ひかりへと続く扉F〜この胸の熱
「お早うアル!よく眠れたか?今日はシーツ洗濯しちまうから後で出しとけよ」
ダイニングに一歩足を踏み入れると同時に威勢のいい声がキッチンの中から寄越される、これは毎日のことだ。それほど大きな音を立てて階段を下りたりしているつもりはないけれど、こんなふうに朝のこのときばかりではなく、何時でも僕が何処にいて何をしているのかという事が、その人には総て分かっているようだった。かといってこちらの様子をいつも逐一観察しているのかといえばむしろその逆で、僕がその人のほうに目線を向けても大抵は違う方ばかりを向いている。余程耳がいいのか、それとも家での僕の行動は、先を読むまでもなくパターン化しているという事なのだろうか。そんなどうでもいい事を考えながら“兄”の手伝いをしようかとキッチンを覗き込むと、黒い厚手のシャツにダボついたジーンズ姿の人が忙しそうに動き回っているのが見えた。
「おはようございます。ニイサン」
いつものように声をかける僕をひょいと振り向き、にっこりと明るい笑顔を見せると、ちょっと手伝えよと手招きして呼び寄せた僕の腕に空のカップや紅茶のポット、サラダなどが乗ったトレイを押しつけてくる。結構な重みのそれをきちんと受け取ろうとよりその人の近くへと一歩進んだとき、フワリと僕の好きな香りが鼻腔を掠める。
その香りは、何と表現すればいいのだろう。この人からいつでも香る、癒されるような、甘ったるいような・・・・・・・・・ほんの少し切ないようなそんな気にさせる、とてもいい香りだ。何か特別なトワレでも使っているのかと試しに聞いた時には、思い切り眉間にしわを寄せて「男がそんな気色悪いもん使うか!」・・・・・吐き捨てるようにそう怒鳴られたっけ。それにしても、“体臭”と分類するには勿体ないようなその香りは、その人の髪といい背中といい、全身から香っているようだった。だから実は僕も、たとえ音や気配がしなくても、その香りのおかげで彼が近づいてきたことを察知する程度のことは出来るのだった。
いつもの白い手袋の両手で器用にスクランブルエッグをふたつの皿に取り分け、トングで掴んだトマトを乗せるのを見届けると、空いたフライパンを洗うために僕はシャツの袖を捲くった。
なぜか“兄”はいつも手袋をしているので、自然こういう直接水に手が触れるような仕事はすべて僕が代わりにやるようになっていた。とはいえ、僕が起きる前などにはこうして一人で簡単なサラダを作ったりすることはしているのだ。そのとき、この手袋はどうしているんだろう。やっぱりちゃんと外しているんだろうか、それとも何か僕の知られざる技によって汚さずにそれらをこなしているのだろうか。フライパンと、ボールやいくつかの調理道具を洗いながらそんな事をぼんやりと考える。
最近(というか、僕にはほとんど“最近”の記憶しかないのだけれど)僕はいつもこうなのだ。それとも、もともと僕はこんな人間で、記憶を失くしたことでニュートラルな状態になった感覚が“少し変わっている自分”を意識できるようになっただけのことなのかもしれないが。
とにかく、すぐにぼんやりと思考の世界に入り込んでしまう傾向があり、さらに困ったことにそのとき決まって考えている事柄というのが、この“兄”に関わることにほぼ限定されているのだった。この2〜3日に至ってはさらにヒドイ事に、夢にまでその人が出てくるという有様だ。
まさしく“寝ても覚めても”という近頃の僕の挙動は余程不審に思われているらしく、目に見えてその人が僕の稼動範囲内に足を踏み入れることが少なくなったように感じて、少し寂しく思ってみたりもした。この家に来た当初は、時に成人の男兄弟同士にしては不自然なほどのスキンシップをすることもあったのに、今では全くそんなスキンシップどころか指先が触れることすらも稀だった。
先にテーブルについて新聞を読んでいる人の向かい側に座ると、僕のカップに熱い紅茶とその隣のグラスにミルクをたっぷりと注いで、さあいくらでも喰えと言わんばかりに山盛りにパンが盛ってある籠を押しやってくる。これを僕一人ですべてたいらげろ、とでもいうのだろうか。
「今日は俺、用事があるから少し遅くなるけど。お前夕飯ひとりで大丈夫か?」
今まで就業後は途中買い物などに寄ることはあっても、必ず夕食前には帰宅していた人が言うセリフに、僕は紅茶のカップに伸ばしかけていた手を止めた。
「え?何か、急用でも?」
「そうじゃない」
