ひかりへと続く扉2−K〜烈情

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軍司令部からの帰り道、僕はその足で普段良く立ち寄るパブとは全く正反対の方角にある歓楽街へ行き、ただ店先の傾いで薄汚れた看板がたまたま目に入ったからという適当な理由でその酒場の扉を押した。

 もう夜だというのに、酒を出す店とは思えないような閑散とした光景が広がっていたことでこの店の評判の悪さが窺えたけれど、酒さえ飲めれば何処だろうと関係なかった。適当な席に座り安物のスコッチをボトルで注文し、それを水でも飲むかの如く喉に流し込んだ。一息でグラスを空にすると直ぐに注ぎ、またそれを一気に飲み干す。そんな飲み方だから、開けたばかりのボトルは瞬く間に空になった。次を注文すると、その僕の様子に不安を覚えたらしい店主が心配そうな面持ちで新しいボトルを運んできたけれど、意に介さずまた同じように酒を呷った。

 

 自棄になり、こんな無茶なやり方で酒を飲むなんて事を、まさかこの自分がする日がこようとは想像もしていなかった僕だ。

 暗い表情で、投げやりな仕草。ただ酔うためだけに呷る酒。分かりやすいくらい、愛を失い取り乱し自棄酒を呷る惨めったらしい男の姿がここにあった。

 2本目のボトルを空にしたところで、いくら飲んでもあの人の事ばかりを考えてしまうのは止められないのだとようやく思い至り、重い身体を厭々引きずりながら店を出た。

 

 

 今の時刻さえ分からないまま、夜の道を歩いた。やがてあてもなく歩いていたつもりが、ふと気付けば律儀にも兄と自分が住む家の方へと向かっている事に苦笑し、仕方無くそのまま家へと戻ることにした。例えあの人との関係がどう変化しようと、結局自分の帰るべき場所は、兄の許にしかありえないのだ。

 

 

 あれだけの量の酒を飲んだのにもかかわらず、頭のどこか一部分はひんやりとしていて、ほんのつい先刻の中将とのやりとりを無意識に反芻していた。

 

 

 僕ではない、他の誰かにその愛を向けその心を砕き、自分を犠牲にする兄の姿など知りたくはなかった。けれど、その人の幸せの為に自分の身を捧げる事で、僕はこの虚無感を無意識のうちに埋めようとしていたのかも知れない。

 

 中将が急きょ工面した人員で編成したエクサンドルの油脈採掘作業チームに自分が加わる代わりに、兄に対する北の前線への配属命令を撤回させた。でも、このことを兄はまだ知らない。知ってしまえば大人しく黙って僕を送り出してくれるような人ではないから、中将にも兄には明日の出発まで知らせないようにと釘を刺しておいたのだ。

 

 エクサンドルは現段階ではアメストリスとは国交のない敵対国だ。諜報部の調査によれば、エクサンドルの上層部はドラクマに迎合し軍事化を推し進めるミリタリズム推進派と、あくまでも中立の姿勢を保持しながら廃れて久しい王制を復活させようと考える旧体制派に二分されているとの事だった。ロイ=マスタング中将はこの旧体制派側に強力なパイプを持っていて、やはり当然の如くナターヤのファイルから大油脈の存在を知るなりすぐさま交渉を始めていたのだった。領土こそアメストリスの10分の1程度しかない小さな国だが、その地中に眠る資源の規模は計り知れないのだ。現在ドラクマに追従しているエクサンドルがこの資源を手にする事により、現在の図式が逆転することさえ考えられた。上手く旧体制派と手を結び、それらの採掘に協力することと引き換えに資源を他国より優位な条件で融通出来ればと中将は胸算したのだろう。

問題は、この旧体制派がどれだけの政治的権力を保持しているのかだ。

アメストリス軍として正規のルートでエクサンドル入りをするのは到底不可能な事だから、この急きょ編成されたチームは秘密裏に諜報活動の一環として任務を遂行するのだ。よってこの作戦には大きな危険が伴うし、ミリタリズム推進派の勢力如何によっては敵対国の領地内に不正に侵入したことでその場で処刑されないとも限らないのだ。

