ひかりへと続く扉J〜過去

 

 

 

 

 

 

 

 

昼の休憩時間を待たず、午前中の業務の合間に電話を入れたのは正解だった。

電話に出たハボック少佐は、ちょうど夜勤明けの帰宅直後で、これから仮眠を取るところだったらしい。簡単な挨拶と近況の交換後、会って話が出来ないかと聞く僕に、何も理由を聞かずに行きつけの店の名前だけを教え、そこで呑んでいるから帰りがてら寄ればいいと、軽い調子で言って寄越すさりげない優しさは相変わらずだった。今日は“兄”も何か用事があるらしくいつもより帰宅が遅れると言っていたから、僕の都合にも問題はない。およその時間を告げ、短いやり取りだけで電話を終えた僕は、定時で帰る事が出来るようにしっかり業務をこなさなくてはと、心の中で気合いを入れた。

 

 

 

 

 

 夕刻、予定通りすべての業務を終え研究所を出た僕は、ほぼ告げた通りの時刻にその店にたどり着く事ができた。名前を聞いたときには分からなかったけれど、その外壁を覆い尽くす蔦と異様に小さな間口を見て、既に1度は訪れていたことがある店だったと気がついた。僕が勤める研究所と、軍施設との丁度中間あたりに位置するこのパブは、その立地通り客層が研究所勤めの人間か軍人のどちらかで、それ以外の人間には些か入り難い雰囲気があるように思えた。それにも拘わらず、僕が初めから特になんの痛痒もなくその店の戸をくぐる事が出来たのは、記憶をなくす以前にもこうして度々この店を訪れていたからだろう。

 古びた分厚い木の扉を開け中に入ると、照明を落とし気味の店内は外から想像するよりもかなり広く、煉瓦造りの床には微妙に大きさの違う椅子やテーブルが何の規則性もない並び方で置かれていて、客達はそれらや店の両壁際に据え付けられたカウンターなどで、思い思いに好みの酒を呑み、談笑し、あるいは陽気な歌声を上げ、あるものは一人で静かに過ごしていた。そんな雑多なざわめきの店内をゆっくりと歩きながら周囲に視線を巡らせていると、店の右奥に在る小さなカウンターから声がかかった。ジーンズと、真冬だというのに半袖の真っ白なTシャツ姿のハボック少佐がカウンターに肘をついたままでこちらに片手を上げ合図を送っていた。

 
 「すみません。夜勤明けの休日だというのに・・・・」

 「いんや。いつも休みのこの時間は、大抵ここで呑んでんだ。気にすんな」

 くわえ煙草で言いながら、勝手知ったるとばかりにカウンターの内側に長い手を伸ばして取ったロックグラスを僕の前に置き、ウイスキーをドボドボと気前よく注いでくれた。

 「まあ、呑めや」

 「いただきます」

 グラスの淵まで一杯に満たされたウイスキーを溢さない様に気をつけながら口元に持っていき、一気に半分ほどを喉に流し込む。僕は決して普段はこんな呑み方をしない人間だけれど、この人と呑む時だけは“酒は豪快に呑むものだ”という彼の流儀に合わせる事にしているのだ。僕の酒のやり方に満足いった風にニヤリと笑いながら、自分のグラスにも同じようにウィスキーを注ぐ。

 「・・・・・で、元気でやってんのか。あの“色気豆"は」

 「は・・・・っ?い、イロケマメ・・・・・!?」

 「と、これは本人には内緒だぜ〜?最近の軍部じゃ、専らこの呼び名で通ってんだわ、お前の兄貴」

 

 “色気豆”・・・・・・・確かに。これほど今のあの人に馴染む呼称は他にないような気がしないでもないが、本人がこれを聞いたら怒りのあまり卒倒するのではないだろうか。唖然とする僕の横では、それをいった本人が「しかしなあ、あのこまっしゃくれた可愛気もヘッタクレもないガサツな柄の悪い餓鬼が、今となっちゃあんな風に化けるなんてなぁ。詐欺もいいトコだよなぁ。人間っちゃあ、どう変わるか分かんねえもんだよなあ」などと過去に思いを馳せしみじみ呟きながら、グラスを傾けていた。

 そうだった。その僕たちふたりの過去を聞くために彼を呼びだしたのだと気を取り直した僕は、回りくどい前置きを省いて、率直に自分の聞きたい事を尋ねた。

 そんな僕に、片方の眉だけを器用に持ち上げてのんびりと目線を寄こしたその人は、しばらくその蒼い目で僕の心を測る様にしていたけれど、やがて、フーと煙を吐きながら淡々とした口調で応えた。