「・・・・・・・・・?」
「月に2回、格闘術の同好会みたいなのに呼ばれてるんだ。そん時はいつも遅くなるから、俺は外で食ってきちまうってわけ。お前は今日も真っ直ぐ帰ってくんだろ?」
「多分。少し買い物をするかもしれないけど、大体いつもどおりに帰るつもり」
頷きながら、そういえばと思い出す。
同じ研究所の別の部門に所属しているマイラーという、何かと僕を気にかけては手を焼いてくれる大柄な女性が所属している同好会に、“兄”が指導員として定期的に顔を出しているという事を直接彼女から聞いていたのだった。
「・・・・そんなに、遅くなるの・・・・?何時頃?」
「え・・・・・・・?」
どうしてそんな事を聞いてしまったのか、分からなかった。自分でも気がつけば無意識のうちにそう問いかけていたのだ。聞かれた方も意外そうに、それまで逸らしていた目をこちらに向けている。
それもそうだ。いくら仲の良い兄弟だからといっても、大人の男性相手にそこまで干渉するのは不自然極まりないことだろう。とっさにそう考えた僕が話題を逸らそうと次の言葉を口にしようとしたその時、その人が言いにくそうに視線を下に落としてぼそりと呟くように返してきた言葉に、今度はこちらが目を見開いた。
「分かんねぇ。・・・・もしかすると今日は帰らないかも知れないから、お前、先に寝てていいぜ」
「・・・・・・・・・・」
なんだろう、この衝撃は。
たったそれだけの言葉に、何故自分はこんなにショックを受けているのだろう?
『今日は、帰らないかもしれない』
そのセリフに言外に含まれる意味が、分からない僕ではない。
これまでは、記憶を失くした僕に気を使って隠していただけで、この人には、そういう相手がいたのだろうか・・・・・?
それきり、なんと返したらいいのか迷った挙句黙ったまま食事に手を付け始めた僕の前で、紅茶だけを飲み干したその人は、ほぼ手付かずの皿を手に立ち上がるとそのままキッチンへと姿を消した。
あの夜。
寝ている僕にそっと唇を寄せて、アイシテルヨと呟き、唇の端にキスを落としていったあの人の行動は、一体何を意味していたんだろう。
僕の感覚では、あれは普通の兄弟間でするようなことではないと思うのに、彼にとっては当たり前だという事なんだろうか。
僕だけが。僕一人が、一方的にこんな想いを胸の内に抱えているという事なんだろうか。
そう思った途端、それまで口にしていた食事がまるで砂を噛んでいるような感触に思えて、僕は手にしていたフォークをテーブルに置いた。やがて少しすると、中断してしまった朝食をどうしようかと考えていた僕の耳に、玄関ドアの閉じる音が届いた。どうやらロクに食事も摂らないまま、僕に声を掛けずに出掛けてしまったらしい。
以前の僕は、医療錬金術部門でひとつの独立した研究チームを統括する立場にいたらしいが、その“錬金術”に関する記憶を失くしてしまってからというもの同じ研究所内で配置換えをされ、今はその研究所内の総務部に所属していた。なので、研究に携わる“兄”との勤務時間が違う事もある為にこうして出勤時間がずれることは多くあったけれど、それでもこんな風に一言も声をかける事なく出掛けてしまうことは今まで一度としてなかった。
やはり、帰宅の時間を問いただすようなことをした僕に不快感を持ったのだろうか。
そして、この様子ではさっきの言葉通り、その人が今日この家には帰らずに、僕の知らない誰かと共に一夜を過ごすだろうことを思うと、どうしようもない切なさがこの胸を締め上げるのだった。
その夜、ひとりで軽い夕食を済ませた僕はそのまますんなりと自室に引き上げる気がせず、リビングの長椅子で少しでも気を抜けばたちまち霧散してしまいそうな集中力をどうにか掻き集めながら、“兄”から借りていた錬金術の入門書のページをゆっくりと捲っていた。さっきから見ないようにと意識しているのに、つい目をやってしまう時計が示す時刻は、既に日付が変わって午前2時を少し過ぎたところだ。彼が帰らないだろう事を確信しながらも、心のどこかでは今にも玄関の鍵が開けられ、ほろ酔い気分のその人が、僕が起きていることに驚きながらも“ただいま”といいながらこのリビングに入っては来ないだろうかなどと馬鹿な期待をしている寂しい自分がいた。
しかし現実には、僕自身にも明日はいつも通り研究所での勤務があり、これ以上過ぎた感傷で帰る筈のない人を待ち睡眠時間を削った挙句、自らの業務に支障をきたす訳にはいかないのだ。栞を挟むことなく手にしていた本をそのまま閉じると、ストーブの火を落とし、リビングの灯りを消し、その足で階段へと向かう。灯りをつけるのも面倒で、暗い階段を一段上がりかけた丁度その時だった。