 

 

 歩きながら、夜空を見上げた。明日の今頃、僕は兄から遠く離れた北の地で同じようにこの空を見るのだろう。そしてきっと、兄のことばかりを考えているに違いない。

 

 家の門へと辿り着くころには流石に酔いが回っていて、覚束ない足取りで玄関のポーチを上ると上手く動かない指先でどうにか鍵を開けた。

 

 家の中は既に暗く静まり返っていて、兄はもう眠っているのかもしれないと思った僕は心から安堵の溜息を漏らし、その場にだらしなく座り込んだ。

 

 よかった。今顔を合わせたら、本気で何をしてしまうか分からない。只でさえ、兄を避け続けていた近頃の僕だからきっと呆れられているだろうけど、それでもこれ以上嫌われるような自分を晒すことは堪えがたかった。
 それなのに、なんということだろう。眠っているとばかり思っていた兄が、風呂上りの上気した肌にバスローブを軽く羽織っただけの姿で僕を覗き込み、その体を寄せて僕を立ち上がらせようとするのだ。

 

 気がつけば、僕は兄を突き飛ばしていた。これ以上その体温を近くに感じる事が怖かった。背中から、自分の意思とは全く逆の衝動が音を立てて這い登ってくるおぞましい感覚にどうにか耐え、それでもまだ近づいてこようとする兄の手を振り払いながら部屋へと逃げ込んだ。

 

 駄目だ。今の僕に近付いてはいけない。来ないでくれ。どこか見えない場所へ行って。

 

 心でそう叫びながらも、その実僕が出来たことといえば、乱暴に兄の手を振り払いその顔を見ないようにすることだけだった。けれど、兄が一刻も早く自分の手の届かない場所へ行ってくれることを待ちわびていた僕の耳に届いた言葉が、全てを壊した。

 

 「アル?どした?もしかして、サーシャと何かあったのか?喧嘩でもしちまったのか?」

 

 何故このとき、こんな場面でまでナターヤの名を聞かされなければならないのか。

 

そんなにあなたの中は彼女の事で一杯なの?まるで僕とナターヤの間に何かがある様な事を云って。僕が抜け駆けをして、あなたから彼女を奪うとでも思っていた?

 

 兄の口からその名前を聞くだけで、胸が焼け爛れるような痛みを訴えた。

 

 

 僕が去ったあと、その声で、その唇で、彼女の名を呼ぶの?口付けるの?その金の瞳に彼女の可憐な姿を映して愛を囁くの?僕を忘れてしまうの?

 

 堪えられない。生きてはいけない。彼は、僕の全てなのだ。それを失くして一体どうやって生きていけるというのか。

 

 

 「愛している」そう呟いたつもりで実際に僕の口からこぼれ出た言葉は、まるで兄をなじる様な険悪なものでしかなかった。

  

 「兄さん、嬉しそうだね・・・・・僕とサーシャの間が上手くいかない事が、そんなに嬉しいの?」

 

 

 

 『早く、早く・・・・・・・!早くこの部屋から出て行って・・・・・!!』

 

 僕の心の奥で、僅かに残った冷静な自分がそう警告を発していた。

 

 僕の手が兄の腕を捕まえ力任せに引き寄せ、ベッドに引き倒して押さえつける。

 

 『駄目だ!振りほどいて逃げなきゃ駄目だ、兄さん。逃げて!』

 

 

 僕の身体はもはや自分の意思とは裏腹に、残酷な衝動に支配されるまま兄を貪り食らおうとしていた。

けれど解からないのは、兄の行動だった。普段の状態ならいざ知らず、今の僕は泥酔状態だ。その気になればいくらでも逃げ出せるはずなのに、兄からは逃げたり拒絶したりする意図が感じられなかった。勿論、それはアルコールが抜けたあとになってから思ったことで、その時の僕はまったく気付きもしなかったのだけれど。