 「・・・・そっか。大将の奴、お前にはホントに何にも云ってないんだな。じゃあ、悪ィが俺の口から勝手に色々言う訳にはいかねえなあ」と。

 その言葉に気落ちしながらも、仕方が無いと納得しかけた僕だったが、そこで「しかしな・・・」と、彼の言葉が続けられた。

 「俺は大将がほんの12、3の餓鬼の頃から知っているが、いつも嫌ンなるぐらい弟のお前の事ばかり気にかけてるような奴でなぁ・・・」 

 彼の言わんとしている話の先が見えなかったけれど、僕は黙って両手の中でウイスキーのグラスを温めながらじっと耳を傾けていた。

 「自分も弟と同じに洒落にならんぐらい過酷な経験してンのに、あまりにも自分を棚上げにするもんだから、それにお前が反発して喧嘩になることもあったりしてなあ。いや、俺も大将のその兄としてのあり方は立派だとは思ったさ。けどな、あれは何だか傍で見ていて痛えんだよ。普通の人間一人の身には重すぎるモンも、全部自分ひとりだけで背負えると思いこんでるトコがあってよ。何もアンタばかりがそんな辛い思いしなくてもと、俺は思ってたわけよ」

 そんな風に独り言めいた口調で言ったあと、「だからよ、俺が言ったってのは内緒だぜ?」と人差し指で僕の胸元をトンと突くと、悪戯っぽい笑みで片目を瞑ってみせた。

 

 

 

 結局ハボック少佐は、自分が知る限りの情報のすべてを僕に話してくれた。しかしその内容は、嘘ではないと分かっていても俄かには信じがたい事柄に始終した。僕たちが幼い頃に錬金術によって禁忌を犯した事、その為に僕が人ならぬ身で数年を過ごすことを余儀なくされていたという事実、そして。“兄”が、僕が記憶を失うことになったという件の錬成を行う以前まで、身体の欠損部位を機械鎧で補っていたということを聞かされたのだった。

  

 では、やはり。

 あの時夢にみた映像は、僕の失われたと思っていた記憶の一部なのだろうか。

 僕が記憶を失った後、初めて家へと帰った夜に為された、兄弟のそれとは違うように感じられた触れ方。

 常に僕へと向けられる、慈しみを含んだその人の所作の数々。

 そして、僕のこの胸の内にいつでも燻っている切ない感情。

 

 それらすべてが、その事実を前提とする事でひとつの線に繋がるのだった。

 

 僕と“兄”は、恋人としての関係を結んでいた・・・・・?

 

 兄弟で?

 男同士で?

 そんな疑問が一瞬頭を過ったけれど、それらでさえ取るに足らない些細な事柄に思えた。

 

 本当にあの人が僕の恋人なのかも知れない、と。それを思うだけで、僕の身の内が温かいもので満たされていくようだった。

 



 「・・・どうかしたか、アルフォンス?」

 不意に黙り込んだ僕の様子を気にかけ、こちらを覗きこむように心持ち身を屈めて顔を傾けるハボック少佐に、何でもないと笑い返していると、店の入り口の方で数人の男たちの歓声が上がり、自然に僕たちはそちらの方へ眼を向けた。

 

 奥まったこのカウンター席から見る店の入り口付近は遠く、どうやら今しがた店に入ってきた人物を取り巻いて、数人の男たちが話しかけている様子だけが伺える程度だ。その面々に囲まれている人物は小柄らしく、ここからはその金色の髪の一部しか確認することが出来なかったが、周りを囲む男たちが皆笑みの表情を作っていたから喧嘩ではないようだと、そのまま視線を手元に戻そうとしたその時だった。


 「ん?オイオイ大将の奴、何時あんなイメージチェンジしたんだよ?」

 「え?」

 戻しかけた視線をもう一度向けた先には、数人の同僚らしき男たちに囲まれて、頭を掻きまわされたり肩に腕を回されたりと、もみくちゃにされている“兄”の姿があった。しかし・・・・。

 「へえ〜。ずいぶんとバッサリいったもんだなあ。あんな髪の短い大将初めて見るわ」

 そうなのだ。

 今朝がた、研究所のエントランスホールで別れた時にはあったトレードマークの後ろ髪が、今ではやや長めとはいえ、結ぶことが難しい長さしかない襟足のみを残し、姿を消していたのだ。短い髪をした“兄”は、今までよりもさらに“彼自身の持つ子供っぽい外見“が強調されていて、どうやら僕と同じ印象を受けた同僚たちからそれを揶揄されているらしかった。伸びてくる同僚たちの腕を煩そうに白い手袋の手で払い除けながらも、浮かべる表情は楽し気で、僕はそれを遠巻きに見ながら微笑ましい気持ちになった。

