第四章 風はわたしのために吹く!
どんな光景が待ち受けているのかわからない世界、そう言われたら、人はどんな世界を想像するんだろう? あたしの頭の中で、いろんな想像がかけめぐった。
天上界っていうんだから天国みたいな世界? それとも、逆に地獄みたいな光景。それとも……。今まで本とか映画とかで見たいろんな光景が次々に思い浮かんだ。
だけど、実際に待ち受けていたのは、ただ一つ想像もしなかった光景だった……。
観客の大喝采を受けながら、ステージの幕が降りた。
ステージの上で、あたしは心地よい疲労感を味わっていた。
演劇部に入部して一年半。今度の定期公演で、あたしは初めて主役の座をもらった。自分ではせいいっぱいやったけど……はたして、上手に演じきれたのかしら。
汗だくになったあたしに、先輩がタオルを渡してくれた。
「よかったよ、理奈。すっごいベストな演技だった」
「そ、そうですか先輩……。ほんとに、あたし上手にできてましたか?」
「うん。最高」
先輩はにっこりして言ってくれた。
よかった……。
「これなら、次の公演でも主役、まかせられるね。聞いてよ、お客さんの声援!」
先輩は、あたしの背中をどんと叩いた。
「ね、脚本も忘れないでよ! あたしが夜も寝ないで練りに練った話なんだから」
このお芝居の脚本を書いた、同級生の優菜が胸を張って自慢した。
「良かったでしょ、『風使いのフレイン』。感動ものって感じぃ?」
「はいはい、顧問の先生に何度も何度も怒られて、最後にはほとんど書き直されちゃった、あの脚本ね」
先輩が優菜に茶々を入れる。
「さ、片づけして打ち上げ行こ、打ち上げ!」
ステージを降りて舞台裏に行こうとした優菜が、ぴたっと立ち止まって床を見つめる。
「あら? 猫……」
あたしは優菜が指差した方角を見つめる。ほんとだ。黒猫が一匹、ステージの脇にちょこんと座り込んでた。
「どこから迷い込んだのかなぁ、この猫?」
その黒猫は、他のみんなには目もくれず、あたしにまっすぐ歩み寄ってきた。
『フレイン! フレインよ、目を覚ますのだ!』
黒猫があたしに向かって叫んだ。
「え? 何言ってるのよ。フレインのお芝居はもう終わったのよ?」
『芝居だと? 何を寝ぼけている、フレインよ! 早く目を覚ませ! 自分がどこにいるのか忘れたのか?』
いったい、この猫……なに言ってるの?
『フレインよ、思い出せ! ローザも、ゼバスも、シルファスも、エレジーも眠ったまま起きないのだ。そなたが目覚めてくれなければ、わたしたちはここから出られなくなるのだぞ』
ローザ? ゼバス? シルファス? エレジー? ……それ、みんなこのお芝居の役じゃないの。
……え? あれ……おかしいな。なにか、思い出した。ローザ……ゼバス……エレジー……シルファス……。それに、チャム……。お芝居じゃない。どこかで……どこかで一緒にいたような……。どこだっけ?
