ひかりへと続く扉H〜迷走Edward side
痛みを感じる程の強烈な喉の渇きに目を覚ましてみれば、気分は最悪だった。
自室に辿り着いた後、辛うじてコートをベッドのふちに掛けることはしたものの、そのまま靴も脱がずに寝入ってしまったらしい。まだ体内に大量に残っているアルコールの所為で、視界が回り酷い吐き気が襲ってくる。起き上がるのも難儀でうつ伏せたまま首だけを動かして、床に直に置いてある壁掛け型の時計を見れば、まだ出勤時間まで十分余裕があるのに安心したが、問題は、はたして家を出なければならない時までにどれだけこの状態から回復できるのかという事だ。このままでは、研究所に徒歩で辿り着くことさえも難しいだろう。
昨夜、マイラーに引き摺られるようにして店を出、そこから家のリビングのソファにたどり着くまでの間は、まるで首根っこを掴まれた猫のような扱いをされていた事を思い出し、痛む頭を押さえながら苦笑をもらした。いつもなら記憶を飛ばしてしまう程の量の酒を飲んだというのに、昨夜のことは何故か忘れてしまいたいような事柄まで鮮明に思い出せてしまう。
久しぶりに二人きりで会ったマイラーと共に最初から呑む気で入った店で、気まぐれに、いつも酒が入ると薄気味悪い笑みを浮かべては俺に近づいてくる名前も知らない男の相手をしてやれば、売女紛いな事をしやがってと何度か後ろ頭をマイラーに叩かれた。しかも手加減無しに、だ。尤もその時の俺の様子を目にして、そうせずにはいられなかっただろうマイラーの気持ちも分からないではないけれど。
その男は、同じ研究所のどこかの部署に所属しているらしいという事以外には、たまにこの周辺のレストランやパブで顔を見かける程度の、顔見知りと呼べるかどうかさえ疑問な、つまり俺にとってはその程度の認識しかない人間だった。しかし向こうにとっての俺は、どうやら、自分に絶えず色気を振りまいては挑発してくる娼婦のような存在だと思われているらしかった。研究所の廊下などですれ違う時や、こんな風にプライベートで行った先の店などで出くわす度に、舐めるような視線をこちらに向けてくるのだ。どういう訳か、俺は昔からこの種の人間と余程縁があるらしく、こういった手合いのあしらい方を十分に心得ていたから、特に気分を害することもなく適当にかわしたり無視をしてこれまでやり過ごしていたのだった。
今日もまた、マイラーと連れだって入った店のふたり掛けのちいさなテーブルで、いつも通りひとり酒を飲むその男の姿を目の端にとらえたものの、特に何の感慨もなく酒を口に運んでいたのだった。やがて酔いが回り呂律が怪しくなってきた俺を残し、マイラーが電話をかけに席を立ったタイミングを見計らったらしいそいつが、あの生理的嫌悪感を懐かせるいつもの薄笑いを浮かべながら近づいてきたのだ。そして何を言うかと思えば、俺が一晩相手をしてやれば、弟に、記憶を失くす以前の弟自身と実の兄が恋人関係にあったという事実をばらさずにいてやると呆れるセリフを吐いてきたのだった。
既に研究所内では公然の事になっていたそれも、俺が、記憶を失くしたアルフォンスには恋人関係にあった事実を黙っていて欲しいと、弟が所属する部署や、極親しい数人の同僚に頼んでいたことを知っていたのだろう。しかし、そもそもあれだけ大勢の人間が知る事実を何時までも隠しとおせるはずが無いとは思っていたし、俺がわざわざそう頼んだのは、まだ記憶を失くして日の浅い弟にさらなる精神的な負担を掛けることを避けるためだった。幸いにして、まだ現段階では弟の耳には入っていないようだったが、いつかはその事実が弟の知るところとなってしまう事態を避けられない事は、初めから分かりきっている。それを、あたかも俺の弱みを握ったかのような勝ち誇った表情でにじり寄ってくる男に、不快感よりも哀れに思う気持ちが勝ったのは確かだった。
