ひかりへと続く扉A〜願い
四階までの階段を一気に駆け上がると、廊下の壁や天井は煤で真っ黒で、そこら中に焦げ臭い臭気と煙がたち込めていた。既にそこには、この研究所に所属する見知った顔の錬金術師達がいて、どうやら術で酸素濃度を調節し鎮火させたらしいことが知れた。そこかしこの壁が破損し、天井が崩れ落ちたり、床に穴が開いていたりと酷い状況にもかかわらず怪我人はいなかったらしく、そこに医局の人間がいないことを確認し、ほっと胸を撫で下ろしていたところに声が掛かる。
「エルリック主任!良かった〜無事でしたか?」
そう言いながら近づいてきたのは、僕より三歳年下の同じ部屋で働く研究員だった。その身に羽織っている白衣は、廊下や部屋の壁同様に煤で真っ黒に汚れ、よく見ればその顔にも黒いものが付着していた。
「チェルニー君。他のひとたちは!?」
駆け寄り、変わり果てた様相の室内を覗き込みながら他の研究員の安否を尋ねる僕に、彼はいつもと同じ全く緊張感の無い口調で答えてきた。
「いや〜ウチの部屋の奴ら、どいつもこいつも主任より先に来ることなんてないじゃないっスか〜!ホンット、こういう時、日々の行いってのが功を奏すもんなんですねえ〜」
そんな風に言うものだから僕もつい、チェルニー君ソレは少し言葉の用法間違えてると思うな、なんてこの非常時にあるまじき軽口で応酬してしまった。とにかく犠牲者がいなかったのは何よりの幸いだった。
出勤してきたばかりの他の部署の研究員達は、煤だらけになってしまった貴重な文献や、研究レポートの綴り、そして万が一あるかもしれない再度の爆発に備えてか、薬品の瓶がたくさん入った木箱などを次々と働き蟻のような動きで運び出していた。
研究室主任としての仕事はここまでで充分だと見切りをつけた僕は、軍から支給されている紋章入りの白い手袋を両手にはめながら、そこら中に散らばった文献や、まだ使えそうな器具などを吟味しつつ箱に詰めているチェルニーに指示を出した。
「チェルニー研究員。今はまだ、安全を確認したわけではありません。速やかに建物の外に避難してください」
「ええ〜!?でもまだたくさん大事な文献とか・・・・そうそう!この間主任が折角錬成に成功した生体細胞のサンプルとか残ってるんじゃないですか?保管場所教えてもらえれば、これと一緒に持ち出しときますよ?」
彼が言っているのは、現在この研究チームで取り組んでいる新しい蛋白質の錬成理論に基づいて作り出した生体細胞の事だ。今はまだ実験の段階ではあるけれど、いずれ錬金術学界に新たな定説を生むことになる可能性を秘めた研究であり、データをまとめた資料やサンプルは主任である僕ひとりが管理していて、その保管場所は同じ研究チームのメンバーにさえ知らせていない。万が一その研究データが国外に漏洩するようなことがあれば、かろうじて保たれている近隣諸国との勢力均衡が崩れてしまうかも知れない程の影響力を持つものだ。それだから、如何な非常事態とはいえ、たとえそれが同室の気心の知れた研究員であっても、おいそれとそのデータの管理を任せるわけにはいかないのだった。おおまかなデータなら自分の頭の中に全て入っていたから、たとえそれらが焼失するような事態になったところで研究に与える影響はそう大きくはないだろうと思った僕は、あえて今無理にそれらを持ち出すことをやめた。
「生命の安全確保が第一です。元気で生きてさえいれば、後でいくらでも研究はできるでしょう?」
そう言いながら渋る相手に、手の甲をかざして見せた。
「・・・・ああ、主任の“内職”っすね?わかりましたよ、もう」
そう、僕達兄弟が実は軍籍を持ち、ほんの時たまではあるけれどこういった業務に携わっていることは、この職場ではすでに周知の事だった。そしてこの研究室内では、僕のこのにわか軍人的な業務を”内職“と評して憚らないのだ。もっとも自分から望んでこの職務についている以上それについて僕にとやかく言う権利など無いのかもしれないが。
とりあえず詰め終わっていた木箱ひとつのみを大事そうに抱えて階段を下りていく後姿を見送りながら、他の部署の人間達にも避難するよう喚起しつつふと、不自然な状況に気がついた。
これは明らかに仕組まれた爆発だったが、その目的を殺戮とするならこんな時間帯は狙わないだろう。しかし、ただの脅しとしてはあまりにもその意図が読みにくい。爆発の規模自体も中途半端であり、そもそもなぜそれが自分の研究室で起こったのか・・・・?
