ひかりへと続く扉K〜兄として出来る事
ひんやりとした床が、凍るような寒さを足裏に伝えてくる。俺の心の持ちようで、そう感じているのかもしれないが、昼間あれだけ暖かな雰囲気のダイニングは今、まるで手のひらを返したようにその様子を変えていた。
朝や夕方には、色とりどりの料理や果実、明るい色のクロスで飾られるテーブルも、今はただの素っ気ない木の板でしかない。いつもであればそこに紅茶を満たしたティーポットとマグカップ、そして大抵数ページも読み進めることのできない錬金術の専門書を置くと、あとは所在なく椅子に座って、無駄に時間が過ぎていくのを待っているのだったが、今日の俺には、差し迫ったある案件があった。
あのあと、何事もなかったかのように俺とアルフォンスに笑顔を向け、酒を勧め、いつも通りの他愛ない明るい話題を振ってくる気の良い友人たちに囲まれ僅かな時を過ごした後、ふたりでその店を出て、会話もないまま家までの道を歩いた。
その家へと帰り着くまでの間、俺はあの男が言ったセリフを聞いてしまった弟に、何と言い訳をしようかと考えてみたが、結論は出ないままだった。帰宅した後、それぞれの自室へとひきあげてしまえば、ひとまず今日のところは“その件”について尋ねられることもないだろうと、俺はシャワーを浴びるなり、まだリビングにいた弟に声をかけるのもそこそこに、自分の部屋へと逃げ込んだ。
出来るだけ早く、なんとか不自然なく誤魔化せる言い訳を捻出しなくてはならなかった俺は、弟が寝静まった事を確認した後、音を立てないようにダイニングへと降りると、いつものようにティーポット一杯の紅茶ではなく、デミタスカップにとびきり濃い目のコーヒーを淹れた。
一口飲むだけですぐに胃がおかしくなりそうな濃度のコーヒーをゆっくりと口に含むと、椅子の上で膝を抱えその上に顎をのせ、さっきの店での出来事を思い返した。
自分と弟の関係は研究所の誰もが知っている事実だから、いつか弟がそれを知ってしまうとは思っていた。けれど、まさかあんな最悪な形で弟にそのことが知られてしまうとは考えてもみなかった。
兄弟で、恋人同士。
そうは言っても、結局“肉体関係にあった事実”が露呈しない限り、ただの誤解だったと言って乗り切る事も出来たかも知れないのに、よりによってあの場に弟が居合わせていようとは・・・・俺はとことんついていない自分に苦笑を洩らした。
弟に腕を掴みあげられる前、あの男は俺に言った。
実の兄のくせに。
男のくせに。
弟の愛が欲しくて堪らないのだろう。
弟に抱かれたくて仕方がないのだろう。
俺が返事を返さなかったのは、決してそれを黙殺していたからではなかった。
そんな俺に弟は言った。
何故黙っているのか。何故言い返さないのか、と。
何故だって?そんなの決まってる。
「図星だったからさ・・・・」
思わず笑いを噛み殺しながら口に上らせた言葉は、しんと静まり返った部屋の空気に霧散していった。
そして弟は、こうも言った。
「こんな汚らわしい暴言を受けて、どうしてあなたは平気な顔をしているの?」と。
汚らわしい。
それは、あの男が吐いた下劣な文句の数々に対して言った言葉でもあっただろう。けれど、“兄弟で”そして“男同士”で愛し合う関係を否定する意味も含まれているのだと感じた。
記憶を失くしたアルフォンスは知らない。
俺がどんなに、アルフォンスを愛しているのか。その愛が、どんなに深く、激しく、熱く、歪んだものなのか。何も知らない。
あの下卑た、欲望まみれの目でいつも俺を見てくる栗色の髪の男。所詮は、俺もそいつと同じだ。
