2
グランの町から「風の木霊する洞穴」までは、歩いて二日ほどの道のりだった。
ただし、それは街道を進めばの話。途中で通行人を見張っている兵士たちの目を逃れるため、仲間に加わったシルファスの案内で、あたしたちは山の中を歩き回っていた。道といっても細い踏み跡があるだけ。場所によってはまるで道のない森の中を、下生えを切り開いて進まなくてはいけなかった。問題の洞穴がやっと見えてきたのは、グランを出発して五日目の朝だった。
「あれが、『風の木霊する洞穴』ですね?」
シルファスが問いかける。あたしはチャムに振り返り、チャムは同意のしるしに首を振った。
「ここまでは無事に来られましたね。問題は、どうやってあの中に入るかということですが……」
洞穴の入り口は山の中腹に開いていて、細い道の終点にある小さな空き地に面していた。いまあたしたちがいる場所は、そこから数キロ離れた森の中。
空き地には十数人の兵士が駐留して、油断なく周囲を見張っていた。
そう。洞穴と目と鼻の先であるここまで来て、あたしたちは困ってた。
ここまでは人目に触れないように来ることができたけど、この先に進めば、どうしてもあの空き地で見張っている兵士たちに見つかってしまう。こっそりと入るというのは不可能に思えた。
二の足を踏んでいるあたしたちの様子に、ゼバスがじれたように口を開く。
「あの中に入りたいというなら、やるしかなかろう」
そう言って、彼は背負っていた大きな斧を外し、両手にかまえる。
「たかが兵士の十数人ごとき、わしら全員でかかれば難しくもなかろう」
もう戦う気になっているゼバスを、シルファスがあわてて抑える。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、ゼバスさん。何のために、ここまで見つからないように苦労して進んできたんですか。それに、相手はあれだけとは限らないんですよ。だいいち、相手は弓を持ってます。斧で戦える距離まで無事に近づけると思いますか?」
ゼバスは不機嫌そうにシルファスをにらんで言葉を返す。
「その弓が気に入らんのだ。しょせん、遠くからこそこそと相手を狙う武器よ。そもそも、こんなふうに隠れて進むなど、わしは初めから好かなかった。いまここで、戦士の戦いぶりを見せてやろう」
はあ、またか。
この五日間、山道を歩きながらもゼバスとシルファスは口論を延々と繰り返してきた。その内容も、弓と斧はどっちが優れた武器かとか、ビールとワインのどちらがいい酒かとか、はたから見ればどうでもいいようなことばかり。
文句をつけるのはもっぱらゼバスの方なんだけど、シルファスの方もこのあたりはプライドにかかわるらしくて、決して引こうとはしなかった。おかげで、あたしとチャム、ローザ、そしてエレジーは、二人の論争を飽きるほど聞かされることになっていたのだ。
しかたなく、あたしは二人の間に割って入ることにした。
「二人とも待ってくれぬか。そなたたちの言うこともわかるが、いま兵士たちと争うのは好ましくない。なんとか忍び込む方法を考えるのが先決だろう」
二人は不承不承ながら同意し、あたしたちは作戦会議を始めた。
《それでどうする? チャム》
『うむ……。まず、兵士に見つからぬように入り込むというのは無理のようだな。どちら側から洞穴に近づいても、兵士に見られてしまう。ここは、戦わずにあの兵士たちを追いはらうことを考えぬと』
《でも、どうやって?》
『そう……。確か、ローザは幻影の魔法を使えたはずだったな』
あたしがローザに確認すると、彼女はそうだと答えた。
『それなら都合がいい。ローザに司令官の幻影を作ってもらおう。国王からの勅許状を携えたことにして。それで兵士をごまかせるだろう』
《うまくいくかしら?》
『ふ〜ん。それだけではいささか心もとない気もするな。では、「風の伝言」を使ってひとつ騒ぎでも起こすことにするか』
結局、こういうことになった。
まずローザが幻影の魔法で司令官の幻を作り出し、兵士たちに国王からの勅許状を見せる。兵士たちが幻の勅許状を確認しようとしたところで、あたしが「風の伝言」で騒ぎを起こす。騒ぎで浮き足立った兵士たちは、ローザの幻影を見破らずにあたしたちを通してくれるだろうという寸法だ。
みんなに作戦を説明してから、あたしはチャムに問いかけた。
《で、それでもうまく行かなかった場合は?》
『その場合は、臨機応変にやるしかないだろうな』
はあ……、結局そうなるわけね。
とにかく、あたしたちは見つからないようにこっそりと街道に降りて行った。
「止まれ!」
兵士の鋭い声がひびき、あたしたちは立ち止まった。
隊長らしい男の人が進み出て、あたしたちをにらみつける。
「この場所は現在、ザンジア王統府の命により立ち入りが禁止されている。国王陛下みずからの許諾なしでは、何人たりとも立ち入りまかりならぬのだ」
あたしは、となりのローザをちらりと見た。彼女は眉をしかめ、手を握り合わせて精神の集中を続けている。彼女の言うことによれば、幻影を作り出すだけではなく、それを人間らしく動かすのは非常に難しいことで、精神を限界まで集中する必要があるらしい。
一行の先頭にいる司令官、つまりローザの作り出した幻影は、兵士の隊長に向かって一歩踏み出し、巻いた一枚の紙を開いてみせる。
さて、今度はあたしの番。目立たないように印を作り、魔法をかける。
実はローザの光の魔法では、幻影を作り出すことはできるけど、声は出せない。声、つまり音は風の領域に属するから。だから、しゃべらせるのはあたしの役目なわけだ。
あたしの魔法で、幻影の司令官から声が発せられる。
「国王陛下からの勅許状を携えてきた。わたしは近衛兵司令官のラクレル。連れているのは魔術師ギルドのフレイン殿とそのご一行だ」
司令官が幻影だと知っている人から見れば、不自然さがはっきりわかる芝居だった。はたして兵士たちは気がつくかしら?
