ひかりへと続く扉2−J〜その時
その膨大な量の地質データの洗い出し作業は、当初僕が思っていた以上に難航した。データの内、既に約半数がナターヤ達の手によりチェックを終えていたのだが、僕はあえて『錬金術で掘削が安易な地質に変換することが可能な箇所』という独自の観点で一からデータの見直しを行ったのだ。幸いなことに錬金術の使用を前提にした条件で洗い出しをしていくと、採掘可能なポイントをエクサンドルの領土内に数箇所見つけることが出来た。
そして僕は今、割り出したポイントの在り処を彼女の仲間に知らせる為に、もう何度か足を運んでいる決して清潔とはいえない安酒場や売春宿がひしめき合う裏通りを歩いていた。
ナターヤが言っていたとおり、彼女の仲間達は既にアンソニー=ストーがらみの人間にマークされているらしく、この界隈で拠点を定めずに日々移動をしてその追跡をかわしていた。彼らと接触するには、夕方の決まった時刻に花束とピンクのリボンをかけたチョコレートの箱を持ってその通りを歩くのが決まりだった。通りの端から端まではおよそ100ヤードあり、そこを歩いているとやがて胸の大きくあいた安っぽく下品なドレスを纏った売春婦が『野良猫ならウチにいるよ』と声を掛けてくる。そのあとを付いていけば、彼らのねぐらへと案内してもらえる手筈なのだ。
今日の彼らの休息場所は、この通りの何処にでもあるような暗く雑然とした酒場の奥にある、酒や食料を貯蔵する部屋の一角だった。シーツのような大きな布とロープで即席の間仕切りが作られていて、内側で灯しているランプの明かりが彼らの影をその白い布に映し出していた。
「やあ、首尾はどう?」
覚えたばかりのエクサンドル語で声を掛けると、その布が捲られて、中から気安い声が返された。
「よお!来たな、色男!コッチは相変わらずだよ。北の奴等を撒くのに精一杯で、ロクに動けやしない」
隠し切れない疲労を滲ませた笑い顔を向けてくる彼らの内の一人に持ってきたチョコレートの箱を渡してやる。中にはナターヤから預かってきた手紙と、僕と彼女がこれまで割り出した採掘可能なポイントの所在を記したものが入っている。それらに一通り目を通した彼らから零れたのは、新たな筋道が開かれたことに対する喜びの声ではなく、これまで母国の突き進んでいた道がいかに誤ったものであったのかと落胆を露わにした溜息だった。
「“レンキンジュツ”か・・・・・世界にはこんなに素晴らしい学問があるというのに。エクサンドルがもっと早い段階で諸外国と国交があったら、この“レンキンジュツ”を使ってあの膨大な資源を手に入れ、それを武器に世界中の国と平和的に対等な立場でいられたのにな」
「まだ、大きな戦争は起きてない。だから、まだ遅くない。頑張ろう」
何とか判る単語を繋ぎ合わせて話すと、僕の肩や腕を彼らの荒れた手が感謝の意を表すように叩いてきた。そしてリーダー格の赤い髪をした青年が、エクサンドル語で素早く書き付けた紙を僕に手渡しながら聞いてきた。
「君は“レンキンジュツシ”なんだろう?俺達と一緒にエクサンドルに来てくれないか?その力を、貸してもらいたい」
そうなのだ。ポイントを割り出したものの、この掘削には錬金術が必要不可欠なのだ。その上、かなりの広範囲に及ぶ練成になるため、相当熟練した、国家錬金術師相当の実力を持つ術師でなければこの作業は行えないだろう。今の僕に錬金術が使えるのなら・・・・・・。
今のこの僕の状態を、不自由な異国の言葉でどのよう伝えたらいいのか暫し考え込んだ、その時だった。
悪寒のようなものが首筋をざわりと走り、瞬間的に周囲の音に意識を向けた。僕のその表情から何かを読み取ったのか、仲間達も皆身構え、ランプを吹き消し、手に銃を持ち戦闘態勢になる。
ついさっきまで聞こえていた表の酒場のざわめきが、全く聞こえなくなっているのだ。どうやら敵は、表から堂々とやってきたらしい。そして恐らく裏口でも罠を仕掛けて待ち構えているに違いない。
「逃げる。こっち」
片言のエクサンドル語と手振りで、裏口から突破することを彼らに伝えた。どの道乱闘になるのなら、人気のない裏口の方が、周囲の人を巻き添えにする心配が少なくて済むと考えたのだ。