『フレイン! 忘れたのか? そなたは『風使いのフレイン』なのだぞ!』
風使いの……フレイン? それって、このお芝居の題目じゃないの。
あ。違う……。そうじゃない。風使いのフレインって……。あたしのこと。でも、あたしは小泉理奈で……。どうしたんだろ。なぜ、こんなに頭が混乱してるんだろ……。
周囲の光景がぱっと消え去り、あたしは暗闇の中を落ちていき……
……はっと目が覚めた。
あたしの胸の上にチャムが乗っかり、前足であたしの顔をぺしぺしと叩いていた。
「チャム……」
『目覚めたか、フレインよ。やれやれ……。もう目覚めないかと思ったぞ』
「いったい……何が起きたの? あたし……あたしは元の世界に戻っていて……今までのことは全部お芝居で……もう、幕が降りたと……」
『……そうか、そなたはそういう夢を見ていたのか。それが、そなたの内心で望んでいた生活だったのだな。天上界の力が、そなたに望むとおりの夢を見せたのだ』
そうか……。あれは、ぜんぶ夢だったのか。そうよね。あたしはこの世界に転生してきた。もう元の世界には戻れない、それが現実なんだ。
でも、あんな夢を見たってことは、あたしは……まだ心から自分の立場を受け入れていなかったんだ。この世界にやってきたこと、それから起きたことが全部お芝居で、やがては元の生活に戻れる……そう感じてたんだ。
違う。あたしはもう、小泉理奈じゃない。
演技じゃない。あたしが、「風使いのフレイン」なんだ。
「でも……天上界がこんな世界だなんて、思いもしなかったわ」
『わたしも知らなかった。天上界とは、自分の望ぬとおりの夢を見てしまう世界だったのだ。その夢に満足してしまえば、いつまでも目覚めずに夢の中で生き続けてしまう……。なんという甘い罠だ』
確かに……恐ろしい話。自分が一番望んでいることを夢に見てしまう世界なんて……。夢ならば覚めないでほしい、なんてよく言うけど、ここでは望んだなら本当に夢は覚めないんだ。永久に、幸せな夢の中で暮らし続けるなんて……。
「それにしても、あなたはよく大丈夫だったわね?」
『いや……わたしもたっぷりと見せられたよ。望むとおりの夢を……。わたしがその身体に戻って、その……やりたい放題の生活をしている夢をな』
「ふ〜ん。やりたい放題……どんな生活をしてたわけ?」
チャムはぎくっとしたように、両前足で口を押さえた。
『ん……。そっ、それはどうでもいいではないか! 所詮は夢のことだ』
……あ、どんな夢見てたのかだいたい見当付いたわ。
「……それにしても、あなたはよく自分で目が覚めたわね?」
『いや、それが自分でも不思議なのだが……。何かその夢の中で、鈴の音がしたのだ』
「……鈴?」
『いや、鈴というのかわからないのだが、とにかく高くて澄んだ音が聞こえた。それを聞いていたら、どうしてだかこれまでのことが頭に浮かんでな。そして、夢から覚めることができたのだ。いったい何だったのか、わからん……』
「そう……不思議な話ね?」
『とにかく、他の者を起こすのだ!』
あたしたちの横では、ローザが、ゼバスが、シルファスが、エレジーが、一様に幸せそうな表情で眠り続けていた。
あたしとチャムで、一人づつ頬をひっぱたき、揺さぶる。耳元で大声で呼びかける。繰り返しそうしているうちに、ようやくみんなは目覚めた。
「いったい、ここは……どこなのですか? フレイン様」
「どうやら、これが天上界の本当の姿らしいな」
「そんな……これが天上界だなんて、残酷です……あんまりですわ」
あたしたちは、周囲を見回した。
それは、背筋が震えるような薄ら寒い光景だった。空は一面にどんよりとした灰色で、太陽も雲も青空も見えない。大地は一面に黒っぽい土で、山や谷もなく平坦に、見渡す限り広がっている。つまり、なんにもない世界。
そして、その大地の上にある唯一のもの、それは人間の身体だった。
大地の上に一面に横たわる人間たち。眠っているのか、それとも死んでいるのか、誰一人として動くものはいない。老人が、若者が、子供が、男が、女が、どちらの方向にもずらりと並んで横たわっていた。まるで、墓石のない墓地みたいだった。
おそらく、自分たちの望む夢を見続けているんだ。あたしたちが見たのと同じように。
もう少しで、あたしたちも彼らと同じになるところだったんだ。永遠に目覚めず、自分の作り上げた夢の世界の中で生き続けることに。
これが、天上界の本当の姿だなんて……。ローザの言うとおり、あまりにも残酷な現実だ。
でも、考えて見れば天国なんて本当はこんなものかも。自分の望むものだけがある世界なんて、あるわけない。そんなものがあるとすれば……自分の夢の中だけ。
あたりを見回していたローザが不意にぎょっとして、息をのむ。
「フレイン様、あれ、あれを……」
あたしたちは、ローザの指差す方向を見る。
!
