ病人だろうが。無茶すんなっ」
「なんでエドワードさんまでがエクサンドルに!?駄目よ!」
「駄目ったって・・・・でもこの増員で当初の予定より早く採掘が可能になるだろうし・・・」
「嫌よ!それはアルフォンスが行くのだって心配だわ。でも、エドワードさんが行っちゃうのはもっと心配なのよ!」
「俺、そんなに頼りねえかよ・・・言っとくが、無機物相手の錬金術なら俺の方がアルフォンスより実力は・・・」
そう俺が言ったところで、サーシャは掴んでいた肩から手を離すとドサリと椅子に座り込み、大げさな溜息をついた。
「エドワードさん・・・・・凄いわ。恋敵ながらアルフォンスに同情するわ・・・・・なんて鈍感な人なの」
「・・・・・・・?」
「契約違反だけど・・・・どうせ私に勝ち目はないんだし、いいか」
俺がいつもアルフォンスに行儀が悪いと諭されるような座り方で、さらに行儀悪く人差し指を俺に突きつけサーシャは言い放った。
「言っとくけど、私が好きなのはあなたよ、エドワードさん。アルフォンスはひと目でそれを見破って散々私に釘を刺してきたわ。こっちはこっちで協力してもらわなければならないこともあったし、泣く泣く交換条件を飲んだのよ!」
「交換・・・・・・・・条件・・・・・?」
そう聞き返したものの、俺は未だに事の経緯を理解していなかった。
「油脈の採掘に協力してもらう代わりに、私からはエドワードさんに近づかない、誘惑しない、気のある素振りを見せない。そう約束させられたわよ。アルフォンスってすっごいヤキモチ焼きよね。彼との話の内容を、あなたに聞かせたかったわ。地質データに関する事以外に話した事といえば、エドワードさんの事ばかり・・・・もっとも私がエドワードさんのことを聞きたがっていた所為もあったのでしょうけどね」
「・・・・・悪い・・・・・・ワケ・・・・分かんねぇ・・・・。アンタと弟は、付き合ってたとか・・・・そういう事では・・・・」
やっと搾り出した俺の声は情けなくも掠れていた。
サーシャの言葉が本当なら、全て俺の誤解だったということか・・・・・?でもアルフォンスの態度は確かにずっと不自然だった。その理由は何なのだろうか。
確かめなくてはいけない。アルフォンスに会って、答えを怖がらずに、勇気を持って聞かなくては。
「エドワードさん・・・・ゴメンなさい。私きっと、あなたに辛い思いをさせていたのね」
半ば放心状態で立ち尽くす俺の体に腕を回してギュッと抱きしめてくる身体は温かく、その仕草は思いやりに満ちていた。だから俺も安心してその背に手を回して、きちんと抱き合った。
「いや、俺が一人勝手に早合点したのが悪かったよ。アンタがあんまり美人だから、てっきりアルフォンスが一目惚れでもしたのかと思っちまった」
「ふふ・・・・ありがと。私はエドワードさんに一目惚れして欲しかったわ。アルフォンスに愛想を尽かしたら、真っ先に私の所に来てね」
「ゴメンな。俺は自分でもうんざりするくらいアルフォンス一筋らしい。どうかしてるんだ」
こんな言葉、アルフォンス本人の前でさえ言えなかった俺なのに、今ではサーシャを相手に素直に自分の想いを口にしている。今の俺なら、きっとアルフォンスに自分の心を真っ直ぐに打ち明けられるだろう。例え返ってきた答えが弟の心変わりを告げるものだとしても、受け止められるような気がした。
今まで常に罪の意識ばかりにとらわれていた俺の中で、確実に何かが変わったのだ。自分の心にある愛を温め育み、それを自ら肯定し、相手に伝える・・・・そんな当たり前の事をする為の勇気が生まれていた。
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