ひかりへと続く扉C〜その人
僕は、病室のドアを開けて初めてその人を見たときの衝撃を、きっと一生忘れることは出来ないと思った。
その家は、セントラルと呼ばれている行政機関や軍の統括機関などが集中している、いわばこの国の心臓部にあたる街のはずれにある、閑静な住宅地の一角にあった。欅の木が立ち並ぶ道に沿って、整然とそれなりの広さを持ったレンガ造りの家々が左右に点在していて、その落ち着いた雰囲気に、僕は何故だかとても安心感を覚えていた。記憶を失くしてはいても本能に近い感覚の部分で、ここが自分の住む場所なのだと確かに僕は感じていた。
「アル、着いたぜ。ここが俺たちの家だ。迷子になんないように、ちゃんと覚えとけよ?」
「はい。さっきの病院からここまでの道なら、多分もう大丈夫だと思います」
「・・・・・・・・そっか、そんなら他の道も明日から教えてやるな」
僕の言葉に一瞬返事を詰まらせていたその様子を見て、またやってしまったと心の中で舌打ちをした。
さっきの病院で、幼馴染だという女性から、彼に対して決して丁寧語を使わないようにと言い含められていたのだが、どうやら自分は見慣れない相手には丁寧に受け答えをする人間だったらしく、ついうっかりデスマス調で話してしまうのだ。
気をつけよう。僕がよそよそしい口調で話すたびに、この人が一瞬泣きそうな顔をするのを見るのは、なぜだかとても辛かったから・・・。
「不思議だな・・・・そういうのは、お前覚えてんだな」
「・・・なんとなく、勝手に手が動くというか・・・・僕も不思議な感じがする」
言いながら、木のスパチュラをフライパンのヘリにこんっとぶつけてこびり付いていた玉葱を落とし、左手で殆ど無意識に塩と黒胡椒のビンを掴み取りガスコンロの横に置く。
人間の感覚というものは、記憶を保存している場所とはまた違った場所に蓄積されているのかもしれない。
僕が”兄さん”に促され、自分が彼と共に住んでいるというその家の中へと足を踏み入れた途端、全身から力がふっと抜けるような安堵感があった。廊下の壁にさりげなく掛けられている小振りなフレームも、窓枠を彩る落ち着いた色調のカーテンも、ふと見下ろした足元にあるそのカーテンと同系色のラグも。すべてが僕に好ましさを感じさせ、おそらくそれらは、記憶を失くす前の自分が選んだもの達なのだろうことが窺い知れた。
そして何よりその不思議な感覚が一際強く感じられた場所は、キッチンだった。そこに入るなり、自然に調理器具や食器、様々な食材や調味料などあらゆるものの収納場所をことごとく憶えている自分の腕や手指の動きに、“兄”だけでなく、僕自身もとても驚いたのだった。
たまたま夕食時分であった為、そのまま食事の支度に取り掛かる僕の様子を、始めのうちは驚きの表情で、次第に嬉しそうな笑顔を滲ませて、その人は飽きる事無くじっと傍で見守っている。
足元のオーブンの蓋を少しだけ開けて中身を確認すると、火を落とし、右上の戸棚の扉を開け、鮮やかなオレンジ色の大皿を取り出し傍らにいる人に手渡す。
「これ、お願い」
「おう」
渡す方も渡される方も、ごく自然にそれをしていて、何だかとても幸せな気持ちになった。ふと目を合わせたその人も、多分同じ気持ちでいたのだろう。嬉しそうな笑顔を惜しげもなく向けてくれる。
それにしても、と思う。
目の前にいるこの人が自分の兄だとさっき本人の口から聞かされたが、僕は今だに狐につままれたような気持ちでいる。
どうやら本人にそれを言ってはいけないらしいのだけれど、弟の僕よりもかなり背が低く、体つきもほっそりしている上、なにより24歳という年齢とその性別にあまりにもそぐわない容貌をしているのだ。つり上がり気味の大きな金の瞳に、長い金色の睫。つんとかわいらしくとがった鼻もなんだか女の子のような印象で、唇は薄っすらと紅を差したような色合いを持ちどこか色気さえ感じさせる。やや掠れたそれでいて甘い響きを持つ魅力的な声も、ちょっとした仕草のひとつひとつも何もかもが衝撃的で、さっき病室のドアを開けて初めてこの人をみたときは、思わず声を出すのも忘れて長い間見惚れてしまったほどだ。
本当に・・・・可愛いなあ・・この人・・・・・・キス・・・・・したいな・・・・・。
そこまで思って、ハタと気付く。
おい待てよ?今なんて思った?キス?キスしたいって?