横たわった人々が動き始めていた。一人、またひとりと起き上がり、ふらつきながらあたしたちの方に歩き出す。だけど、その動きは人間のものには見えなかった。そう、魔法で操られている死体の動き。
彼らはまっすぐにあたしたちに歩み寄り、そしていっせいに襲いかかってきた。
《な、何よあれ? こいつら……死んでるんじゃないの?》
『眠りを妨げられて腹を立てているのか、それとも何者かに操られているのか……。どちらにしても、わたしたちに敵対しているのは間違いないな』
《やるしかないってことね?》
人間じゃないよね、こいつら。亡者だよね? だったら遠慮しない。
あたしは「太刀風」の印を作り始める。
ゼバスが飛び出し、斧で一人の首を切り落とす。間髪をいれず、また一人を倒す。シルファスは弓で数人の頭をつづけざまに打ちぬく。
ローザが杖を振ると、白い光がほとばしって亡者たちの体に突き刺さる。その光を受けた彼らはばったりと倒れ、生気を失ったように動かなくなる。
そして、あたしが「太刀風」を発動させ、残りの亡者たちの身体を切り裂いた。
襲いかかってきた二、三十人の亡者たちはあっという間に全滅した。
なんだ、弱いじゃん。楽勝!
……と思ったのは甘すぎた。
また新たに大勢の亡者たちが立ち上がる。彼らは仲間たちが倒されたことなどまったく気にもしていない様子で、その身体を平然と踏み越えてあたしたちに迫ってくる。
彼らの一人一人はまるで弱い。新たに迫ってきた亡者たちも、あたしたちの反撃でたちどころに倒された。
そして……また、新たな亡者の群れが立ち上がり、迫ってきた。
「フレイン様……これでは、きりがありませんわ!」
ローザの言うとおりだった。いくら倒しても、相手はあとからあとから立ち上がってくる。なにしろ、見渡す限り一面に人々が横たわっているんだ。魔法だって無限に使い続けられるわけじゃない。ゼバスやシルファスも永久に武器を振るい続けられるわけじゃない。
このままでは、いつか疲れ果てて倒されるのが目に見えている。
あたりを見回していたチャムが、遠くを見つめて叫んだ。
『フレイン、見ろ、あそこだ! 「世界を支える樹」への入り口だ! あそこまで行き着けばこやつらからも逃れられる』
チャムが指す先には、地面にぽっかりと空いた穴があり、そこからぼんやりと光が漏れ出していた。
《でも……こいつらに囲まれてるんじゃ、あそこまで行くのは無理だわ》
『こうなれば……「烈風」を使え。奴らをまとめて吹き飛ばしてから、一気に走り込む』
《『烈風』……あれ、使うの? しかたないか……》
あたしに使える最強の風の魔法。強力すぎて、危険すぎるから、あんまり使いたくない。でも……このさいしかたない。
「烈風」の印を作る。一つづつ印を作るごとに、風のエネルギーがあたしの周囲に集中して渦を巻く。魔法を発動させると、あたしの周囲に強烈な竜巻が発生し、周囲の土砂もろとも亡者たちを空高く吹き上げる。
あたしは、高く振り上げた手を、穴の方向に向けて振り下ろす。竜巻はその方向に向けて流れを変え、巨大な一本の風の槍になった。
風の槍はその進路にあるものすべてを飲み込み、吹き飛ばして行く。風が去ったときには、「世界を支える樹」への入り口まで、一本のえぐられた溝がまっすぐに走っていた。
「走れ!」
あたしたちは、その溝に沿っていっせいに走り出す。烈風の力は溝の周囲の亡者たちをすべて吹き飛ばし、あたしたちを止めるものはいなかった。
入り口の直前まで来たとき、突如目前の空中に黒い影が現れ、あたしたちの前に降り立ち、行く手をふさぐ。
以前にも見た、巨大な豹のような真っ黒な姿。
闇の精霊!