 「ニヤニヤするんじゃねえよ、色男。そんな顔晒して街中歩いてみろ。今まで濡れ手に粟だった連中が手のひら返したように逃げ去っていくはずだぜ?」

 「”ニヤニヤ”って・・・よして下さいよ。それにその”濡れ手にナントカ”っていうのも」

 「あん?あんだけド派手に遊んでたってのに、今さら身に覚えがアリマセンってのも無しだろう?“タラシのエルリック主任”っちゃあ、軍の女どもの間でもそりゃあ有名なんだぜ〜」

 「勘弁して下さいよ!」

例の悪戯癖がまた始まったらしいハボック少佐につつかれて、軽口の応酬をしながらもう一度“兄”の方に視線をやると、一人の痩せた背の高い男が椅子に座ろうとしている“兄”に近付き、耳元に顔を寄せて何か話しかけている様子が見えた。心なしか、その“兄”の顔色が変ったように見えたのは気のせいだろうか。

 「こっちに来ないか、声をかけてきます」と、口実をつけて一度その場を離れ“兄”の方に足を向けた。酔いのまわった人間たちの大きな声があちらこちらで響き渡るフロアでは、余程近づかない限りその会話の内容を聞き取ることは難しく、目的のテーブルまであと5歩もない場所まで来たとき、その場の雰囲気が妙な事に気がついた。テーブルを囲むように置かれた椅子はすべて空いているのに、“兄”も、その同僚らしき数人の男たちもその場に立ち尽くし、それまで死角となって分からなかったけれど、“兄”の右手が同僚たちを鎮めるように僅かにあげられていたのだ。栗色の髪の背の高い男は身を屈め“兄”に覆いかぶさるようにその耳元に口を寄せていて、それを取り囲み憮然とした表情で見ていた男たちは、僕が近づいたことにまだ気が付いていないようだった。“兄”とその男の左側から回り込むと、男の左手が“兄”の襟元から服の中に差し入れられているのが見え、それを目にしてからの僕の行動は、すべて無意識に支配されていたと言っても良かった。

 一気に男との間合いを詰めると、その左手首を力加減せずに捩じり上げ、痩せて骨ばった身体を兄から引きはがし、先ほどまでその男が“兄”にしていたようにその耳元に唇を寄せた。

 
 「失礼。兄に、なにかご用でも?」

 
 自分でもぞっとするような冷淡な声が出た事に、どこか他人事のように驚きながら、肩越しに僕を振りかえった男に「ここは穏便に済ませましょうか」という意思表示のつもりで遠慮がちに笑いかけたのだが・・・・。男は僕の顔を見るなり顔面蒼白になり、「ヒィッ」とまるで化け物に遭遇した時のような声を出し、僕の手を振り払うと2、3歩後ろに下がり、突き当たった壁に背を預けたまま立ち尽くした。

何という失礼な反応だろうかと思いつつ、先刻までの“兄”に対する過剰な接触を弟として諌めることはしておかないと、と僕は男に向かって声をかけた。

 
 「あなたがどなたか存じませんが、今、兄の身体に明らかに不必要と見られる接触をされていましたね?今後は、兄本人の意に沿わない行動は差し控えて頂けないでしょうか」

 

・・・・・なぜだろう。

 

記憶をなくしている僕は、目の前の顔面蒼白の男が知り合いなのかそうでないのか、また研究所の上役なのかどうか等も全く分からなかったから、後々さし障りの無いように精一杯穏やかな対応をしたつもりだった。それなのに、そんな僕を見る男も、“兄”の同僚たちも、いつの間にかこの事態を傍観していたその周囲の店の客たちも。そして何故か”兄“までもが、心なしか恐怖に片頬をひきつらせた表情で僕に目線を送ってきていた。

 

「僕・・・そんな怖い表情しています・・・?」

 

思わず誰に向けるともなく零れていたそんな問いかけに一人として応える声はなく、いつしか静まり返っていた店内の様子に酷く居心地の悪くなった僕は、助けを求めるべく離れたカウンターでウイスキーを呷っているはずの人に目を向けたのだが。遠く離れたカウンター席には、テーブルに突っ伏して肩を震わせ、大きな手のひらで天盤を叩く薄情な軍人の姿が見えた。

 

 

