ひかりへと続く扉E〜訪う記憶
がしゃん、がしゃん・・・・・・きし、きし、きしきし・・・・・・・きい。
『・・・・・・何の、音だ・・・・・・?』
がしゃがしゃがしゃ・・・・・・がしゃん。きしきしきし・・・・・・・・。
『ああ、鉄が擦れる音だ・・・・・・・鎧の・・音だ・・』
そこは、薄ぼんやりとした世界だった。目にフィルターを掛けられたように、目の前にある物の情報を視覚のみでとらえるのは難しい、そんな感覚だ。音の聞こえ方も奇妙で、耳に届くすべてがオルゴールの箱の中で響いているように、必要以上に周囲の空気を震わせていた。それでいて身体は嘘のように軽く、まるで何の負荷もない無重力の空間にいるようだった。
自分は今、どこかに向かって歩いているらしい。くすんで所々が欠けひび割れた赤茶色の煉瓦をはめ込んだデコボコな道を、ただ歩く。古びて傾いた建物ばかりが軒を連ねる、さびれた人影のない街。
その、右斜め前を行く金色の三つ編みに真っ赤なコートの小さい小さい後姿をいつでも視界のどこかに置くよう気をつけつつ、周囲を注意深く窺いながら歩いていた・・・・・・・。ふとその前を行く赤いコートの小さな人間が足を止め、こちらを仰ぎ見るように振り返り、気の強そうな眼差しで何かを話しかけてくる。その頬は砂埃ですっかり汚れ、よく見れば三つ編みも解けそうになっている。コートは汚れて毛羽立ち、その下に着ている黒い上下のあちこちにも綻びが目立ち、襟の隙間から見えたまだ稚さを残す首には、鋭利なもので切り付けられたような赤い筋が周囲の皮膚をひきつらせて線を引いている。それをよく見ようと身をかがめて近づくと、カサついた唇の端にも血の滲む痣があり、さらに顎の下には適当に拭ったままで乾いた血の跡を見つけ、その顔色は見るからに青ざめているようだった。
『にいさん。つかれているんでしょう?すこしやすんでいこうよ』
その声を無視するように前へと向き直り再び歩を進めようとする背中に、もう一度声が響く。
『にいさん。うそついてもだめだよ。だってまた、からだがみぎがわにかたむいてるもの。オートメイルがおもいんでしょう?たいりょくが、げんかいにきているしょうこだよ』
それでもまだ歩くことを止めない背中に大きな鎧の手が伸び、その身体をさも軽そうな動きでひょいと抱え上げ肩の装甲部分に座らせると、赤いコートの人間は何やら大きな声でわめき散らしながら足をばたつかせている様子だ。
『にいさん。おねがいだよ。おねがいだから、ボクのいうことをきいて』
『あせるきもちは、それはボクにだってあるよ。でもね、にいさんはもっとじぶんをだいじにしないといけないよ。わすれているでしょう?ボクとにいさんのたましいとからだのいちぶがどこかでつながっているってこと』
・・・・・ああ、そのセリフは耳にタコが出来るほど聞いてきた。俺が無茶をやる度にそういって自分の身体を質に取り、やれ休めだのやれ食事をしろだのと脅してくる、これはお前の常套手段だったよな。
『分かった。分かったよアル。そうだよな、俺がちゃんと2人分食って、2人分寝ないと、向こう側のお前の体に影響が出ちまうもんな』
『そうだよ。きをつけてくれないと。それに、それだからにいさんのしんちょうも、のびなやんでいるんだよ』
『んな・・・・・っ!?お前っ!なんて暴言吐きやがる !!』
笑い声がする。鉄の空洞の中で響く、明るく透き通った少年特有の高い声が、楽しそうに笑っている。
いや・・・・・・この声は・・・・なんだ・・・・・・・?