近衛兵司令官のラクレルっていう人がいるのは本当。そして、もしも国王が本当に許可を出したなら、その人があたしたちを護衛してくるのに不自然はない。そうチャムが話していた。だから、いちおう筋は通っているわけ。
思ったとおり、兵士たちはラクレルの名前を聞いて敬礼した。
「はっ、ラクレル様でありますか! わざわざこんな地までおいでいただくとは恐縮であります」
これ以上兵士と話していれば、幻影に気付かれるのは間違いないだろう。あたしはこっそりと別の魔法をかける。
突然遠くから声が響き、兵士たちはぎくりとした。
「みんな! 来てくれ! 敵だ、敵の軍勢が襲ってきた! う、うわあ〜っ!」
隊長が声のした方角を振り向いて言った。
「なんだ? 敵? こんなところに敵襲など、どういうことだ……?」
さらに声が響いた。
「早く! だれかいたらすぐに来てくれ! こいつら数が多すぎる! 俺たちだけじゃもたない……」
緊迫した様子の声を聞き、隊長はすばやく決断をくだした。
「ダニスとシムルはここに残れ! あとの者は私について来い! ラクレル様、非常事態につき失礼します。どうぞ中にお進みください」
兵士たちは走り去って行き、あたしはこっそりと息をついた。
いま使ったのが、「風の伝言」の魔法。声を遠く離れた場所に響かせる魔法だ。本来は離れた人に話しかけるための魔法だけど、こういう使い方もある。
どうやら、うまく行ったみたい。
二人の兵士を後に残して、あたしたちは洞穴に入った。
入り口からすぐの場所で、ローザ、エレジー、シルファス、ゼバスは立ち止まり、あたしとチャムだけが先に進む。ここはシファーの聖地。ここに立ち入りを許されるのはシファーの信徒のみだからだ。
洞穴の壁はかすかな輝きを放っていて、薄暗くはあったけど真っ暗ではなかった。岩の中にくり抜かれたような穴をしばらく下っていくと、奥に向かって弱い風が吹き込んでいるのに気付く。先に進むにつれて風は強くなり、ついには激しい風の音が洞穴の壁に反響して、周囲が猛烈な騒音に包まれた。
「チャム、この洞窟なんでこんなに風が吹いてるのよ?」
『シファーの居る場所だからだ。この場所が「風の木霊する洞穴」と呼ばれるのもこの風のためだ』
なるほど。そういえばまさに、ここは「風の木霊する洞穴」そのもの。
さらに進むと洞穴は突然終わり、あたしたちは大きな部屋に出た。だいたい八角柱の形をした部屋で、壁は洞穴と同じ石造りだけどほとんど平らで、明らかに人の手が加えられていた。天井ははるか上にあって、鈍い輝きを放っている。
部屋の中央には低い祭壇があり、その側面と上面には複雑な紋章が掘り込まれていた。
「チャム、ここがそう?」
『そうだ。世界でただ一か所、シファーと直接話ができる場所だ』
祭壇に歩み寄ったとき、チャムが言った。
『下を見てみろ』
下を見たあたしは、いつの間にか床が石造りじゃなくなっていることに気がついた。そういえば、靴の底の感触もなんだか柔らかくなってる。って、これは何?
