春日顕国 かすがあきくに <?〜康永3=興国5>(?〜1344)
略歴については、人物事典bPにありますので、ここでは省略させていただきます。


 “ 春日顕国 知名度アップ記念 ”(笑)ということで、再度のエントリーです。
 このHPを立ち上げたのは、平成13年(2001)2月なのですが、その頃ネット上における春日顕国の扱いは、城跡を取り上げているサイトに名前が見られるぐらいで、人物について記載されている所はほとんど見ることはありませんでした。
 しかし、今では『ウィキペディア(Wikipedia)』にも、こうして上がっていますしhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E9%A1%95%E5%9B%BD、検索エンジンの進化もあるでしょうが、Googleで検索すると、H22.2.18現在、約 595,000件もヒットします。
 管理人の勝手な「北畠顕家と親友」と言う設定の下とはいえ、自分が贔屓している人物が、この9年間で知名度アップした(かもしれない)のは、大変嬉しいです。

春日顕国の名前は、顕家様の死後(延元3年5月22日)に、よく見られるようになるのですが、その主な行動は、

延元3年(1338)5月24日 源特定、源家定、春日顕国の兵を集めて男山に拠る
7月8日 男山城 落城
10月5日 北畠親房 小田城に拠る
延元4年(1339)2月27日 春日顕国 名木岡城、益子城、上三川城、箕輪城を攻略
延元4年(1339)3月23日 北畠親房、春日顕国 常陸吉田社に吉田郷を預け、天下静謐を祈る
4月頃? 春日顕国 常陸中郡城(松田城)を攻撃
興国2年(1341)11月12日 小田城主 小田治久が北朝に下ったため、北畠親房 関城へ移る。
春日顕時(=顕国?) 興良親王を奉じて大宝城に入る
興国4年(1343)3月29日 春日顕時(=顕国?) 関城に移る
11月11日 関城 落城
11月12日 大宝城 落城
北畠親房 吉野へ帰還(注)
興国5年(1344)3月7日 春日顕国 大宝城を奪還
3月8日 大宝城落城
3月9日 春日顕国 捕殺される
4月24日 春日顕国の首が六条河原にさらされる

資料:「北畠氏の研究」(大西源一)
(注)「北畠氏の研究」には、親房と共に顕時も帰還とあるが、「鎌倉・室町人名事典」(新人物往来社)や「日本史大事典」(平凡社)では、親房の吉野帰還後も春日顕国は常陸に残ったとされている。
春日顕国が親房と共に吉野に帰還した後、再び常陸へ戻ったのか、吉野へ帰還したのが別人であるかは不明。管理人は、吉野へは帰還せずにそのまま常陸にいたと思っている。

 簡単な年表ではありますが、京都の男山城落城後、顕国は北関東で転戦している様子が伺えます。
 顕家様の後任として、興国元年(1340)10月頃に弟の北畠顕信が奥州に入っていますので、全く孤立していたわけではないでしょうが、奥州と常陸では地理的に離れていますので、北朝方との攻防が大変だったことは容易に想像ができます。
 また、頼みの綱としていた結城親朝に何度も援軍を依頼していますが、親朝は長らく中立の立場をとった後、興国4年(1343)6月、北朝方に付き、南朝の勢力は一気に衰えます。
 それでも顕国は戦い続け、興国4年(1343)11月の大宝城落城後も、馴馬城に立て篭もったり、翌年3月7日には大宝城を奪還したりしているんですね。

 孤軍奮闘に近い形になりながらも、戦い続けた顕国の原動力はなんだったのか・・・?
 管理人は、 “ 顕家様と親友 ” という妄想を抱いていますので、「顕家様の果たせなかったことを代わりにやり遂げようとした」とか、「もし、途中であきらめてしまったら、あの世で顕家に会わす顔が無いと思っていた」などと夢見てしまうのですが(笑)。
(この項を書いた当時は春日顕国は顕家様と同年代と思っていたのですが、令和3年(2021)4月に顕家様ではなく、父の親房と同年代と分かり、設定が崩れてしまいました。なので、“ 顕家様と親友 ”という設定は、管理人の過去の妄想としてご了承ください。)


 あと、ネットで色々見ていたときに読んだ事なので出典はわからないのですが、“顕国はゲリラ戦を得意とした”というのがありました。
 『北畠氏の研究』(大西源一)には、 “ 春日顕時(=顕国?)進んで野伏等を以って賊の粮道を塞ぎ ” とあるので、顕国自身も、野伏にまぎれて潜伏し、機を見て挙兵していたのかもしれません。
 顕国は、興国5年(1344)3月7日に大宝城を奪還しますが、翌日には再び落城し、落城の翌日に殺されます。
 『ウィキペディア(Wikipedia)』や人物辞典の記述では、大宝城落城の際に捕らえられて殺されたとありますので、顕国の死亡年月日は「興国5年(1344)3月8日」とされていますが、管理人は『北畠氏の研究』(大西源一)及び『南北朝編年史』(吉川弘文館)の「3月9日」説を採りたいです。
 顕国は何度も落城を経験していますが、その度に敵方から逃れて再起を図っています。3月8日の大宝城落城の際も、やはり戦い続けるために逃げようとしていたと思うんですね。野伏とか山伏とかに身をやつして。
 もし、ひと目で、捕らえたこの男が春日顕国あるいは南朝方の有力武将だと北朝方がわかっていれば、即座に殺したと思うのですが、一旦捕らえてから殺しているので、“怪しい人物”と睨んでとりあえず捕らえ、春日顕国ということを確認してから殺したのではないか?その確認のため、口を割らせるなり、南朝方の武将と面識のある人を連れてくるのに1日かかったのではないか?と考えて「3月9日」説を採りたいと思うのです。

 その後、顕国の首は京都に運ばれ、4月24日に六条河原にさらされました。

資料:「北畠氏の研究」(大西源一)、「南北朝編年史」(吉川弘文館)、
    「国史大辞典」(吉川弘文館)、「日本史大事典」(平凡社)ほか

平成22年(2010).2.18
令和3年(2021).8.29加筆

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