細く、高い・・・・・・すすり泣く様な、悲鳴のような声が聞こえる。
切な気な声・・・・・・・・女の声だ・・・・・・・。
ああ・・・・・そうか。
今日もまた、やってきたんだな。あの記憶が・・・・・・・。
目を開けるとまず見えるのは、窓から差し込む青白い月明かりに照らされ闇に浮かび上がる天井だ。時刻は、枕元の置時計に目をやるまでも無くおよその見当はついている。なぜなら、いつも必ずこの時間に目を覚ましてしまう習慣がついているからだ。
のろのろと上半身を起こしながらためしに見た時間は、やはり午前3時。これからまた朝までの間を、本を読む気にもなれないまま、ただまんじりと過ごすことになるのかとうんざりした気分でベッドを離れ、音を立てないように注意を払いながら1階へと足を向ける。
ひとり分にしては量の多い紅茶をティーポットにたっぷりと淹れてから、ひざ掛けを申し訳程度に肩にはおりキッチンのテーブルに頬杖をついてじっと座る。そうして数時間をこの体勢でじっとやり過ごし、朝になれば起きてくる弟に明るい笑顔を向け兄貴ぶった調子で話しかけてやる時を、ただ待つ。
「よく眠れたか?」とか「明け方は少し冷えたよな」とか「寝癖がついてるぜ、ちゃんとしてこいよ」とか・・・。
それ以外にまだ言ったことの無いセリフのうちで、兄貴らしい自然な言葉は無かっただろうか。
あの事件の後、初めてふたりでこの家に戻ってきた時のアルフォンスを思い出す。
玄関ドアを開け、一歩部屋に足を踏み入れた途端明らかな安堵の表情を浮かべていた弟の様子。カーテンや、壁の時計、窓際に置かれている陶器で作られた猫の置物、床のラグ、それから・・・・・・・目に映るすべてのものをひとつひとつ懐かしそうに、目を細めて見ていたそのときの顔。ごく自然にキッチンへと足を向け、調味料や気に入りの大皿のある場所、調理器具や食材の収納場所などを違えることなく確実に言い当てながら、それら辿っていく指の動き。
記憶を失くす前のアルフォンスの姿が、確かにそこにはあったのに、振り向いて俺を見るその目だけが違うものに変わっていた。遠慮するように少し躊躇いがちに寄越される眼差し。
お前の兄貴を二十三年以上やってきて、今更お前のそんな目を見るはめになるなんてな・・・。
そう、その視線一つとっただけでイヤというほど思い知らされるのは、アルフォンスの中ではもう俺は赤の他人でしかないという確たる事実だった。
実はアルフォンスの中から完全な形で失われた記憶というのは、俺に関する一切の事柄以外にもあった。それは幼い時分から俺と共に、それこそ日がな一日没頭し、その知識を際限なく広げ身の内に蓄え築き上げてきたもの。弟があれだけの努力に代えてようやく自分の血肉にした筈の錬金術に関する記憶のすべてが、跡形も無く抜け落ちていたのだった。
錬金術という分野の学問が確立してから相当年月が過ぎた今現在にありながら、なおも“錬金術師”と呼ばれる人間の数がごく限られたままというこの状況には、それなりの理由が存在する。
錬金術と他の学問や技術とを比較した場合の最大の相違点は、学べば万人が必ずしも身につけることが出来る類のものかどうか、という事だ。錬金術を学ぶにはまず、化学や物理をはじめとする知識は勿論のこと、医学や工学などの専門知識など多岐にわたる分野を学び、それらすべてを完全に理解することが大前提にある。そうした上で錬金術の法則や構築式の組み立てなどを学び、ようやく実技としての錬成を行う段階に到達するという気の遠くなるようなプロセスを経なければならないのだ。そしてさらに、その段階をすべて踏んだからといって、誰もが必ずしも錬金術を発動させることが出来るのかといえば、それもまた、否なのだった。まだそのメカニズムは理論的に立証されていないけれど、錬金術師としての見地から俺の考えを端的に言うならば“インスピレーションを持っているか否か”ということだ。大抵の人間は、いくら頭の中で理路整然とした構築式を思い描こうが、最後の最後で錬成陣に発動させる為の念を送ることが出来ない。そしてその才能は、学んで得るものではなく、もとからその人間に備わっているものなのだ。