店から貯蔵庫に続く鉄の扉が派手な音を立てて開かれドカドカと複数人の足音が聞こえたのを合図に、僕を先頭に仲間達が裏口に向かって一斉に走り出した。その足音を聞きつけた追っ手がこちらに向けて遠慮なく発砲してくる。裏口の扉の隙間から外を見ると、確認できるだけでも銃を持った男が2人待ち構えていた。アレを何とかしない限り、ここから外に出ることは叶わない。かといってこのままここにいては、後ろからやってくる男達に蜂の巣にされるだけだ。ここを突破するには、この彼らのぎこちない銃の扱いを見た限りでは不可能だろうと思えた。
「それ、貸して」
赤い髪の青年からサイレンサー付きの銃を受け取り(恐らくこれまで襲撃してきた追っ手を袋叩きにして奪ったものに違いない)、弾の残量を確認する。鞄の中から掴みだして渡された予備の弾をズボンのポケットに押し込み、僕は軍で受けた銃器の訓練がまさかこんなところで役に立とうとは・・・・と、頭のどこかで暢気に考えながら銃を構えた。双方死者を出さずに切り抜けるためには、的を外すことは許されない。勝負は一瞬、かつ一度きりだ。一度深呼吸をしてから彼らと目を合わせると、僕は扉を蹴破りながら外へと飛び出した。
「アルフォンスどうしたの?ボロボロよ?」
「ボロボロにもなるよ!まったく酷い目にあった。問答無用で発砲してくると思えば、今度は手榴弾を投げてくるし・・・・街中で一体何を考えているんだ、あの追っ手共は!」
「怪我はない?」
「ないよ、僕にも彼らにもね」
水差しの水で濡らした布をナターヤから受け取り、それで顔や腕を拭いながら先の顛末を話して聞かせた。彼らは暫くセントラルではなく、やや北寄りの遠方の町に身を潜ませると言っていたから、この先僕の連絡係としての負担は相当なものになる見込みだった。ナターヤに協力するようになってからというもの、仲間との連絡役とデータの洗い出しで僕が帰宅するのは兄が夕食もシャワーも既に済ませて自室に引き上げてしまった後である事が多い為、もう長いことまともな会話をしていないのだ。僕は一刻でも早く、この問題を片付けようと意気込みを新たにした。
「サーシャ。多分この手紙にも書いてあるだろうけど、この錬金術を使った掘削作業にマスタング氏の力を貸して貰おうかと考えているんだ」
「アルフォンス・・・・こっちに」
話しを遮るようにそう言いながらナターヤは僕の腕を取ると、開け放してあった窓からバルコニーへと誘った。僕とナターヤの関係についてすっかり誤解している無粋で好奇心旺盛なこの家の使用人は、僕が居る間中は必ずドアを開け放しているのをいいことに、用もないのに度々部屋の前を行ったり来たりしては耳をそばだてているのだ。今日ははからずも訪れた彼らの潜伏先で襲撃を受けたためにここに来る時間が遅くなってしまい、そのことが余計にこの使用人の興味を掻き立てたようで、先ほどからしきりに部屋の前を往復している様子だった。僕と彼女はバルコニーのテラスにある青銅製の椅子に腰掛け、テーブルの上に室内から持ち出したファイルや資料などを広げた。
「・・・ここなら、姿は見えても声は届かないはず。で?私もマスタング氏には既に油脈のデータはすっかり知られていると思ってるけど、そのマスタング氏がどのように動くのか正直見当もつかないのよ」
「彼との交渉は僕に任せて。あの人は、それは抜け目のないところもあるけど、情のある懐の深い人だよ。大丈夫、きっと全てが良い方向にいくよ」
そう言って僕が笑いかけると彼女は不意に思いつめた表情になり、黙りこくってしまった。
「サーシャ?どうかした・・・・?」
「アルフォンス、どうもありがとう。私、あなたに本当に感謝しているの。元はと言えば私の病気だって、あなたの研究無しには直る見込みもなかったのに。その上、こんなに力を尽くしてくれるなんて・・・・・本当はあなたが途中で手を引いてしまうとさえ思っていたわ」
「どうしたの?いつもの不遜な君は何処にいったの?」
茶化すようにそう返しても、彼女は表情を変えずに続けた。
「私、エドワードさんが好きよ。でも、あなたを見ていたら諦めるしかないのだと感じた。あの人があんなに綺麗なのは、あなたがいるからなのね、アルフォンス」
「・・・・僕と彼は兄弟で男同士だよ。変だとは思わないの?」
「何故かしら。そういえば最初からすんなり受け止めてしまっていたわ、不思議ね」
