伊達行朝 だて ゆきとも <正応4年〜貞和4年=正平3>(1291〜1348)

父は伊達基宗。官途は、蔵人、左近将監、宮内大輔などに任ず。
建武親政下では、多賀国府において、いわゆる「奥州小幕府」体制の中で結城氏と並び、式評定衆・引付頭人になっている。
北畠顕家の二度にわたる長征に従軍。また本領だった常陸国伊佐庄方面で転戦するなど、奥州南朝勢力勢の中心として活躍。しかし、関東方面では高師冬の南朝掃討戦が進み勢いはあまりふるわなかった。
康永2年=興国4年(1343)、結城親朝が北朝側についた頃に、投降したとの説もある。
行朝は歌人としても名を知られ、多くの歌集に作品を残している。


 もし、顕家様の重臣を4人挙げて、“北畠顕家四天王”と呼ぶとしたら、結城宗広、南部師行とともに、この伊達行朝を挙げられる方は多いのではないでしょうか?(残りの一人は、色々ご意見が出ると思いますが、管理人は贔屓にしている春日顕国ですね(笑))
 “奥州小幕府体制”の中で、式評定衆・引付頭人として実務的な役割を果たしていますし、何と言っても、顕家様が多賀城から霊山に国府を移した時に尽力したのは、この地域を勢力下としていたこの方でしょうから。霊山寺とその僧兵を味方につけての国府の移動ですから、色々根回しなんかも必要でしたでしょうし。
 ただ、管理人は“四天王”として挙げるのには、少しためらうところがあります。
 と、いうのは、顕家様が存命中は、確かに行朝は重臣ではありましたが、康永2年=興国4年(1343)頃に北朝側に付いたというのが、引っかかってしまい、躊躇してしまうところがあるんですね。
 この頃と言えば、行朝自身が守っていた伊佐城が落城、霊山城も落城、そして結城親朝が北朝側に付いて、国内の勢力図は一気に北朝色に塗られてしまったので、一族の長としての立場を考えれば、仕方のないことだとは思いますが。


 ところで、管理人は武将としての伊達行朝よりも、文化人としての行朝に大変興味があります。
 出典はWikipediaなのですが、「歌人として名を知られていて、風雅和歌集に藤原朝村の名で、その歌が残されている」・・・この一文だけで、管理人の行朝に対する勝手な妄想が膨らんできます・・・(^^ゞ

 「ゆかりの地」でも触れていますが、濫觴の舞は、顕家が国府を開くために、義良親王を奉じて多賀城から霊山城に入城した際、地元民が山上の山王大権現に剣の舞を奉じ、武運長久と士気の鼓舞を祈願したのが始まりと言われています。
 そこで、この舞の監修を伊達行朝が行ったということはないでしょうか?
 濫觴の舞の由来の説の一つに、顕家が14歳の時に舞った「陵王の舞」が訛ったというのがありますが、 “りょうおう” が訛って “らんじょう” になるのは、教養とかセンスに関係がないですけれども、濫(さかずき)を觴(うかべる)という字を当てたことには、風流な人が係わっていた感じします。
  奥州と言えば、奥州藤原氏の時代に平泉文化が花開いた土地ですので、全体的に文化レベルが高かったのかもしれませんが、何と言っても霊山は伊達行朝の勢力下ですので、係わっていた可能性が無いとは言えないのでは?
 と、いうことで、霊山に顕家様を迎えるにあたり、行朝が先頭に立って舞の振り付けや曲を指導している姿を、妄想しております(笑)

伊達行朝廟は、こちらです。↓
http://www.city.chikusei.lg.jp/kankou/bunkazai/city/92/index.html

資料:「鎌倉・室町人名事典」(新人物往来社)、
    「図説 太平記の時代」(河出書房新社)

2009.4.14

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