 「アル・・・・何でもないんだ。コイツとは、ちょっとした誤解があってな。それももう済んだとこだったんだ。心配掛けちまって悪いな」

静かになってしまったその場の雰囲気をとりなす様に、”兄”はことさら明るい口調でそう言うと、さり気無く僕の背に手を添えて店の出入り口の方向へと押し遣る。まるで早くこの場から立ち去ってほしいというように・・・。

 「兄さん、ハボックさんと呑んでいるんだよ。一緒に向こうのカウンターに移動しない?・・・皆さんも、どうですか」と、水を向ける僕に“兄”の同僚たちはあからさまにほっとした表情を見せ、僕の意見に賛同して足先をその店の奥のカウンターへと向けた。僕も“兄”を促しながらそちらへ移動しようとしたときだった。
 壁にもたれたまま、オドオドした目でこちらを凝視していたその男が、上擦った声で口汚い罵りの言葉を吐いたのだ。

 
 「この前はしっかりソノ気になっていただろうが、この近親相姦のオカマ野郎!お前が弟に振られて寂しそうにしてるから慰めてやったのに、結局その弟と元の鞘に納まったって訳か?」

 「アル、先に向こうに行ってろ・・・・!」

 男のセリフに表情を変えることなく、しかし強い口調で僕をその場から遠ざけようとするその人の手が、僕の肩をぐいとカウンターの方へと押し遣る。そこへまた、たたみ掛けるように男の耳障りな金切り声が追いかけてきた。

 
 「ああ、弟のアレの味が忘れられないのか?そうかい?てめえのケツは弟専用って訳か!?兄弟仲良くて結構なこと・・・・・」

 
 それが限界だった。
 気がつけば僕の拳は男の左頬に叩きつけられていて、次の瞬間には殴られた衝撃で飛ばされ床に這いつくばっている男の胸倉を掴みあげ、壁に叩きつけるようにその身体を押しつけていた。そして再び右の拳を振り上げた時、“兄”の声が僕を正気に引き戻した。

 
 「やめろ!アルフォンス!お前がそんな事しちゃダメだ!!」


 僕の右腕に両腕を絡めて、悲痛な声で叫んでいる。自分があれだけの暴言を受けても無表情だったその人が、僕が怒りで我を失った途端に表情を歪め、不安そうな目をしていた。

 
 「じゃあ何故黙っているの。言い返さないの?あなたが怒らないから僕が怒っているんだ!こんな汚らわしい暴言を受けて、どうしてあなたは平気な顔をしているの!?」

 
 「・・・・・・・・・・アル、駄目だ・・・お前は、そんな事しちゃいけない・・・」


 その時、僕の言った言葉のうちのどれが、その人を傷つけてしまったのだろう。一瞬だけ泣きそうに顔を歪めたその人は、首を横に振りながら、小さな声でそう言った。 

 
 「さ、手を放すんだ。それで、向こうで皆と一杯やってから帰ろうぜ?」

 「・・・・・・・・・・・・・」

 
 なかなかその男を解放してやる気になれないでいる僕の頭を、精一杯伸ばした手で、まるで幼子にするように撫でた“兄”は、少年のような笑顔を僕に見せて言った。

 
 「いい子だから、その手を放してやんな、アル。ここで兄ちゃんの言う事聞いてくんないと、明日から母さんが俺の夢枕に立って小言を言うんだぜ。それだけは勘弁してもらいてえな」

 
 おどける様な口調で僕の怒りを鎮めようという”兄”の魂胆は見え透いていたけれど、何故かその効果は絶大で、僕は自分が急速に落ち着きを取り戻していくのを実感していた。けれど、その男をタダで解放してやるつもりは毛頭なかった。僕はその男の耳もとぎりぎりに唇を持っていき、”兄”に聞こえない程の小さな声で、しかし一字一句を丁寧に区切りながら極力穏やかに言って聞かせた。


 「僕とした事が、ついカッとなって殴る価値もない人間を殴ってしまった。だから僕があなたを殴りつけるような事はもう二度とありませんが・・・・今後再び、兄に向ってその汚らわしい暴言を吐く勇気があなたにあるのなら、試してみるといいですよ。一生後悔することになると僕は思いますけどね」

 その男の胸倉を掴んでいた手をそっと放しながら、僕はもう一度、男に向かって笑いかけた。僕が職場で常用している、気に障る言動が目立つ上司や、“兄”に色目を使う女性研究員に向けるのと同じ“事務的な笑み”の表情で。

 

 

 

 

  

 

 

 

*************黒ふぉんす降臨・・・・・************

 

 

 

 

 

 

 

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