初めて会話をした日の鋭利な敵意に満ちた視線を穏やかなものに変えた今の彼女を、僕は心底美しいと思った。だから、あるいは今の彼女なら、兄を幸せにすることができるのではないか・・・・・そんなふうに考えるようにもなっていた。けれど・・・・・。
「ねえ、キスしてもいい?エドワードさんと」
「それは駄目」
突飛な質問に、考えるよりも先に口がそう言っていた。いくらそれがあの人にとって最良の選択であったとしても、そう聞き分けよく身を引くことなど出来ない僕だ。
「ふふふっ、じゃあいいわ。間接キスで我慢してあげる」
「約束は守って貰うよ。兄に近付かない、誘惑しない、気がある素振りをしない」
可愛らしい仕草で肩をすくめると、椅子に座ったままの僕の肩に手を乗せて軽く、ほんの一瞬だけ唇を合わせてきた。そして頬を染めて目を輝かせると、途端に図々しい事を言ってくる。
「この唇があの人の唇に触れていたと思うだけで、どうしようもなくドキドキするわ。ねえ、やっぱり今度エドワードさんに会ったらほんの一瞬だけでもキスさせて貰っていいでしょう?」
「駄目ったら駄目。あの人が自分から君にするなら仕方がないけど、君からするのは契約違反だよ」
「ケチねぇ。エドワードさんからしてくれる訳ないじゃないの」
彼女はそう言ったけれど、僕はその可能性はゼロではないと思っていた。いつか本当に、あの人が僕以外の人間に愛を寄せ口付けたいと思う日が来るとして、僕はその時どのようにしてその現実に堪えるのだろう。いや、堪えることなど出来ないかも知れない。
そんな事を考えつつ手元の資料に目を落としたその時だった。
「よおアル、随分と御執心なんだな。今日もここだったのか」
こんな遅い時間に、来るはずのない人の声を聞いて僕は驚きを隠せなかった。その僕の横にいるナターヤはといえば、正直にも頬を紅潮させて此方は此方で喜びを隠し切れない様子だ。
兄はまたあの柔らかい笑みを浮かべて彼女に優しく話しかけるものだから、ナターヤも今しがたの約束などすっかり忘れて兄の下へと駆け寄り、その手を握り締め、必要以上に顔を近づけて話しかけている。僕は気が気でなかった。それだけでも十分ハラハラしていた僕だから、次に兄が取った行動には心臓を鷲摑みにされるような衝撃を受けた。
なんと兄は間近にあるナターヤの額に、あろう事か手のひらをヒタリと当てたのだ。
あの異性に消極的な兄が、何故こうも自然にそんな行動に出たのか・・・・・・。答えは明白だった。知らず知らずの内に、兄が彼女に対する好意をその胸に抱いているからに他ならない。少なくとも僕にはそうとしか思えなかった。
思わず強い口調で兄に声を掛け半ば強引に部屋の外へと押し出すと、部屋の外にいる兄に聞こえないようにナターヤに厳しく釘を刺す僕は、なんと女々しく狭量な男なのだろうと、自分で自分に嫌気すら覚えた。
そして帰りの車中でも、何故か窓の外を向いて僕を避けるような兄に話しかけるタイミングをみすみす見逃してしまう僕は、真実を知る勇気が持てないちっぽけで情けない男に成り下がっていた。そんなだから、その数日後、いつもとは様子の違う朝食のテーブルに晴れ晴れとした兄の笑顔を照らし合わせては一人勝手に、彼女への想いを胸に浮き足立っているのではと思い込んでしまった僕は、兄と会話することを避けた。自分勝手で最低な自分が、兄を傷つける言葉を吐いてしまいそうだったから。
あの肩を抱きしめたい。あの髪に顔を埋めたい。あの香りをこれ以上無く近い距離で感じたい。あの唇に、肌に口付けて、こんなにもあなたを愛しているのだと教えたい。でも、今の兄は僕のそんな思いを無意識に拒絶するのでは・・・・と疑心暗鬼になり、その思いがさらに兄との距離を不自然に広げてしまうという悪循環に陥っていたのだが、チェルニーが去った後の2人きりの家で為すすべもないまま、ただいたずらに数日が経過してしまった。
その間中、このままではいけない。そう思いながらも、恋人を自分に縛り付けておきたい気持ちと、兄を正しい道へと還さなくてはいけないという気持ちがせめぎ合い、まるで自分の中に2人の人間がいるようで僕は気が狂いそうだった。
そして“その時”は、何の前触れもなくやってきた。
