ひかりへと続く扉I〜迷走Alphonse side

 

 

 

 

 



 

 

 

浴室の鏡に映る男が、今やっとの思いで押さえ込もうとしているこの欲望を吐き出してしまえと、濡れて雫を滴らせる前髪の隙間から、熱を孕んだ眼でこちらを見据えている。

 

ふざけるな!そんなこと・・・・・・・出来るわけが、無い。

 

只でさえ、自分の中に存在しない“弟”という属性を無理やり構築して、どうにか心の平静を保っているというのに、たとえ自分ひとりの中だけとはいえ、一度でもあの人をこの穢れた欲望の対象であると認めてしまえば、きっと一生、口先の言葉でさえ、彼を“兄”とは呼ぶことが出来ない自分になってしまうだろう。

 

  酔って帰ってきたあの人の、何時になく艶めいた様子を目にしたせいなのか、浅ましくもあんなリアルな夢を見てしまった自分を責めてみても、この身を苛む罪悪感はとても拭い切れなかった。なぜ、こんなどろどろとした気持ちばかりが僕の心を支配し続けているんだろう。けれど何故か、記憶を失くしたというのに、これだけは分かっているのだ。

僕が、記憶を失うもっとずっと以前から、狂おしい程の気持ちで、“実の兄”だというあの美しい人を想い続けているのだという事を。

 

 僕は、この想いを伝えていたのだろうか。そしてもし伝えていたとするならば、あの人は僕にどんな言葉を返してくれたのだろうか。否、血の繫がっている兄弟の間で、まさか本当にそんな気持ちを通わせていたとは考えにくい。

けれど少なくとも、僕から彼に向かうこの熱情とも言える気持ちばかりは、どうにも誤魔化せるようなものではなかった。そしてまた、その“兄”が家族としての深い愛情で、僕という存在をこの上もなく大切に思っていてくれているのだという事も、傍にいるだけで常に伝わってくるのだった。

僕の食事の様子を気にするあまり、肝心の自分の手が止まり、危うく朝食を食べそびれそうになることはしょっちゅうだったし、気付かない振りをしているけれど、時々冷え込む日の夜中などには、こっそりと僕の上掛けがずれていないかと直しに来たりもする。おそらく特に意識する事無く行動しているようでも、その人の中での優先順位は、自分自身よりも弟である僕のほうがかなり上位におかれているようだった。

こんな風に大切に慈しむ弟が、実はその心の内に、自分に対する獣じみた熱情を抱え込んでいるなんて知ったら、どんなに辛い気持ちにさせてしまうことだろう。ただでさえ、たったふたりだけの肉親なのに。互いが、この世に存在する、たった一人しかいない大切な家族なのに。僕は、その“兄”を裏切っている。

 

 

ごめんね。ご免なさい。

心から、あなたのことを“兄”と呼べない僕を、どうか許して下さい。

何故、この気持ちも記憶と一緒に消えてしまわなかったんだろう。

それとも、こんな強い想いでさえ、既に消えて無くなってしまった激情の名残だとでもいうのか。

 

日々、あなたの姿を目にするたび、縫いとめられたように視線を逸らせないでいる。ほのかに香ってくるあなたの香りに、ちりちりと胸を切なくしている。もっと、あなたの傍に行きたい。抱きしめてしまいたい。その指先に、髪の先に、頬に、瞼に、唇に口付けたい。

そして、愛していると伝えたい。

 

こんな気持ちを抱えたままで、どうして平気な顔で“兄”だなんて呼ぶことが出来るだろう?こんなにもあなたを求めているのに、そのあなたを決して手に入れることの出来ない自分のスタンスを、“兄”と呼びかける度に思い知らされなくてはいけないのだろうか?いずれ愛する相手と巡り合ったあなたが僕の傍から離れていく時がきても、僕は“弟”として穏やかに送り出してやることなど決して出来はしないだろう。ともすれば、僕の手を振りほどいて去ろうとするあなたを殺めてしまうかもしれない。

 

 

 

もう一度、鏡に映る金色の眼の男の顔を見てみる。

熱と、欲望と、狂気を滲ませた、見覚えの無いその暗い表情に、一瞬ぎくりとなった。

 

僕は、こんな人間だったのか。

自分では忘れていただけで、こんな凶暴な本質を根底に隠し持つ人間だったのだろうか。

 

そんな厭な思いを振りきるように、勢いよく熱い湯を浴び、蛇口を閉めたその時、既視感・・・・・・またはそれに良く似た感覚が、ある記憶を呼び覚ました。金属製の古い蛇口は、開閉するたびに軋むような音を立てる。その音に、僕の感覚が刺激されたのかも知れない。

 

 

「・・・・・オート・・・・・・メイル・・・・・・・・?」

 

 

“兄”は手袋を常用し、大抵いつも肌を露出しない服装をしているけれど、ノースリーブや膝丈のボトム姿を何度か目にしたことはあった。だから、彼の腕や足が、紛れもなく生身のものであることは間違いない。それなのに、さっき見た夢の中での彼は、右腕と、左足が機械鎧ではなかったか・・・・?そして、夢の中の自分は、その事を、ごく当たり前の感覚でとらえてはいなかったか。