「ねえチャム、この床なんなの?」
『風だ。この部屋の床は固体の風でできているのだ』
「固体の風? なによそれ?」
『ふむ、そなたの世界にはそういうのがないのだったな……。この世界では、風も固体になるのだ。固体の風を使う魔法はまだ教えていなかったか? ……と、その話はあとだ。シファーが来るぞ。ひざまずくのだ』
前方の祭壇の上に風が集まり、渦を巻いた。風はますます激しくなり、部屋じゅうから祭壇に向かって吹き寄せた。
祭壇の上にできた竜巻は、回転しながらその場所に留まり続けていた。
不思議な光景。渦を巻いている風がはっきりと目で見える。でも、それでいてそれは風なのだということがわかるのだ。目に見える風。
後ろ足で立ち、前足を組んで頭を下げているチャムが言った。
『シファーだ』
あれが、風の王シファー……。
その竜巻……シファーから声がした。
「フレイン、それに異世界からの客人よ。我が聖地にようこそ」
それは、周囲に吹きすさぶ風の音に混じって聞こえた。ううん、というよりも風の音そのものだった。風の音そのものが、シファーの語りかける言葉なのだ。
『風の王シファーよ。お受けした啓示のとおり、世界を救う者を連れてまいりました』
祭壇の上の竜巻がわずかに動いた。あたしたちを見ているのだとわかった。
「ふむ。この者か」
あたしが事情をどう説明しようかと考えていると、シファーは言葉を継いだ。
「説明は無用だ。そなたがフレインの身体を持って転生した事情は心得ておる。そもそも、そうするように命じたのは我だ。それにしても、そなたが猫の身体に転生するとまでは考えなかったぞ。その身体はどんな具合かな、元のフレインよ」
『わたしのことはチャムとお呼びください。今はこの者が新たなフレインです』
「承知したぞ、チャムよ」
それから、シファーは改まった声であたしに語りかけた。
「異世界からの客人よ、この世界にようこそ。我はこの世界を支配する八大精霊王のひとり、風をつかさどるシファー」
あたしは頭を下げたまま動かずにいた。動けなかった。シファーの発する言葉の一つ一つには、身体をしびれさせるような効力があった。
『シファーよ。啓示のとおりにこの者を転生させ、連れてまいりました。どうかお聞かせください、世界に迫る危機の真相を。そして、それに対して何をなすべきなのか』
チャムの言葉を受けて、シファーは話し始めた。
「ゼインダンは闇の王ディノクラと契約し、力を借りている。ゼインダンはその力をもってザンジアとロイグリードを征服しようとしている……と、ここまでは知っておろうな」
『存じております』
「それならば、ディノクラと契約を結んでいるのが誰なのか、見当もついておろう」
『はい。おそらく、ゼインダンの現宰相であるランセムかと』
「いかにも。ゼインダンの国王イジードは現在病床についており、実権を握っているのはランセムよ。奴は自分が実権を握っている間にザンジアとロイグリードを征服する気だ。だが、ゼインダンの兵士や魔術師の力だけではザンジアやロイグリードには勝てぬ。奴はそれを知っているが、是が非でも両国を征服する決意を固めた。ディノクラと契約するなどという賭けに出たのもそのためだ」
『そうであろうと思っておりました。してディノクラの側は、なぜランセムに力を貸すことにしたのでしょうか?』
「さて、そこが問題だ。ディノクラが何かを裏でもくろんでいることは確かであろう。だが、奴はそれが何であるかを悟らせないように、慎重にことを進めているのよ。我ら精霊王といえど、他の精霊王の真意までお見通しというわけには行かぬ。だが、ディノクラのつかさどるのは闇、すなわち死と破壊。それを考えれば、奴の目的とするものもおのずから見当がつこう」
『……まさか、この世界を破壊しようとしていると?』
「ディノクラであれば、それもありえぬことではない。だからこそ、そなたらに力を貸すことにしたのだ、チャムよ。人間の国が戦おうと滅びようと、それはそなたら人間の問題。我ら精霊王の口出しするところではない。だが、この世界そのものの存亡が脅かされるとなれば、我らにとってもいささかの関心事となるのでな」
それから、シファーはあたしの方に話しかけた。
「異世界からの客人よ。いや、そなたのことはもうフレインと呼ぶべきかな? 我は以前のフレインに、そなたをこの世界に転生させるように命じた。それは、そなたの魂が並外れた強力な魔力を秘めているからこそ。ディノクラの力を得たランセムは、恐るべき魔術師としてそなたの前にたちはだかるであろう。それを倒すには、そなたの秘める強大な魔力がぜひとも必要となるだろう」