ああそうさ。認めてやるとも。すべて、お前の言う通りだ下衆ヤロウ。この俺もまた、おまえと同じ、薄汚れた欲望に支配された低俗な人間だ。いや、もしかすると、それ以下かも知れない。なにしろ俺は、自分にとって最も大切なはずの相手を、畜生道へと引きずりこんだ人間なのだから。
アルフォンスと俺は、真理を分かち合ったからこそ、あれ程までに密度の濃い情を芽生えさせ、繋がりを深くしたのだと思っていたけれど、それは勘違いだったのかもしれない。
改めて考えてみる。かつての弟が、鎧の身体で数年もの間、食べることも、皮膚で何かを感じることも、眠ることすら出来ない異常な状態に置かれながら、何故その精神を狂気に蝕まれることなく過ごすことが出来たのだろうか、と。きっとそれは思い上がりではなく、“俺”という拠り所があったからなのだろう。
今にして思えば、俺は鎧に魂を閉じ込められた弟に向かい日々、繰り返し、いつでも呪文のように言い続けていたのだった。
『心配すんな』
『俺が絶対にお前を元の身体に戻してやる』
『お前の兄貴を信じろ』
『お前のことは俺が絶対守ってやる』
事あるごとに繰り返し言って聞かせたそれらの言葉は、おそらくそれを言っていた俺自身が思っていた以上に、弟にとって重みのあるものだったに違いない。
そしてその言葉を聞くたびに、それらを胸へと深く刻み込み、日々俺という存在に心理的に依存する構図をつくりあげていったのではなかったか。
心へと直接刻み込む・・・・・・まるで・・・・・そう、インプリンティングのように。
それだから、俺は思うのだ。
人間の性質は、持って生まれた要素がその8割を占めるといわれるけれど、そんな通常ではありえない経験をしてきたアルフォンスに、その定説が当てはまるとは考え難いのでは、と。むしろ、あれだけの経験を積み重ねてきたアルフォンスだから、実の兄に対し肉親の間では通常持ち得ないはずの感情をその胸に芽生えさせたのではないだろうか。つまり、今の過去の記憶のない、まっさらな状態のアルフォンスこそが、アルフォンス=エルリックという人間の本来あるべき姿なのだといえるのではないか・・・・。
あの男の言葉に、嫌悪の表情を露わにした弟。
そして、それを「汚らわしい」と表現した感覚。
あれこそが、弟の持つべき本来の姿ではなかっただろうか。
そうだとするならば、今の俺がするべき事は決まっている。
アルフォンスを、俺の手から解放してやること。
ただ、それだけだ。
「ニイサン・・・・・?こんな時間にどうしたの?」
ぼんやりと思考の世界に入り込んでいた俺は、いつのまにかすぐ横に弟が近づいて来ていた事に、声をかけられるまで気がつかなかった。目を上げれば、いつもの綿のパジャマにガウンを羽織った弟が、コーヒーカップを片手に俺を覗きこむようにしていた。
「お前・・・・眠ってたんじゃなかったのか?」
「うん。何だか・・・・・眠れなくてね。僕もここにいていいかな?」
まさか“嫌だ”とは言えず、俺が黙って目線だけで曖昧に応えるのを肯定と解釈したらしい弟が、テーブルの淵に腰を凭せ掛け、俺の目の前にあったデミタスカップと自分のコーヒーカップを取り換えた。
「・・・・・・・・?」
「少し温くなっちゃったけど、ミルクティーなら飲めるでしょ?」
そうして俺の飲みかけのコーヒーを一口含んで、どんな淹れ方をすればこんなに濃いコーヒーが出来るのかと可笑しそうに笑った。
・・・・・その、横顔を見る。
父親似の俺と違って、母に似た柔和な面差しの弟。俺よりもやや落ち着いた色調の金の髪と瞳をした、精悍さも持ち合わせた大人の顔。小さい頃は、愛くるしいという表現がしっくりくる天使のような容貌だったのが、いまではすっかりその殻を脱ぎ捨てて、優しげな目元にかつての面影を残すのみだ。