その日、僕は今までのデータを纏めたファイルを手に中央軍総司令官執務室を訪れていた。久しぶりに足を踏み入れる執務室は幸いな事に、白を基調としたこれ以上ない程シンプルな備品で無難に纏められており、恐らく中将の悪癖が出た事による恒例の罰ゲームとして、今回はホークアイ中佐あたりの趣味で模様替えが行われた様子だった。
「やあ、色男君。折り入って話があるとの事だが、よもや私の所で預かっている遠縁の娘に結婚の申し込みなどというわけではあるまいね?」
「御冗談を。それよりその“イロオトコ”という呼称を改めては頂けないでしょうか」
「おや、これは失敬した。何しろ君ときたらどういう訳か破廉恥極まりない二つ名がまかり通っていてね。それで呼びかけるには、流石の私も気が引けるのだよ」
その破廉恥極まりない二つ名を考案し広めた張本人の空々しいセリフも、今日は綺麗に受け流すことにした。お礼なら、後日全てが綺麗に片付いたあとでおまけを付けて10倍にして返してあげればいいだけの事だ。執務机の上にうず高く積まれた書類の山を脇に寄せそこに持参したデータを広げながら、ロイ=マスタング中将の権限で錬金術師数名をエクサンドルに派遣することを求めた。
「中将。あなたは既に、全ての経緯をご存知なのでしょう?これは我が国にとって非常に重要な局面なのです。どうか、アメストリスとエクサンドル周辺国の和平の為にご決断頂きたい」
「一端の活動家のような物言いだなアルフォンス。しかし残念ながら、エドワードが明日の08:30に北の前線に位置するキャンプへと向けて出立するのは既に決定事項として私の承認も済んでしまっているのだよ。こちらとしても、これ以上北方にばかり人員を回すわけにも行かないし、困ったことだな」
のんびりとした口調でつむぎ出されたその言葉に、僕は聞き間違えたのかと問い返してしまった。
「おや?エドワードから聞いていないのかね?私としたことが、これはまた失言だったかな」
芝居じみたその言い回しに歯痒さを感じながら、僕は冷静になるよう努めて声を出した。
「初耳です。それは一体どういうことです?しかも何故北の前線などに兄が配属されなくてはいけないのですか?」
「そうカッカするな。私としても交換条件とはいえ、まさか上からこんな辞令が降りてこようとは・・・・」
「ですから何故こんな事になったのかと聞いているんです!!」
思わず大きな声を上げて執務机の天板を拳で叩いたために、執務室の隣の秘書官控え室の扉からホークアイ中佐が顔を覗かせた。
「・・・・ホークアイ中佐。申し訳ありません。取り乱しました」
そちらに向かって頭を下げると彼女は黙って頷き返し、そのまままた扉の向こうへと姿を消した。おそらく気を利かせてくれたのだろう。
そしてその後、無意識に前傾姿勢になっていた身体を後ろに戻し改めてした「兄は何と引き換えにその辞令を受けたのか」との問に対して返された答えに、僕はただ瞠目するしかなかった。
「サーシャ・・・・・いや、君はもう全て分かっているのだったね。ナターヤの件だ。彼女の身柄を自由にしてやって欲しいと、それは大層必死な様子で頼んできてね。加えてチェルニー=ユリアノフの罪科についても書類上の手続きだけで何とかしろと無理難題をふっかけてくるのだから、まったく困ったものだ・・・・・」
自分の予感は的中してしまったのだと思った。
あれほど生あるものを傷つけることを、命を奪うことを嫌っていた兄が、その信念を曲げてまで彼女の自由を願ったのだ。彼女の自由と引き換えに自分は正式な軍属の身となり、明日には凄惨な報告が日々届けられてくる北の国境の前線へと旅立つという。
あの日、初めて彼女の姿を目にした兄の横顔を思い出す。掛けるべき言葉も忘れ、ただ彼女の姿に見入っていたあの美しい横顔を。あのとき感じた不安が、こんなにも早く現実のものになってしまうなんて。今まで幾度となく自分の中で生まれては打ち消してきた不安がこうして目の前で実体をもつことの恐ろしさを前にして、もはや僕に抗う術はなかった。
やはり僕は、あの人の隣で全てを分かち合いながら生涯を共にする存在には成り得なかったのだ。
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