確か、この人と僕は正真正銘、血の繫がった兄弟だったよね・・・?
なんで僕はそんな危ないことを考えたんだろうか。
記憶を失って、相当精神的にキているんだろうか。
うん、そうだ。きっとそうだ。
そうに決まってるって。
ああ。びっくりした・・・・。
「アールー?」
「ああ、ごめんごめん、チョット待ってて」急いでオーブンの蓋を開け、中身を取り出しに掛かる。
ぼんやりしている僕の手元を大皿を掲げたまま可愛らしく小首をかしげて覗き込んでくる仕草に、またしてもドギマギさせられて、正直僕は困った。
何かの拍子でさらりと揺れる昼間より高い位置で結んだ金の髪とか、二番目までボタンが外されている白いシャツの襟元から覗く鎖骨の線とか、その捲り上げた袖口の白くて細い手首とか、直線的に動く綺麗な指先とか・・・・・・。とにかく、色々気になって、目のやり場ひとつきめるのにも難儀させられるのだ。
「あつ・・・・っ!」
「あ・・・っ!馬鹿お前、ちょっとみせてみろ!」
すっかり上の空になっていた僕は、熱された鉄板のふちにうっかり腕を押し付けてしまった。
大皿を脇のワゴンに置くと、その小さな身体がものすごい力で僕の腕を引っ張り、蛇口から勢いよく流れ出る水の下にその腕を持っていく。
まるでワルツでも踊るかのようなその体勢に、さらに心拍数を上げた僕が身じろぎすると、ギロリと睨み上げてくる。
「まだだ。しっかり冷やしとけ!」
言い置いて、手際よく鉄板の上からチキンを取り上げ皿へとのせるとそれをダイニングのテーブルに置きに行ってしまった。
暫く言われるままにそうして冷やしていると、ややして戻ってきた人からもういいぞ、と声が掛けられる。
「・・・・うん、大丈夫みたいだな」なんていいながら、まるで幼い子供の世話をするかのような面倒見のよさで、タオルで僕の腕を拭き、シャツのボタンを外し濡れた上着を脱がせると新しく持ってきた青いストライプ柄のシャツを羽織らせてくれる。
ずいぶんと仲のいい兄弟だったんだなあ、なんてぼんやりと思いながらシャツのボタンをはめていた僕の腕を取ると、少し赤くなった箇所をもう一度確認するようにじっとみて、そして・・・・・。
ちゅっ、と。そこに、キスを・・・・・・した・・・・。
「う・・・・・・わ・・・っ」
「え・・・・あっ!?」
驚いて思わず上げた僕の声に、初めて自分が何をしていたか自覚したようにあわてて手を引っ込める。
その頬が・・・・赤かった。
「・・・・・・・・・・・っ!?」
「わり・・・・・つい、間違えた・・・・・」
くるりと向きを変えキッチンを出て行きながら、ポツリとそんなことを言っている。
間違えた・・・・?なにを?
まさか、他の誰かと僕を間違えた・・・って意味じゃないよね・・・?