『エドワード?ほら、ちゃんとしなさいって、家に着いたよ』
『・・・・・・・・・・・・ン・・・・?』
玄関のドア越しにそんな声が聞こえて、外側から手際悪くガチャガチャと大きな音を立てて鍵を開けている音がした。聞こえてくる声から一緒にいるのは、あのマイラーだということが分かった。そしてこんな時間まで二人きりでいたのだろうかと咄嗟に考えた僕は、なんとなく家に入ってくる2人と鉢合わせすることに抵抗を感じて、そのまま階段脇の玄関からは死角になる位置に身を寄せた。
ドアが開かれ、2人分の足音が室内に入ってくると同時に、外の冷たい空気が床を滑るように入り込んできた。
しっかりした方の足音はマイラーのもの、引きずるように不規則な靴音は”兄”のものらしい。大柄なマイラーに抱えられる様にして廊下を移動し、どうやらリビングのソファを目指している様子だ。
「これは・・・・アルフォンスを起こしてきた方がいいかも・・・・」
ため息交じりに呟く声に、呂律の回らない掠れた声が重なる。
「奴は起こすな・・・!ひとりで・・・・ヘーキだ・・・・」
「ひとりでまっすぐ歩くこともできない酔っ払いが偉そうに言うんじゃないよ。大体今日の君の態度は何?まるで酒場で今日の客を物色する娼婦みたいな真似して、こっちが止めなかったらどうなってた事か・・・・オイ、分かってるの?」
「っせーな・・・・・別にいいだろ。欲求不満が解消できて、ついでに金も稼いで、お前はだらしない昔の男の愚痴とヤケ酒にこれ以上付き合わされずに済むんだぜ?うまい話じゃねえか・・・・」
「なにを自棄になってる?最近の君、本当に格好悪いよ。過ぎたこととはいえ、こんな男と一時でも付き合ってた自分自身が情けないわ」
「・・・・・・お前今日、言う事いちいちキツクねえ?」
僕が自室に引き上げていると思っているからこそなのだろうが、その耳を疑うような内容の会話に僕は心底衝撃を受けていた。
どうやら彼女とともに出かけた先のパブか何かで、どこかの男に思わせぶりな態度をしたらしい事。
彼女が止めに入らなければ、そのままその男に身を委ねていたともとれる投げやりな物言い。
さらに、マイラーと兄が以前恋人の関係にあったという事実。
今朝のテーブルで会話を交わした時に受けたものと同じ、いや、それよりもさらに大きな衝撃が僕の胸を貫いた。
これまでずっと、あたりまえのように、この人の存在が自分の為だけにあるものなのだと思い込んでいた気持ちが、炙り出される絵のようにはっきりとした輪郭を浮かび上がらせていた。
この人は、自分のものだと。自分だけのものだと、僕はなぜこうも盲目的に信じて疑わずにいたんだろうか。
そして、いつも変わらない明るい笑顔を僕に向けてくるその人のものとは到底思えない、捨て鉢な言動が心に引っかかった。これではまるで、失意のどん底にいる人間のようだ。僕の知らない所で、それほどまでに辛い思いをしていたのだろうか。辛い・・・・・・恋を、しているのだろうか。
手にした本をギュッと掴むと、僕は廊下の灯りのスイッチを入れ、リビングへと足を向けた。
「・・・・・アルフォンス・・・・起きてたの?」
今さっき消したばかりのリビングの灯りをつけると、ソファの横に困ったように腕を組んで立っているマイラーと、そのマイラーに見下ろされるような形でだらしなくソファに身体を投げ出しているその人の姿があった。
「今、丁度寝ようかと思ったら下で音がしたから・・・・。マイラー女史、遅くまでごめん。どうもありがとう」
「・・・・こっちこそコイツが飲むの止められなくて・・・・でも、アルフォンスが起きているなら心配ないね。私は帰るわ」
「え?こんな深夜に女性の一人歩きはまずいでしょう。泊っていったら・・・・」
大判のショールをマフラー代りに首元に巻き付けながら、マイラーが豪快に噴き出した。
「アルフォンス、君だけだよ。私を”女性”呼ばわりするツワモノは!この“元カレ”にしたって、私をほぼ男と同等に扱うっていうのに」
「・・・・・・ごめん、今の会話聞いてたの、分かってたんだ・・・・?」
気まずそうに言う僕に、マイラーはにっこりと引き込まれるような笑顔で応えてくれる。決して美人ではないけれど、なんて素敵な女性なんだろうと思わずその表情に見惚れている僕の肩を、その大きな手で男らしく叩いてくる。