 

 

バスローブの内側に差し込んだ僕の手のひらが兄の裸の胸を撫でると、ざわりとその全身に鳥肌が立つのを目にした瞬間、最後のスイッチが入ってしまったのだと思う。

 

男に・・・弟である僕に抱かれることを無言で拒絶されたようで、まるで僕と兄のあの2人の幸せだった日々の全てが嘘に変わってしまうようで、僕はそれをなんとかして打ち消したかったのだろう。かといってそれが、僕がその後兄にしたことを正当化する理由になる訳でもなく、また、するつもりも毛頭ない。僕がしたことは明らかに取り返しのつかないことで、どのような理由があるにせよ決して赦されるべきことではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

求めるわけでもなく、かといって拒むこともせず、全身をこれ以上無いくらいに強張らせたまま、ただ耐えている。

 

本当なら受け入れるべきではない理不尽な行為でさえ、愛する弟の為に兄である自分は受け入れ、耐えなければならないとでも思っているのだろう。

 

 

 

 

 

『愛している』

 

 

『僕のものでいて』

 

 

『愛しているんだ』

 

 

『他の、誰かのものになんかならないで』

 

 

 

 

 

『僕のものでないのなら、あなたなんていっそ壊れてしまえばいい』

 

 

 

 

 

血を吐くような悲鳴を上げ続け、凶暴なだけの熱をねじ込まれたそこからは現実に血を溢れさせて、それでも『イヤだ』とか『止めろ』という言葉を兄がその口にのぼらせる事は、とうとう最後までなかった。

 

 

 

一体どれほどの間、その人の身体を痛め続けていたのだろう。ふと我に返り、意識を失くし自分の下で力なく横たわる、痛々しいその身体を見た。いや・・・・・・見ようとしただけで、本当はまともに直視することなど出来なかった。きつく噛んだ下唇は腫れ上がりそこから流れた血が乾いてこびり付いていた。下からはさらに驚くほど沢山の血が流れ出していて、それがその人の下肢全体を濡らし乱れた白いシーツを赤く汚していた。

 

 

 

 

・・・・・・・・・・何という惨状か。

 

 

その顔は青ざめ、呼吸をする力さえ残っていないのか、かろうじて生きていることを教えるように時々胸が上下するのが僅かに分かる程度だ。

 

 

 

僕は、なんという事をしてしまったのだろう。

 

 

愛していると言いながら、していることはまるでその真逆だった。

 

 

自分のものにならないのならば、壊れてしまえばいいだなんて、どうして一瞬だとはいえ思ってしまったのだろう。本当に愛しているのなら、何故その人の幸せを一番に考えられないのか。

 

 このままでは、僕は兄を不幸にしてしまうだけだ。もうこの手を離してあげなくては、いつか、そう遠くない将来、取り返しのつかない結末を迎えてしまうと感じた。

 

 

 

 胸をぎりぎりと締め上げてくるこの激しい痛みは、はたして悲しみなのか、怒りなのか、分からなかったけれど。零れてしまいそうな嗚咽に歯を食いしばり、肩を震わせながらこみ上げてくる熱い塊を抑え込んだ。自分に流すことを赦されるべき涙などない。

 

 

 

 

 「兄さん・・・・・・兄さん・・・・・・・兄さん・・・・・・・・・」

 

 

 

 愛している。愛している、愛している・・・・・・・!