なんだろう。そう思った途端、胸の辺りに痛みのような感覚があって・・・・・・。
僕は・・・・・・“面白くないな”と、そうはっきりと頭の中で思ったのだった。
他に比較の対象となる兄弟を知っているわけでもないし、知っていたとしても今の僕は何も覚えていないのだからそもそも比較のしようがないのだけれど、僕とあの人の間には何か普通の兄弟とは違った親密さがあるように感じられた。
親子のような・・・・僕に対する慈しみのような気持ちがあの人からは多分に感じることが出来たし、他でもない僕自身が、その彼を、他の誰よりも大切に感じているようなのだ。
自分で自分の気持ちが分からない歯がゆさに、灯りを落とした部屋のベッドの上でもう何度目か分からない寝返りをうった。
それから、眠ることが出来ないままどれくらいの時間そうしていただろうか。
こつん、とドアの方で音がした。
そのまま、ドアの方を向いて横になったままの体勢でだまっていると、そっと音を立てずにドアノブが回り、ゆっくりドアが開かれた。
「アル・・・・・・寝ちまったか・・・・?」
囁くような、その人の声が聞いてきたけれど、僕は黙って目を閉じた。なぜそうしたのかは、分からないけれど。
きしり、と床が音をたてて、気配が近づいきて・・・・ベッドのスプリングが沈み込んだ。僕の横に、手をついたようだった。そして・・・・・・頬に、吐息を感じて・・・・・・もう、目を開けるタイミングなんてとっくに逃してしまっていた。
・・・・・・・・・・アル・・・・アイシテルヨ・・・・
吐息のような、切なく掠れた声がそう言うのを、僕は確かに聞いた。そして僕の唇と頬の境界線。微妙な位置に柔らかい唇が触れて、すぐに離れていった。
ドアが閉じる音と同時に、僕は目を開けた。今、唇で触れられた場所を、指で触れてみる。
「・・・・・・・・・・・」
そこにはまだ、あのひとが唇で触れた感触がはっきりと残っていて、熱を持っている。頬に感じた吐息の甘やかさを思い返し、その熱い波がじわりと体中に広がっていく。
熱い・・・・・・。
僕は、最初から気が付いていた。
心臓の下に、いつでも消えることなく燻っている小さなちいさな火がある事に。
それがどうだろう。今、その火はあろうことかごうごうと音を立てて僕の身を焼いている。
これは、実の兄に向けるような想いではない。
けれど、それはあまりにも自然に自分自身の中にあった。
僕は、確信していた。
あのひとと僕との関係は、きっと、普通の兄弟のそれではない・・・・・・と。
眠れない時間をやり過ごしながらいつの間に眠りについたのか、僕が翌日目をさますと、既に時計の針は昼食の時間を回る手前にあって、慌ててまずいと飛び起きる。起きてから、何がまずいのだろうと首をかしげた。
「ええ・・・・と、そう!仕事だ!研究所に勤めていたって言ってたよね確か」
クローゼットの中から適当に服を選んで着替えると、小走りに1階へと向かった。あのひとはもう仕事に出掛けてしまっただろうか。
「はよ、起きたか。どうだ身体の調子は?どっか違和感あったりとかしねえ?」
僕の足音を聞きつけると同時にテーブルから立ち上がっていたらしいその人は、ダイニングの入り口で僕を捕まえるなりその腕を目いっぱい伸ばして僕の額に当て体温を確認し、目を覗き込んでは充血してるみたいだと心配そうに呟き、今度は両手の指先で喉元のリンパ腺の位置に触れうんうんとうなずき、最後にまるで子供にするように前髪の上から頭を撫でてにっこりと笑いかけてきた。
・・・・・おかげで僕の心臓は、朝から異様に元気だ。
「平気、だから!その・・・ええ〜と。そういえば僕、何も聞いてないんだけど、あの・・・まさか事故にあったりしてその所為で記憶をなくしちゃったとか?」
昨日から事あるごとに体調を心配されているのを不思議に思っていた僕は、内心の動揺を悟られまいと、ついでにそんな質問をしてみたのだけど。
「ん〜、ま、事故ってーか、事件に巻き込まれたっぽいんだよなぁ。俺も昨日まで意識なかったし、そこんとこの事情まだほとんど知らねえんだよ。今日はさ、その詳細を聞きに軍にカオ出すことになってんだ。お前も一緒に行く?」
くずれた結び目を一旦解いて、金の長い髪を両手でかき上げながらこちらに目線を送ってくるところを見た瞬間、きっと僕の顔は信じられないくらいに真っ赤になっていたんじゃないだろうか。
なぜなら、僕を見るその人の目が、これ以上無いくらいに見開かれていたから。