春日顕国 かすがあきくに <?〜康永3=興国5>(?〜1344)
南北朝時代の南朝方の武将。春日侍従または春日中将とも称される。諸説あるが、父は村上源氏顕行とみるのが有力。
建武3年=延元元年(1336)、北畠顕家に従って東国に下り、常陸・下野で活躍した。暦応元年=延元3年(1338)、北畠親房が常陸の小田城に拠るとこれを助け、暦応3年=興国元年(1341)、大宝城に移って興良親王を補佐した。康永2年=興国4年(1343)、南朝方の拠点であった関・大宝城が陥落して親房が吉野に去ったのちも、東国の南朝勢力の中心として奮戦したが、康永3年=興国5年(1344)3月、甥とともに捕らえられて殺された。


注意!
(この項を書いた当時は春日顕国は顕家様と同年代と思っていたのですが、令和3年(2021)4月に顕家様ではなく、父の親房と同年代と分かり、設定が崩れてしまいました。なので、以下は管理人の過去の妄想としてご了承下さい。)

 この人誰? と思われる方が多いかもしれませんが、大錦号にとっては非常に注目度の高い人物です。

 春日顕国は常陸・下野で活動していましたが、顕家の第二次長征には参加しています。しかし、暦応元年=延元3年(1338年)3月には、顕家と別れて戦っていたらしく、男山城で戦っております。
 この、男山城で戦っている者について、「太平記」は顕家の弟 北畠顕信と書いてあるのですが、本当はこの春日顕国らしいのですね。ちなみに顕家はこのころ、天王寺や阿倍野で戦っています。

 で、この、“「太平記」では、顕家の弟 北畠顕信と書いてあるが、本当は春日顕国である”という一文を『北畠氏の研究』(大西源一)で見た時に、大錦号の頭の中では、“同じ村上源氏と言うことで春日家と北畠家は親密な交流があり、顕国と顕家は年も近く、小さい頃から非常に仲が良かった”という設定が出来上がり、あまり多くを語られていない春日顕国に関する想像・・・妄想に近いかも・・・が、どんどん広がっていったのであります。

 実際、顕信や顕信の子 守親が春日姓を名乗っているので、顕家の父 北畠親房と近い関係にあったと推測されているようです。顕国を親房の子とする説もあるようですし。まあ、これは顕国と顕信が混同されていたからかと思いますが。(このあたりは、私の妄想が広がった後に判った事なので、妄想が裏付けられたような気がして、“愛の力は偉大だ”と思ったものです(^^ゞ)

 顕家の死後、活動の場を伊勢から常陸に移していた親房のもとへ顕国は下向して、下野、下総を転戦し、親房を援けています。
 親房が吉野ヘ帰った後も顕国は関東で奮戦していたのですが、康永3年=興国5年(1344年)3月、一旦大宝城を回復しましたが、直ぐにまた落城し、落城の際に捕われて、斬られています。

 このように孤軍奮闘する姿も、想像を掻き立てられるため、顕国は大錦号にとって最も注目する人になっているのです。

 顕国が死んだ時、北朝側からは「春日侍従顕国」と呼ばれています。「顕時」と改名していたようなんですが、元の「顕国」に戻していたんでしょうか?それとも北朝側には改名したことが伝わっていなかったんですかね〜?

 ところで、顕国の首は京都六条河原にさらされたそうなのですが、顕家の首について語られた文章を見たことがないんです。御存知の方、情報提供お願いします〜!

資料:「鎌倉・室町人名事典」(新人物往来社)、
    「国史大辞典」(吉川弘文館)、「日本史大事典」(平凡社)ほか

平成13年(2001)7.10
令和3年(2021)8.29加筆

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