俺が錬成を行うときに無意識に思い浮かべる映像は、溶融した鉄のイメージだ。すべてのものが熱で溶かされ、分解され、混ざり合い、やがて新しい別の何かへと形作られていく・・・・・・。それに対しアルフォンスがいつも思い浮かべていたのは、水がさまざまな変化を遂げていく流麗なイメージだったのだと俺は初めて知った。いつでもそのディテールまでを正確に、繊細に具現する錬成を行っていた人間が浮かべるにふさわしい映像だった。
そのイメージがこうして俺の中にあるということはつまり、アルフォンスの中にそれが残されていないことを意味していた。もともと飛びぬけて優れた記憶力と理解力を持つ弟のことだから、失った知識を再び手に入れるのは決して不可能なことではない。しかし錬金術を発動させる際の要となる“インスピレーション”を失った人間が再びそれを取り戻せるかどうかを考えたとき、その希望はあまりにも薄かった。
誤った場所に入り込んでしまった記憶をあるべき場所に戻すには再び2人同時に互いを錬成しあうしか方法は無く、片方の人間がこうしてその術を失ってしまった以上、アルフォンスが記憶を取り戻せるべくもないのだ。
静まり返った室内に、時計の秒針の音だけが無機的に響いていた。
テーブルの上に置かれたステンドグラス製のランプの明かりだけが灯る暗いダイニングはしんと冷え込んで、さっき淹れたポットの紅茶もすっかり温くなっていたけれど、新しく淹れなおす気にもなれずそのまま喉に流し込む。
ふたりこの家に戻ってから既にひと月が経過していたが、戻ったその日の夜から毎日必ず夢に現れる弟の記憶に、俺は悩まされ続けていた。
幼い頃の記憶。母の錬成に失敗した挙句、鎧の体で生きることを余儀なくされていた日々の記憶。高い目線から見下ろしている、沢山の俺の映像。誰もいない静かな夜の街中で見上げた月の青さ。肉体を取り戻した瞬間の言いようの無い喜び。少し低くなった位置から見る、また沢山の俺の姿。
そして・・・・・・・俺が見知っていたり、全く見たことのなかったりする多くの相手との情交の場面。
どうして。よりによってなぜそんな記憶までもが俺の中に入り込んでしまったのか。
俺と愛し合うようになる以前の弟が、どんな生活を送っていたのかは既に知っていたし、俺にも何人かの女と付き合った過去がある訳だから、それを当然のこととして受け止めていたはずだった。それなのに、弟の目線から見たそれらの映像が否が応でも脳に直接に入り込んでくるというこの状況に、俺の神経は疲弊した。
弟の愛撫を受け、あられもない痴態を晒す大勢の女たちと、幾人かの男たちの姿が途切れ途切れに視界を過ぎっていく映像。そしてそれらよりもさらに鮮やかな色彩を帯びて浮かび上がる、弟に愛される俺の姿が・・・・。
夜毎夢のところどころに現れては消え、消えたかと思えば再び現れ、俺はたまらず眠ることを放棄するのだった。
起きて、意識を保っている間はまだいい。ひとたび眠ってしまえば、弟の記憶が好き勝手に俺の頭の中で再生や停止を繰り返し、心臓を鷲摑みにされるような衝撃を受け飛び起きる。眠ってしまえばまた見たくも無い映像を見せられるような気がして、そのまま朝が来るのをただじっと耐えて待つ。
眉間の前で硬く組んだ傷だらけの両手の指に、ギリと歯を立てると間もなく口の中に鉄の味が広がる。手に無様な傷をどれだけ作ろうが、身体の痛みの方が数倍マシだった。この、切れない刃物で力任せに引き裂かれるような胸の痛みに比べれば、こんなものは“痛み”などと呼べる代物ではない。