「は……、はい。でも、あたし……いえ、わたしが何をすればいいのですか?」
「よいか、フレイン、それにチャムよ。ディノクラと契約しているのはランセム。彼さえ倒せば、ディノクラのもくろみは潰える。ランセムを倒せ。我はそなたらが彼と戦うときにのみ、力を貸そう。それ以外の国同士の争いごとは人間の問題、そなたらが好きに解決するがよい」
『承知しました。して、ランセムはいまどこに?』
チャムの質問に、シファーは笑い声を立て、竜巻が細かく震えた。
「ふははは……」
へぇ……。精霊王も笑うんだ。ちょっと意外。
「これは、精霊王に道案内まで求める気か。まあよかろう。ランセムはいま、ゼインダンの国境近くの町、ソルバの前線王宮にいる。代々のゼインダン王が、ロイグリードとの戦争中に滞在したところだ。ザンジアとロイグリードを侵略する準備が完了するまで、しばらくはそこにとどまるであろう。そなたがザンジアをも救いたいのであれば、侵略の準備が整う前にランセムを討つことだ」
『承知しました。ソルバの町に向かい、ランセムを討ちます』
「急げ。ランセムがいまおとなくしているのは、ザンジアとロイグリードを確実に侵略するだけの力を蓄えるためだ。彼は日々闇の手勢を呼び出し、ますます力を増しておるぞ。一日も早く彼を倒すことが、犠牲を少なくする道だ」
祭壇の上に留まっていた竜巻が動き始めた。さっきまで祭壇に向けて吹き込んでいた風は方向を変え、祭壇から周囲に向かって吹きはじめた。そして、竜巻はその風に乗って散るかのように弱まっていく。
「では行け、我が僕らよ!」
シファーの最後の声が響き、祭壇の上の竜巻は消失した。同時に風も止み、大きな部屋の中は突然の静寂に包まれた。
『シファーは去った』
チャムは身体を起こして伸びをする。
「あれが……風の王シファーなの」
『実のところ、シファーの仮の姿とでも言った方がいいかも知れん。シファーにははっきりとした形というものはないのだ。世界の風の力を合わせたものこそ、シファーの本体なのだからな』
「なるほどね。じゃあディノクラっていうのも同じ?」
『そうだ。ディノクラの正体は世界の闇を合わせたもの。「夜」そのものがディノクラだと言ってもいい。他の六人の精霊王も同じこと。どの王も無限の力を持ち、この世界が作られたよりもさらに昔から存在している』
チャムは部屋を去って、来たときに通った洞穴に向かって歩きはじめた。あたしはその後について歩きながら、頭に浮かんだ疑問をチャムに問いかけた。
「精霊王の力は無限……か。ねえ、だけど、その精霊王がどうして人間に指図して目的を果たさせようとするわけ?」
『それは、少々面倒な事情なのだ。それぞれの精霊王は無限の力を持っている。だがそれゆえに、彼らが直接争えば、この世界などあっという間に消滅してしまうだろう。だから、精霊王がこの世界に直接力を振るうことは、太古より絶対に禁止されているのだ。たがいの協定によってな』
「でも、ディノクラが世界を破壊しようとしているとか言ってたじゃない?」
『そこが複雑な部分だ。精霊王がこの世界に直接力を振るうことは禁止されているのだがな、人間の手先に指図して何かをさせることは禁止されていないのだ。人間に扱える力など、精霊王からみれば微々たるものだからな。いわば彼らは、わたしたち人間を駒のように使って、ルールにのっとったゲームをしているようなもの』
ゲームの駒、ねえ……。神話とかでよくある話だけど、自分が駒だって言われたら、やっぱりいい気分じゃないわね。
チャムはあたしの考えを読み取ったようだった。
『そなたが不愉快に感じるのもわかる。だが、精霊王は我々人間の手の及ぶ存在ではない。そなたが、太陽がまぶしくて不愉快だと思ったからといって、太陽をどうにかできるか? 精霊王にいたっては、太陽よりまだ強力なのだぞ。現に、太陽の神ポロは、光の王ルミールに従属する僕なのだからな』
洞穴の中は来たときと変わらずに風が吹き続けていた。木霊する風の音にかき消されないよう、チャムは声を大きくして話を続ける。
『だから、精霊王は常に人間の味方というわけではない。それにディノクラにしても、我々の考える悪というのとは次元が異なる存在だ。まあ、人間としては自分の仕える王に従い、その加護を受けて生きるのが……』
そこで、チャムは不意に立ち止まり、耳をぴくんと動かした。
『何か聞こえなかったか?』
あたしは耳をすました。洞窟に木霊する風の轟音に混じって、かすかに別の音が聞こえた。もっと集中して聞くと、それが叫び声だということに気がついた。
「……フレイン様……」
かすかだけど、それは間違いなくローザの叫び声だった。