俺の愛した男の顔。これからは兄として、その顔を見つめていくんだろう。そう思っても、不思議に俺の心は凪いでいた。きっと、いつでもその覚悟が胸の内にあったからだろうと思う。
恋人としてのアルフォンスと決別する、そのための覚悟が。
「お前も結構薄情もんだよなぁ、アルフォンス」
不意に、そんなセリフを思いだした。
以前、軍の執務室で、ほとんど無意識の内に自分の口からこぼれ出てしまった言葉だ。俺に関するすべての記憶を失った弟に向けて、冗談めかしながらも、なじる様にぶつけたそのセリフ。あの時、薄情者だなどと云ってしまった俺は、本当に最低な奴だ。そう言われたアルフォンスの心境を今にしてようやくかえりみた自分の中で、その時以上に強い後悔の念が生まれ、容赦なく俺を責め立てた。
分かっている。薄情なのは、記憶をなくしたアルフォンスではない。
たったそれだけのことで、アルフォンスへの思いをこうして断ち切ろうとしている俺のほうこそが、真に薄情な人間なんだろう。
俺の心の中にある、“アルフォンスが持っていた記憶”に語りかけた。
アルフォンス。どうか俺を恨んでくれ。憎んで、蔑んで・・・・・そして、きれいに忘れてしまうといい。
お前が、その特別な感情で愛した“俺”の存在を。実の弟であるお前のことを、何よりも愛してしまった愚かな兄の心を。お前とともにある幸せを望む心よりも、そのお前からひかりを奪うことを恐れる心があまりにも大きすぎて、それに耐えられなかった弱い俺も、全部。
だけど、俺が覚えているから。お前自身から切り離されてしまったふたりだけの幸せな記憶は、俺の心にいつまでも変わらずにあると約束するよ。これが、お前の恋人としての俺が、唯一最後にお前にしてやれることだ。
お前の中にきっとまだ眠っている”特別な愛”は、ちゃんと生まれ変わって、本当の正しい幸せを手にして欲しい。それが悲しくないとは、今はまだいえないけれど、そう望む兄としての俺の、この心は決して嘘じゃないから。
俺は、目の前の弟に静かな声で話しかけた。
「アル。さっきは、ごめんな。お前があんなに怒る事なんてめったにないから・・・・あの男の言葉に相当嫌な気持ちになったんだろう?あんなセリフを吐く前に、先に俺がぶっ飛ばしておけば良かったよ」
「僕たちが・・・・僕とあなたが、“元の鞘に納まった”って、言っていたよね?あれはどういう事なのかな」
俺の話をほとんど無視する形で投げかけられた問いは、おそらくずっと弟の胸の中で温められていたものだったのだろう。帰りの道中無言だったのは、きっと、自分と俺との間に時折流れる不自然な空気や、あの男が口走った言葉の数々などを照らし合わせ、弟なりに“ある真実”を探り出そうとしていたからに違いなかった。そして、その結論に辿り着いてしまったのだろう。今俺に向けられた言葉は、問いかけながらも既にその本人が答えを知っているかのような口振りだった。
俺たちの間に肉体関係があった事実は、もうごまかしようがなかった。だとすれば、打ち消す事が出来るのは、2人の間に通っていたこの“想い”のみだ。
俺はテーブルの上のコーヒーカップを手に取り、コーヒーを淹れなおす振りでキッチンへと行き間をつないだ。しかし、”その時”を引き伸ばしたからと言って結果が変わる訳でもない。シンクにまだ中身が残っているカップを置き振り向くと、キッチンの入口を塞ぐような形で立っている弟の姿があって、とうとう俺は観念した。
「あのな。あの男と俺とは・・・・実は全く無関係ってわけでもねえんだ」
「何・・・・・?何を言ってるの・・・?」
「ごめんな。全部、俺が悪いんだ。本当はお前の耳に入らなければ、忘れてくれていて、都合がよかったのに・・・」