『フレインよ、あいつを倒すのだ! おそらく、こいつらを操っているのは奴だ』
そうか。闇の精霊……こいつが闇の力で亡者たちを操ってるんだ。これもおそらく、ランセムがあたしたちの妨害をするためにここに待ち受けさせていたんだろう。
《でも……こいつはどうやって倒せばいいの?》
『風の魔法で、闇の精霊に有効な魔法は少ない。だが、強力な風で包み込めば、少なくとも動きを封じることは可能だ。そうすれば、ローザの魔法で倒せるだろう』
《じゃあ……》
「風の繭」の印を少し変えて、「風の檻」を作る。
だけど、風の印を作ろうとしたところで、吹き飛ばされていた亡者たちがあたしたちに追いつき、また襲いかかってきた。
「ゼバス! シルファス! 頼む!」
闇の精霊を倒すまで、なんとかこいつらを食い止めてくれれば……。
だけど、こんど襲ってきた亡者たちの数はけた違いに多かった。ゼバスとシルファスが次々と倒しても、とめどなく次の相手が襲ってくる。
闇の精霊は口から漆黒の奔流を吹き出す。ローザが杖をかかげ、光の壁を作り出してその闇を止める。
あたしも、ローザも亡者たちの相手をする余裕がない。ゼバスとシルファスだけでは相手の数が多すぎる。
そうこうしているうちに、あたしたちは見渡す限りぐるりと亡者たちに取り巻かれてしまった。ひっきりなしに襲い掛かってくる亡者たちが邪魔をして、闇の精霊を攻撃できない。入り口まで行き着くこともできない。
あたしたちは全員、もう疲れ果てていた。
「フレイン様……、こうなれば、いちかばちかの手ですわ」
「え? 何をする気なのだ?」
「闇の力と光の力は対立するもの。闇の力に対して同質の光の力をぶつければ、闇と光の元素の暴走を引き起こすことができます。うまくすれば、それでこの者たちを一気に倒すことができますわ」
答を待たず、ローザは杖をかかげて呪文を唱え始める。
あたしの肩で、チャムがぎくりとしたように身震いして叫ぶ。
『なに? むちゃだ、危険すぎる! 止めさせるのだ!』
《え……? ど、どういうこと?》
『光と闇の同質の力をぶつければ、確かに元素の暴走を引き起こすことができる。しかし、ひとたび暴走を始めた元素は、もう誰にも操ることはできない。暴走した元素の力で何が起きるかわからんのだ』
あたしは、ローザに向かって叫ぶ。
「やめろローザ! 危険すぎる!」
でも、遅かった。ローザはすでに呪文を唱え終わっていた。
ローザの杖から白い光が吹き出す。その光は空中で雲のようにふわっと漂い、それから凍りつくように固まって、真っ白な輝く一角獣の姿になった。
光の精霊だ。
光の精霊と闇の精霊は、互いの姿を認めるや咆哮を上げ、相手に向かって突進する。両者が激しくぶつかり合うと、そのあいだの空間に光と闇の力が集中し、まばゆい白と黒の輝きを放つ。
両者は互いに力を結集して押し合う。その力を受けて、互いの間の空間はきしみ、そこに一筋の亀裂が生まれ……
……そして、空間が裂けた。
その裂け目から、まばゆく輝く虹色の光と、漆黒の闇が、先を争うように飛び出す。そのふたつは混ざり合って巨大な渦となり、光と闇の精霊を飲み込んでいった。
『元素が……暴走した!』
チャムが悲鳴をあげる。
空間の裂け目から吹き出す光と闇の勢いは止まらなかった。まるで台風のように、津波のように広がり続ける光と闇の渦が、地上のすべてを飲み込んでいく。
逃げられない。
『フレイン……風でみんなを守れ!』
チャムの声を聞いて、あたしは印を作り、まわりに風を集める。
魔法を発動させた瞬間、あたしたちは光と闇の渦に飲み込まれ、木の葉のように空中に吹き飛ばされて、気を失った。