 

 

 「あれは・・・・本当に、ただの夢・・・・・?」

 

 

 僕の中で、すばやく、ある仮定が形造られる。

今の僕には確信が持てないけれど、医療錬金術で失った手足を取り戻すことが可能であるとすれば、話の辻褄は十分に合うと考えられた。もし、彼が過去、機械鎧の右手左足でいたことが現実だったとする。そして、その記憶を失っている僕がそれを夢に見たという事は、その“夢”はただの”夢“ではなく、失っていた、若しくはどこかに紛れ込んでいた記憶が、夢というかたちで表出したものだとは考えられないだろうか。

 そう、夢の中の僕は確かに彼を「にいさん」と呼んでいた。今と全く同じ気持ちで、彼を愛していた。そして夢の中の彼は、僕のことを同じ気持ちで愛してくれていた。

 

 

胸の鼓動が速度を増す。

あせるな、落ち着くんだと、自分に言い聞かせながら、今日の自分の勤務時間を確認する。時間のかかる統計関係の資料は既に出来上がっていたから、特に急な雑務が入らない限り、定時に上がれるはずだった。休憩中に、一度ハボック少佐に電話を入れてみよう。彼ならばきっと、自分と“兄”の事情を詳しく知っているはずだから。上手く彼に会う事が出来れば、僕たち兄弟の過去に関わる情報を得る事が出来るだろう。

 

そして、悩んだり、迷ったりするのは、事実を知った後にすれば良い事だと、自分の気持ちを強制的に切り替えながら、バスタオルで身体の水滴を拭いつつ、磨りガラスをはめ込んだ扉を開けた。

 

・・・・けれどそれは、あまりにも不意打ちだった。

 

扉を開けたそのすぐ目の前には、今の今まで自分の思考を埋め尽くしていたその張本人が、数時間前とまったく同じ格好で・・・・・つまり、ひとつもボタンが留められていないシャツを羽織り、さらに寝乱れた髪をして、気だるげな表情で立っていたのだ。

 

こういうとき、よりによってあんな場面を頭の中に呼び覚ましてしまうのは、オトコの性故か、それとも僕が“僕”だからなのか。

夢の中で見てしまった、“兄”の快楽を追う切ない表情や声、震えながら背を逸らす様を、その本人を目の前にして、これ以上無くリアルに思い出してしまい、僕は心底うろたえた。 

 

ごめんなさい、とか。すみません、とか。そんなつもりではなかった、とか。

とにかく訳の分からない謝罪めいた言葉を早口でまくし立てながら、逃げるようにその場を去ったことしか憶えていない。僕はきっと、とんでもなく挙動が不振なオトコだと思われたに違いなかった。只でさえ、最近は少し不自然に僕との距離をとるようにしているらしいその人が、ますます僕から遠ざかってしまわないかと不安を抱えながらついた朝食のテーブルだったけれど、そこにはいつもと同じ明るい笑顔で僕の世話を焼きたがる、愛くるしい“兄”の姿があって、ほっと胸をなでおろしたのだった。

 

「ちゃんと野菜も食え」

「食べているでしょう?それよりも“兄さん”こそオレンジジュースだけ?」

「俺は二日酔い。ほれ、牛の分泌液も飲め。残すんじゃねーぞ?」

「普通に“牛乳”と言ったらどうなの?何かそう言われると口にするのが気持ち悪くなってくるんだけど」

「だろ?牛乳嫌いの人間の気持ちが分かったろうが。パンももっと食え。チーズもっと切るか?」

「僕はいいから・・・・せめてフルーツだけでも口にしたらどう?林檎剥くね」

「・・・・・動物の形とかに切るの、やめろよな」

「え?ウサギとか、葉っぱとかにするやつ?」

「なんでそんな下らねえ事ばっか、しっかり憶えてるかなぁ、お前」

 

気のせいか、いつも以上に口数が多いように感じた僕が、果物ナイフを持つ手を止めて、向かい合わせたテーブルで頬杖をつく”兄“のほうを見ると、自然にふたりの視線が合う。

こちらと目が合った途端、にこりと笑顔を作って寄越してくるその表情が、妙に僕の心のどこかを刺激した。

手を止めたまま、動かない僕に声を掛けてくるその様子も、明らかに不自然さを纏っていた。

 

「どうしたぁ?アル?パンに変なモンでも入ってたか?」

 

この人はきっと、こんな作った笑顔をする人ではなかったような気がする。それなのに、固定された、まるで人形のような完璧な笑顔で、自分の何かが露見しないよう、必死に守り固めているように見えた。 

 

「昨日・・・・・・何か、あった?」

 

もっと、遠回りな聞き方をしてあげれば良かったのかも知れない。けれど、どう言おうか一瞬躊躇したものの、結局口から出たのはそんな直接的な言葉だった。そして、僕が投げかけたたったそれだけの言葉に、彼はそれまでの笑顔が偽りだった事を証明するかのように、演技をすることを忘れた舞台俳優の表情で、肩を大きくびくりと強張らせ、白い手袋の手できっちりボタンが留められた襟元を、ぎゅっと握り締めながらかすれた声で聞き返してきた。