 

 

こんなに歪んだ残酷な感情を、それでも僕は愛なのだと言い切ろう。

 

 

 

 「にいさ・・・・・・エド・・ワード・・・・・・」

 

 

 痛々しい唇にそっと指先で触れた。この場所に唇で触れる資格を、もはや今の僕は持たないのだと感じたから。

 

 

 

ゆっくりと目を閉じ、頭の中で皮膚組織を組成する為の構築式を組み上げる。

 

そして続いて頭の中に湧き出でるのは、水のイメージ。

 

静かに胸の前で両手のひらを合わせ、それを傷ついた兄の秘所にかざした。さらに唇にも。そして・・・・血と行為の残滓とで汚れたシーツにも。

 

青白い光りがほんの僅かの間部屋の中を明るく照らしやがて消えると、陵辱の痕跡と傷は嘘のように消え去っていた。

 

 

 

そう。僕は、錬金術を取り戻していた。

 

それは数日前、あの酒場の奥で襲撃を受けた時のことだった。敵の手だけに照準を絞りながらもどうにかして追っ手の包囲網を突破する直前、入り組んだ狭い逃げ場のない路地にいた僕らの目の前に手榴弾が投げ込まれたのだ。勿論ピンは抜かれてある。逃げようにも間に合うタイミングではなかった。

 

もう駄目かもしれないと考えたその瞬間、僕の頭のどこかで水のような、この場には似つかわしくない静謐なイメージが湧き上がり・・・・・・それから、僕の体は殆ど無意識に動いていた。

 

思い描くだけならいくらでも描ける構築式。何故そうしなければならないのか・・・・そんな概念さえないのに、僕はすべて分かっているように両手を合わせ、それを地面に触れさせた。周囲の地面が一瞬の内に盛り上がり、青白い光を発しながら今にも爆発しそうな手榴弾を飲み込み巨大な岩状の塊となった。

 

何故、失ったはずのあのイメージが自分の中にあったのかは分からなかったけれど、とにかくこれで兄へと流れ込んでしまっている自分の記憶を還してもらうことができるのだと、確かにその時の僕は思っていた。しかし結局、僕はそれを兄には黙ったままでいることにした。

 

僕が錬金術をこの手に取り戻したという事実を兄に知らせずにいれば、そうだと知らないまま弟の身を案じる兄は僕から離れて行き難いだろうという陋劣な計算があったからだ。それによって過去の重い記憶を兄一人の胸に抱え込ませておきながら、何食わぬ顔でその人からの愛情を当然のように受け取ろうとする、僕はそんな最低な人間なのだ。

 

 

 

その際限なく注がれる深い愛情を、すべて自分だけのものにしたかった。その金色の透きとおった瞳に映る唯一の人間でありたかった。いつまでもこの腕の中に閉じ込めて、自分以外のなにものにも触れさせたくなかった。

 

狂っているとしか言いようのないこの烈情は、まるで悪魔のようにその人を貪り続け、全てを食らい尽すまで僕の中にあり続けるに違いない。そうなる前に、僕はあなたの手を離さなければいけない。

 

 

 

 部屋を出ようとドアノブに手をかけた僕はもう一度、依然死んだように横たわる兄を振り返った。これが、最後になる訳ではない・・・・そう思ってはいたけれど、自分の気持ちの中でしておかなければならない儀式があった。

 

 静かに歩み寄り、その人の傍らに膝をつく。目を覚ましたあなたはきっと僕に愛想を尽かし、僕の呪縛から解き放たれて自由の身になっているはずだ。

 

 

 だらりとしたままの左手を取り、その薬指の付け根に口づけた。

 

 この指をぎりぎりと引き千切らんばかりに締め付けていただろう目に見えない枷を今、外してあげるね。

 

本当は、あなたとナターヤが出会ってしまった時点で、僕が何処に身を置くべきかという事は決まっていたのに・・・・・・・・。でも、ようやくあなたを解放してあげられる。

 

 

 

 「どうか、幸せに・・・・・兄さん」

 

 

 次にあなたに会うときには、あなたとナターヤはお似合いの恋人同士になっているのかな。きっと僕はそれを死にたくなるような気持ちで見るのだろうね。

 

 

立ち上がった僕は、もう兄を振り返る事無く部屋を後にした。

 

 






ひかりへと続く扉2-J←  テキストTOPへ  →ひかりへと続く扉2-L