例えばコレが仮に僕を狙ったものだとする。仕掛けた犯人が事前にリサーチしていれば、僕の出勤時間にはまだ早いと知っていたはずだ。
通常正体不明の爆発が起こった場合、まずはその現場から一度離れ、その現場に戻るのはある程度安全を確認してからだ。そして犯人の狙いが僕ではなく、研究チームの研究データだとすれば、爆発後のどさくさに紛れて運び出すのが一番無難な方法ではないだろうか。
「・・・・・まさか・・・・・・」
さっきチェルニーの言った言葉が頭の中に浮かんだ。
そうだ。この部屋の人間で、今まで誰一人として僕より先に出勤してきた者はいないのだ。それなのになぜ、今日に限って彼は僕より先にこの研究室にいたのだろうか?そして、彼が不自然なく運び出した木箱の中身が気になった僕は、研究データを保管している場所、今は爆発の衝撃でふき飛ばされ壁際に転がっている自分のデスクが据えてあった場所の焼け焦げた床板に触れた。異常はない。錬成痕を完璧に消し去る技術を自負する僕が、密かに床下に作った保管庫に術で厳重な封をした上で、その錬成痕を消す処理をしている為、おそらく誰であろうと知ることは不可能なはずだったし、もしみつけられたとしてもそれを開けるにはそれ相応の技術を必要とするのだが、念のために内部を確認した。
・・・・・・内部は昨日自分で封をする前の状態となんら変わったところはなく、僕は気を回しすぎたらしい自分に苦笑をもらした。大体、珍しく早く出勤していたというだけで、チェルニーに疑いの目を向ける事自体がどうかしている。
・・・・ただ、まだどこかで何か引っかかるものを感じていた僕は、データをこのままこの場所に置いておくことについて再度思案した。
幸い、今までの研究で得たデータのレポートは200枚ほどの綴りにまとめられている。それに錬成したサンプルは腐敗しやすい性質を持っている為、昨日以前のものは既に処分してあり、今あるのは昨日錬成したこのシャーレひとつ分のみだ。これくらいなら内ポケットに入れておいても任務に支障が出ることもないだろうと踏んだ僕は、そのシャーレをポケットに入れレポートの綴りを小脇に抱えると、ひとまず下で飛散物の検証をしているはずの兄と合流する為に階段を下りた。
二階の踊り場まできたその時だった。
タ ン タ ン タ ン・・・
その銃声を聞いた途端、どくんと心臓が大きく脈打つのが分かった。
撃たれたのは、兄かも知れない。
これは僕の直感だった。階段を駆け下り、手近な窓から建物の西側に面した中庭に飛び降り、湧き上がってくる嫌な予感を必死で打ち消しながら、爆発のあった研究室の窓の下へと向かう。既にそこには青い軍服に身を包んだ軍人達がひしめきあっていて、その軍服の群れを掻き分けながら、僕は兄のいるはずの場所をめざした。
「アルフォンス!こっちだっ!!」
自分を呼ぶ聞き覚えのある、しかし語尾の裏返ったその声に嫌な予感が益々大きくなった。
「ハボック・・・・さん・・!」
相当動揺していたらしく、咄嗟にそのひとの今現在の階級さえも出てこない。
「早く来いっ!!」
手招きされるままその人垣の中に分け入ると、その中心には片膝をつくホークアイ中佐と、その腕に抱きかかえられ、うずくまる様に倒れている血だらけの・・・・兄が、いた。
「に・・・・・・にいさん・・っ!!!」
「アルフォンス君!?今救護班がここに向かっているけれど・・・・」
「・・・・・・ル・・・・・・グッ・・カハ・・・ッ」
ホークアイ中佐の腕の中で、何かを言おうとしたらしいその口から大量の血液が吐き出され、激しくせき込みながらその身体を苦しそうに丸めている。見れば、兄の横たわる芝生には既におびただしい量の血液がまき散らされていた。
なんてことだ !!