弟の目が見開かれるのを、今更ながら悲しい気持ちで見ていたけれど、構わず俺は続けた。
アルフォンス。アル。お前に軽蔑されてしまうのは・・・・・辛い。
ごめんな、こんな兄貴で。
「俺は、あの男と寝たよ。あいつだけじゃねえ。他の奴とも・・・・お前とも、な」
俺は、わざと意地の悪い笑みを浮かべた。
ちゃんと、出来てるよな?不適なカオ・・・・。
たぶん、出来ている。なぜならその俺の表情をみたアルフォンスの瞳が、意外なものでも見るようにさらに見開かれていたから。
ゴメンな、アル。でもこれは、当然いつかは来るはずだった、俺たちにとって避けることの出来ないプロセスで、あえて受け入れるしかない痛みなんだ。
それにこれは、天国の母さんが俺たち兄弟にくれた“今までの人生をリセットする為の最後のチャンス”なんだろうとも思えるんだ。このチャンスを掴み損ねたら、それこそ俺たちには、手に手を取り日の当たらない薄暗い道を果てしなく歩き続けるような人生が待つのみだ。
今ならまだ、お前をこの罪深い道から救ってやることが出来る。男同士で、兄弟で、何も生み出すことのない不毛な関係を断ち切り、俺という呪縛から解き放って、明るい場所へとお前を送り出してやれる。
今、兄である俺が、弟であるお前に、なんとしてでもしてやらなければならない事。それは、お前を俺から切り離してやるために、こうして嘘をつくことなんだ。
その時の俺は、そんなことばかりを盲目的ともいえる頑なさで心の中で繰り返し自分に言い聞かせ、思い込もうとしていたのかもしれなかった。すべては、弟の為なのだから、と。
「お前と俺は、あのバカな男が言っていたような恋人みたいな関係じゃないし、そもそも互いの間に恋愛感情の類はなかった。大体考えてもみろよ。男同士でどうこうって言う以前に、俺たち正真正銘血のつながった兄弟なんだぜ?ただその・・・・俺、酔っ払うと性質悪いらしくて・・・・ほら、いつも酔ってる時だからさ、よくは覚えてねぇんだけど・・・・・」
他に、どういえばよかったのか。その時の俺には、そんな馬鹿な誤魔化し方しか思い浮かべることができず、偽りの言葉に、さらに嘘を次々と上塗りしていくという悪循環を自らの手で作り出してしまっていた。
言いながら弟の目を直視できずに堪らず視線を下に落とした俺に、きつい眼差しが容赦なく突き刺さるように向けられているのをひしひしと感じ、まるでその場所が焼かれてでもいるかのようだった。
きっと、軽蔑されてしまった。そう思うとやりきれなかったけれど、ひとたび唇から離れてしまった言葉を取り戻すことは不可能で、もう後戻りすることは出来ないのだ。
「実はさ、俺、酒飲むと相手の性別問わず迫る癖があって・・・それで、あんまりお前が文句言うもんだから、じゃあ代わりにお前が相手してくれるなら・・・って、さ。だから同意っちゃ同意かもしんねえけど、お前が思ってるような間柄じゃ全然ないし、それもそうしてたのはほんの一時期だけだ。な?だからそんな心配すんなって!」
はじめの内こそわなないていた唇が、何故か途中から自棄という後ろ盾を得たせいだろうか、機械的ともいえる潤滑さで回りだし、よくもこんなにすらすらと口が回るものだと自分でも半ば呆れながら、わざと蓮っ葉な物言いで俺は続けた。
「ほら、案外こういうのって珍しくもないんだぜ?ただの友達同士とかでもちょっと興味本位でやってみたりする奴なんかもいるぐらいで・・・だからさ、そんな大したことじゃないんだって!あんま深く考えんなよ。な?」
只々真実を隠す為に、嘘を嘘で塗り固めて、ボロを出さないようにと、そればかりを考えていた。それだから、俺は全く気がつかなかったのだ。
アルフォンスの表情が、次第に険しくなっていく事に・・・。