これが、嫉妬というものか。
俺のアルフォンスに向ける愛は、温かい穏やかなものばかりでは当然なく、その中には肉欲や独占欲などという、美しいとは言い難いものだって含まれていた。にもかかわらず、俺はこれまで一度として嫉妬という感情を味わうことがなかった。
こうなってみて、初めて知る。アルフォンスが俺に悲しみや寂しさ、苦しみ、嫉妬などという感情を感じさせないようどれほどに心を砕き、大切に慈しんでくれていたのかということを。
愚かにも俺は、アルフォンスの愛の深さと大きさをすっかり見誤っていたのだ。
「これは・・・・・・・罰か・・・・・?」
そうかもしれない。
本来望んではならないものを望み、決して手にしてはいけないものを、道理を曲げてまで手に入れ、与えられる奇跡のような愛の本当の深さにさえ気付かずにいた・・・・・・分かろうとしなかった、俺への罰。
「ゴメン・・・・・・・母さん・・・・・・・・ごめん・・・・・・・」
兄弟である俺たちが許されない関係を持ち背徳者に成り下がった事を、きっと悲しんでいるに違いないその人の面影を思い浮かべた。
人間には、与えられた分というものがある。それ以上を望めば、いずれ必ずどこかで帳尻を合わせなくてはならないのだと、幼いあの日に学んだはずなのに、俺はまた同じ過ちを犯したのだ。
だとすれば、その代償がこの痛みだというのなら、逆に有難いとさえ思える。弟には、なにひとつとして落ち度はなかったのだから、当然罰は俺一人が受けるべきものだし、むしろその代償が弟の命でなかったことを見えない何かに感謝するべきところだ。
いつしか、モスグリーンのカーテン越しにうっすらと外の光りが差し込んできていた。部屋の隅にある飾り棚の上の時計に目をやれば、じきに6時を回ろうかという時刻。そろそろアルフォンスが起きだしてくる頃だ。
俺は一度テーブルから離れ、その飾り棚の一番上の引き出しから白い手袋をひと組取り出すとその足でキッチンへ行き、手にこびり付いた血を洗い流した。冬の冷気でキンと冷やされた水が、無数に散りばめられた両手の傷に新たな痛みを与えてくる。洗い終えたところで、改めて自分の愚行の形跡が刻まれた両手を見る。
指の付け根の皮膚が剥がれている様や、所々に残る内出血の痕や、食いちぎった部分の肉が赤々とむき出しになっている甲の傷、両手の親指の先に惨めったらしくこびり付いている剥がれかけた爪、そんなものをまじまじと見る。見ていると、ほんの僅かだけ胸の痛みが和らぐような気がするのだ。もっと、もっと痛みを与えたい。いっそこの指を切り落としてみてはどうかと考えることもあったが、それは流石に弟に気付かれるだろうからと、なんとか思いとどまっている。
俺は、如何しようのない愚か者だ。せいぜい精神を病んで、堕ちるところまで堕ちればいいさと、投げやりな気分で笑いをこぼしながら手袋をはめた。機械鎧の右手を隠す為に長年手袋を着用していたおかげで、白い手袋を日常的にしていても今更不振がる人間がいないのは幸いだった。だからたとえ弟にそれを聞かれても、「習慣だ」の一言で片がつくだろう。
2階の弟の部屋があるあたりから微かに足音が聞こえてきて、その部屋の住人が起きだしたのだと知る。
さあ、今日も一日、元気で頼りがいのある男前な兄貴を演じきらなくては。俺は一つ大きな深呼吸をして、両手で頬をパンッと張り、気合いを入れた。
まずはコンロで湯を沸かそう。じきに身支度を整えて降りてくるだろう、未だに礼儀正しく朝の挨拶をしてくる弟に、とびきりうまい紅茶を淹れてやる為に。
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