こめかみでドクドクと脈打つ音が頭の中で耳鳴りのように響いて、視界が急激に狭まり、たまらず兄の横にがくりと膝をついた。
兄の小さな体ががくがくと痙攣を始める。
「にいさん!にいさん!駄目だ!目を開けて!」
兄の身体を腕に受け止めると、すでに体温が異常に低下していることがわかり、貫通銃創だとみられる傷が中心よりやや右寄りの胸部と、左の下腹部にあって、それらはいずれも致命傷となる場所だった。
医師としての知識がある今の僕には医療錬金術を使った通常の治療は造作もないことだったが、しかし問題はその兄の状態にあった。命を持たない物質を錬成するのとは違い、生体を相手にそれを行う場合には、術によって急激に起こる体内の変化にも気を配る必要があるからだ。術の速度によっては、簡単にショック反応を起こし、それによって死に至る危険性はとてつもなく大きいのだ。今の兄の状態は、一刻一秒を争うものだった。つまり、急激な術をもってしなければ、その生命維持機能が回復する前に絶命してしまうほど重篤な状態だったのだ。だからこの瀕死の状態の兄を救うには部分的な再生を行う医療錬金術ではなく、一度その肉体をすべて分解したうえで再構築をする人体錬成に近い術を行わなくてはならなかった。
ただそうすると、兄の失った手足も同時に錬成をすることになり、その分の代価が確実に足りないのだ。
時間がない。もう間もなく、この愛しい人の命の火は燃え尽きてしまうだろう。
兄さん、にいさん、にいさん、にいさん・・・・・・・!死んでは嫌だ !!
どうすればいい?考えろ!まがりなりにもお前は錬金術師だろう?アルフォンス=エルリック!!
どうすれば、この人を救うことができるだろう 。
どうすれば?
不意に、周りの雑音がすべて静寂へと切り替わった。そして、自分の中に浮かんだ、ある一本の道筋。
あるいは、あの扉を開けば・・・・・・できるのではないか・・・・・。
すでに右腕左足のない兄の身体を錬成する代価を、ひとりの身で払うことは危険だ。代価が著しく不足した場合に生じるリバウンド現象は術師のみに返還されるものではなく、術の対象物や対象者にもある確率で起こりうるものだというのが今の錬金術学界での定説だからだ。勿論この兄の身体には、その代価となるべきものを払える余地などありはしない。
けれど。
禁忌を犯したあの日、僕たちふたりはその身体と魂を、分解され、真理の扉を見たのではなかったか。そこでは部分的ではあるけれども、一度分解された兄と僕とが混ざり合い、結果的にはまたそれぞれの身体へと戻った。
ふたりで同時に術を発動すれば、またあの時の再現ができるのではないだろうか。
ふたりの身体を完全に分解し、混ぜ合わせる。そうすればそこで、その身体に刻み込まれていたあらゆる生体機能の喪失という細胞の持つ記憶が兄だけのものではなくなる筈だ。そこから元のふたりに戻るとき、はたしてどちらがより多くの代価を払うことになるのかは分からない。
しかしたとえ術師にその差し出す代価を選択する余地はなくても、確率として考えた場合、兄に降りかかる筈の危険性を確実に軽減することができるかもしれないのだ。
そして、もうひとつ。
僕はさっき自分の研究室から持ってきていた生体細胞のシャーレをポケットから取り出した。これは失われた人体のどの部分にも変化することが可能な蛋白質を構成する細胞で、その成長速度は今まで作ってきた試作品の中でも最高レベルのものだ。まだ実験の段階ではあるけれど、充分代価としてなり得るものだという確信を持っていた。そう、不足した代価を少しでも補う為に、これを使おうと僕は考えたのだ。
迷っている時間はなかった。
僕は、心を決めた。
意識が遠くなりかけている兄を呼び戻すために、その冷たい耳に唇をおしあてた。
「にいさん。時間がない。これから僕が云う事をよく聞いて・・・・?」
この状態にありながら、兄はまだその意識を辛うじてつなぎとめていてくれた。
愛しているよ、兄さん。
あなたを死なせはしないし、僕もあなたを残して先に逝くことなんか決してしない。
まだ、あなたに伝えていない言葉がたくさんある。
まだ、あなたに知ってもらわなくてはならない感情もある。
あなたが受け取るべき幸福は、僕の手の中にまだ、こんなにもたくさん残されているよ。
生きるんだ。ふたりで。
だからどうか・・・・・・どうか。お願いです。
母さん
まだ、兄さんを連れていかないで・・・・・・。
そして僕は、両手を合わせた 。
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