いつもならば当然適当にかわすなり、無視するなりするところを、常になく過ごしていた酒の所為も手伝って、俺はきっとどうかしていたのだ。普段のように突き放す事をしない俺に益々付け上がった男が、酒臭い息を吹きかけながら馴れ馴れしく腰に腕を絡めてきても、俺は好きにさせていた。店の中にいるのは、いずれもいい具合にほろ酔い気分で話に夢中になっている連中ばかりで、奥まった所にあるカウンターの端の席の俺たちに目を向ける者は誰もいないようだった。最近新しくできた恋人に、定期連絡の電話をしているらしいマイラーが長く席を離れていたこともあり、男の行動は更に大胆になり、知らぬ間にボタンを外されていたシャツの隙間から、がさついた手が無遠慮に忍び込み、胸といい背中といい、至る所を撫で回され、首筋に生暖かい舌の感触が這い回っても、どうとでもなれと、俺は目を閉じた。
視覚を遮断し、耳に聞こえる声を俺が愛してやまないあの穏やかな声に変換して、這い回る手もアイツのものだと思い込めば、その間だけでも幸せな夢に浸れるかもしれないだなんて一瞬でも考えたその時の俺は、なんて馬鹿な人間に成り下がっていたんだろう。長めの電話を終えたマイラーがその男を俺から引き剥がさないでいたら、きっと間違いなく俺は、そのままあっけなくその男の手に堕ちていた。
恋人としてのアルフォンスを失いはしたけれど、俺にはまだ“弟”という唯一無二の存在が残されている。もう少しで、その弟に顔向け出来なくなる兄になるところだった俺を引き戻してくれたマイラーには、感謝の言葉もない。
依然回り続ける視界に、よろめきながらも立ち上がり、身体中に染み付いた昨夜の酒とタバコと、汚らわしいあの男の匂いを落とすためシャワーでも浴びようかと、ずるずると壁伝いに移動した。浴室のドアの前まで来ると、中から聞こえるシャワーを使う水音に、弟が入っているのだと分かった俺は一度その場を離れようとしたけれど、俺が行動を起こすより先に浴室のドアが開き、タオルで身体を拭きながら出てくる裸の弟と鉢合わせする形になってしまった。
「「あ・・・・・・・・」」
ふたり同時に同じような声を発し、一瞬その場に固まった。そして何故か俺と目を合わせた人間の顔が見る間に真っ赤に染まっていく様子を不思議な気持ちで眺めていた俺の脇を、思春期の少年のような表情をした大人の男が、なぜか謝りながらわたわたとすり抜け、逃げるようにそこを出て行ってしまった。
「・・・・・何なんだ・・・・・あいつ・・・・・?」
確かに、帰宅した数時間前、ほんの少し意味深な態度で弟をからかったことを覚えてはいるけれど、その程度の事は、所詮酔っ払いの突飛な行動だと余裕で受け流すくらいには、奴は“大人”なはずだった。しかし、これまでも幾度か目を合わせた拍子に顔を赤くするような場面があったことに思い当たり、俺は、自分の何が弟をそうさせているのか、熱めのシャワーをゆっくりと浴びながら考えてみた。
目の前の鏡に映る、成人の男にしては少し細身の身体。まだ弟が生身の身体を取り戻す以前の俺から比べれば、格段に筋肉が落ちていることが見て取れる。確かにあの当時は、暇さえあれば組み手やトレーニングに励んでいたから、ほぼ頭脳労働一本槍の今の生活を考えれば、これは当然の結果なのだろうけれど。平和な環境で暮らすことに慣れきったせいか、顔つきまでもが男らしさから少しかけ離れつつあるような気がしないでもないし、特になんの理由も無く伸ばし続けているこの髪にも、原因の一端があるのかもしれないと思えた。事実、新しく入ってきた若い研究員との初顔合わせの際、腹立たしいことに八割強の輩が俺をオンナだと勘違いするのだ。つまり、アルフォンスにしてみれば、突然見知らぬオンナ(断じて認めたくは無いが)と、一つ屋根の下で二人きりの生活をするはめになった心情なのかも知れなかった。
「どーせ鬱陶しいだけだし、いっそ切っちまうか?」
別に、アルフォンスが俺の髪を愛おしそうに指で梳くからとか、時々髪の先を恭しい仕草で一房手にとって口付けるのがひそかに好きだからとか、そんな理由で伸ばしていた訳ではなかったけれど・・・・・・。
たかだか髪を切ると考えただけで、そんなどうでもいい事を思い出しては胸に痛みを走らせる自分を脇に追いやり、乱暴な仕草でごしごしと身体中を痛いほどに擦り上げた。
今日の仕事からの帰り道、絶対に髪を切りに行こうと、俺は決めた。
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