 

「何もねえ。お・・・・お前、こそ、何でそんな事急に聞いてくるわけ?」

「・・・・首、どうかした?傷めたの?喧嘩でもしてきた?」

「どうもしねぇって!気にしすぎじゃねえの?」

 

無意識に庇うように首筋を押さえる仕草が気になった僕は、席を立ち“兄”の傍に行くと、その襟元を押さえる手にそっと触れようとした。その瞬間、僕の手を避ける為だろう。弾かれたような勢いで立ち上がり、バランスを崩したその人が、椅子と一緒に床に倒れ込みそうになるのを寸でのところで僕の腕が拾い上げた。そして腕の中のその人が気を抜いた一瞬を逃さず、第一ボタンを素早く外して襟を広げ、先ほど庇うように押さえていた箇所を見た。

 

「ちょ・・・・・・・っ!やめ・・・・っ」

「・・・・・・・何?これは?」

 

自分でも驚く程、低い声で問いかけていた。

 

「マイラー・・・・では、ないよね?別れたと言っていたし・・・・」

「イタ・・・・・ッ!放せ!馬鹿力っ!」

 

うっかり無意識に、力加減せずにそれぞれの両腕を握り締めていた僕に抗議の声が上がったけれど、今この手を緩めればきっと逃げられてしまうだろう事は安易に予想ができた。

 

「“兄さん”。首筋にそんな痕をつけるような関係の人が・・・・・・・恋人が・・・・いたの?」

「・・・・・・・・・・・・・っ!?」

 

大人の男性相手に、しかも僕たちの関係は兄弟で、こんな風に問い詰めること自体が既に普通の感覚では考えられないだろうけれど、それでも聞かずにはいられなかった。いや、頭で考えるまでもなく、気がつけば口からその言葉が出ていたのだ。

そして僕のその言葉を受けた“兄”の目が瞬間大きく見開かれ、やがて辛そうな表情でギュッと閉じられるのを、僕はただ黙って見ていた。その表情に隠された意味が、僕には理解することができなかったけれど。

 

そういえばと、思い出す。マイラーは言っていなかったか?この人が、客を物色する娼婦のような振る舞いをしていたと。彼女が止めに入らなければ、どうなっていたか分からなかったと、そんな事を言ってはいなかったか?では、やはりこの痕は、その時につけられたものなのだろうか?

 

そう思った途端、カッと頭に血が上がった。昨夜のあの色香を纏った姿で、恋人でさえない、どこの誰とも分からない相手に、その身体を好きにさせていたのかと思ったら、後はもう、勝手に体が動いていた。

 

その襟元に両手をかけ一気に左右に引きちぎると、露わになったその赤い痕に思い切り乱暴に喰らい付いた。

そんな痕跡を、この人の身体に残しておくなんて、どうしても我慢がならなかったのだ。

 

「ウア・・・・・ッ!馬鹿!お前っ、何考えてる・・・・・・!?」

 

僕と“兄”の身長差で、僕がその腰に片腕を回してがっちりと抱きこんだ為、床から離れてしまったつま先をばたつかせて身を捩って逃げようとするその人の項にもう片方の手を添えた。

迷ったのは、ほんの一瞬だった。

荒い息をつくその唇に、乱暴な、雰囲気など微塵もない口付けを仕掛けた。それから逃れようと顔を左右に振る後ろ髪を掴み上げ、抵抗を赦さず、さらに口内を犯した。

歯列を割り、舌を捕らえ、舐りあげた。角度を変え、何度も何度も繰り返し。やがて腕の中の人が抵抗することを諦めたのか、ふ、と力を抜いたので、そっとそのつま先が床に着く高さにまで下ろしてあげようとした、その瞬間。ずどんと音がするような物凄い衝撃が鳩尾に入り、たまらず僕は前かがみに倒れこんだ。僕の隙をついて当て身を喰らわせた“兄”はひらりと身をかわして、僕の手の届かない安全圏へと避難すると、僕にあて付けるかのようにごしごしとこれ見よがしに袖口で口元を擦り、なんという事だろう。とんでないセリフを僕に叩きつけてきたのだ。

 

「お前、キス下手すぎ!」

 

純情そうな顔をして、なんて事をいう人だろうと少なからず精神的なショックを受けていた僕を尻目に、何食わぬ顔で倒れた椅子を元に戻すと、のんびりとした声を掛けてくる。

 

「ほらほら、時間ねえぞ〜。朝飯喰っちまおうぜ?」

 

その後、すっかり毒気を抜かれてしまった僕は、あらためて残りの朝食を片付けたけれど(結局“兄”はジュース以外口にしなかった)話をはぐらかされていたのではと気がついたのは、兄と共に職場にたどり着き、自分の持ち場のデスクに座ってからだった。

 

 

 

 

 

********ま、また駄目だった・・・・・チクショウ・・・・***************

 

 

 

 


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