「元彼っていってもとっくに終わった事だし、実は私もう次の人いるし、まあ奴も私も血迷ってたってコト。だからまあ、気にすんな?」
まるで“兄”のような口調でそう云いおいて、見送りは無用とばかりにさっさとドアの向こうに姿を消したマイラーのそのセリフに含まれる言葉の真意を測りかねた僕だった。
”気にするな”とは、いったいどういう意味だろうか?この歳になってまで、自分の兄が異性と付き合う事をよしとしない程に強いブラザーコンプレックを持つ人間だと認識されている、ということだろうか。
ひとまずキッチンから持ってきた冷たい水を入れたグラスを酔いざましにと差し出すと、その人は鬱陶しそうに上半身を少しだけ起こして、僕の手ごと受け取ったそれを一気に飲み干した。そらした首筋に、飲みきれずこぼれた水滴が線を描いて下へと落ちていく様子が、恐ろしい程に淫らがましかった。それを乱暴な仕草で白い手袋の甲でぐいと拭い、そのまま、また背もたれに身を預けると、瞼を重たそうに上げた視線をじっとこちらに向けてくる。いつもはうっすらと薄桃色をした唇が、今日は多量に摂取したらしいアルコールの所為で真っ赤に熟れていて、そこからはいつもより少し早い呼吸が繰り返しこぼれていた。今にも閉じてしまいそうな瞼の動きに合わせて長い金色の睫毛が目もとに影を落とし、朝は首元まできっちりと留められていた黒いシャツの釦はすべて外されていて、その隙間から上気した肌が見え隠れしている。
今、この目の前にいる人は、壮絶な色香を放っていた。もしかすると、マイラーがいっていたさっきの“兄”の態度とは、今のこの様子のことだろうか。確かにこれならば、十中八九の男が“誘われている”と勘違いをしても不思議はないだろうとさえ思えた。
でも、こんな姿を何処の誰とも知らない相手に見せ、あまつさえその身体を安易に他人に許そうとした事を思うと、堪らなかった。
胸の中で、火が燃えているようだ。
この苛立ちは、自分に向けたものなのか、目の前のこの人に向けたものなのか、それともそんな彼の姿を目にしただろう見も知らない男に向けたものなのだろうか。
「アル・・・・・・もう寝ろ、俺の事は放っておけ・・・・・頼むから」
掠れた声でそう言いながら、気だるげにソファに横になろうとする肩にそっと手をおいて、自室で休むように言おうと口を開きかけた僕は、ふいにものすごい力で胸元を掴まれ引き寄せられた為にソファに倒れ込んだ。今までぐったりとしていたその人のいったいどこにこんな力があったのか、というぐらいに鮮やかな行動だった。引き寄せると同時に僕の身体を反転させて仰向けに引き倒し、その横に膝をついてじっと見下ろしてくるその人の表情は、逆光になっていて分からなかったけれど・・・・熱い目で見られているのだと、肌でそう感じた。黙ったまま抵抗をせずにただ見上げているだけの僕の方に、ゆっくりと白い手袋の右手が伸ばされて、その中指の先で下唇をそっと撫でてくる。これはただ触っているというものではなく、まぎれもなくそうしようと意志をもって愛撫しているのだと分かる触れかただった。
一体、どれだけの間そうしていたのか。
ほんの一瞬のような気もしたし、とても長い時間だったようにも感じられた。
「・・・・・・俺の側にいたら、あぶねえぞ?今日の兄ちゃんは理性ぶっ飛んじまってるからな・・・・」
くくっと喉の奥で笑いながら、僕の上から身体を起こし、そのまま床に落ちていたコートを面倒くさそうに拾い上げると、早く寝ろよ、お休みと言って寄越し危なっかしい足取りでリビングを出て行った。やがて、階段を上がっていく靴音が聞こえてくる。
「・・・・・・・・・・何なんだよ一体、あの人は・・・・・・!!」
困ったのは残された僕だった。何の前触れもなしに、あんな尋常でない色香を当てられ、引き倒され、唇を意味深に愛撫された挙句、突然放り出された僕の中で走り回っているこの気持ちを、どうやって収めろというのだろうか。
「確かに、あの態度はあんまりだ・・・・・・」
理性が飛びそうなのはこちらの方だと、ソファに倒された姿勢のまま両手で顔を覆い、長いため息を吐いた。今日は、このままここで眠ってしまおう。火の気がない冷え込んだ部屋の冷気が、火照った体を冷やしてくれるだろう事を期待して、灯りも落とさずにそのまま僕は目を閉じた。
また、今日の夢にも出てくるのだろうか、あの人が・・・・・・・・・・。