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街道を三日歩いたあたしたちは、ターナスという村に到着した。
街道宿が一つあるほかは、民家がまばらにあるだけの小さな村だったけど、それでも三日間で初めて着いた村で、旅路にすっかり疲れていたあたしにとっては天国と同じだった。
なにしろこの三日間は歩きづめだったし、夜は火を囲んで野宿。こんな生活にまったく経験がないあたしは、脚はずきずきするわ背中は痛いわお風呂に入りたいわで、身体も心も疲労しきっていたから。
夕方も近かったから、さっそく宿をとり、晩ご飯まではゆっくりと休むことにした。といっても小さな村のこと、遊ぶ場所があるわけじゃない。まずはお風呂に入ってさっぱりした後は、宿屋の一階にある酒場で飲み食いしながらくつろぐくらいしかすることがなかった。
あたしとローゼ、それにチャムは、酒場にいくつか置かれた木製の丸いテーブルにつき、木の大きなジョッキに入ったビールを飲みながら話していた。
え……未成年はお酒だめ? だってあたし、この世界では未成年じゃないし。
とはいっても、やっぱり飲みなれないものはそうは飲めない。まだ一杯目のジョッキを半分も開けてなかった。
ローザはというと、上品な態度のわりに飲みっぷりはかなりのもんで、もう三杯目のジョッキを空にしていた。
店の中には、あたしたちのほかにお客は三人だけ。となりのテーブルで同じようにジョッキのビールを傾けていた。酒場の隅に置かれた椅子には一人の吟遊詩人が腰かけ、ハープみたいな楽器を演奏しながら冒険の歌を口ずさんでいる。
することもなく、しばらくビールを飲んで無駄話をしているうちに、これまでの旅の疲れで眠気が襲ってきた。
まぶたが閉じて頭がかくんと垂れてきたとき、不意に異様な気配を感じてびくっとする。
周囲を見回して、その異様な気配の原因を探す。ローザにチャム、ほかのお客、それに酒場の主人には変わった様子はなかった。みんなお酒を飲んだりほかのことをしながら、ぼんやりと音楽に聞き入っている。
……って、違う! それが異様なんだ!
あたし以外、この酒場にいる全員がまるで催眠術にかけられたみたいにぼうっとしている。まるで、周囲の人たちがみんな白黒写真になって、あたしだけ色付きになったみたいなそんな感覚。
そのとき、後ろからぞくっとする気配を感じた。
見られてる!
ぎょっとして振り返ると、そこは吟遊詩人の座っている片隅だった。
彼はさっきと同じに楽器を演奏して歌っていた。でも、その雰囲気がさっきとはまるで違う。さっきはなんとなくうらぶれた感じの目立たない男の人だと思ってたのに、いま彼は、まるであたしのことを突き刺すみたいな鋭い視線を放っていた。
彼は頭を覆っていたフードを取った。現れた顔は面長で鋭い目をした若い顔で、不気味なくらい色白だった。
彼は凍りつくような視線であたしを見つめたまま、新しい曲をハープで弾き始め、静かな声で歌いだす。その歌は、この世界で使われる普通の言葉ではなかった。特別な魔法に使用される古い言語で、まるで祈祷のような不思議な韻律を持っていた。
でも、その意味は理解できた。
世界を救うため選ばれし汝
汝の前にいくつもの危機あり
世界を救う旅は汝を運ぶ
風の宿り、王の宿り、天の国、そして世界の中心へ
その歌には、まるで身体をしびれさせるような魔力があった。あたしは言葉を発することができず、身体も動かせず、ただ呆然と彼のことを見つめていた。
この地に汝の最初の危機あり
闇の命を持つ者襲い来る
汝の身内に留めよ
闇の跡に残しし幼き者
そこで彼は演奏を切り、はじめて普通の言葉で話した。
「伝うるべきは伝えた」
感情のまったく感じられない、静かな声だった。
あたしは意思をふりしぼって、やっと一言だけ声を出すことができた。
「あなた……誰?」
彼は無表情のまま答えた。
「我はシフォス。ドゥルシラの使者」
それ以上何も言わず、彼はフードをかぶりなおして宿を出て行った。
いったい、あの人は誰?
そこで、はっと気が付いた。周囲の雰囲気はいつの間にか普通に戻っていた。さっき感じた違和感は完全に消え去っている。
《ね、ねえチャム、今の見た?》
お皿のビールをぴちゃぴちゃなめていたチャムは、きょとんとした顔で返事をする。
『今の? なんのことだ?』
《……そうか、やっぱりあなたも気が付かなかったのね?》
『気が付かなかった?』
あたしは、いま体験したことをざっとチャムに聞かせた。
チャムは話を聞くと、前足を組んで考え込み、あたしの肩に飛び乗って耳にささやいた。
『そなたの言うとおりなら、その吟遊詩人は音楽の魔法を使う魔術師だ』
《音楽の魔法? そんなのがあるの?》
『うむ。教えたように、この世界は八人の精霊王によって支配されている。だが精霊王の下には、王に従属する何人もの「神」、そして神に従属する「精」がいるのだ。ほとんどの魔術師は、八人の王の誰かに仕えることによって、その力を借りる。だが魔術師の中には、神や精に仕えるものも少数ながらいるのだ。吟遊詩人の中には、音楽の精ラティレに仕えることで、音楽の魔法を使えるものが存在する』
《ふうん……、なんか複雑なのね》
『だが……』
チャムはためらいがちに言った。
『この場にいる我々全員を排除しておいて、そなただけに伝言を伝えたというのなら、その者はおそるべき魔法の使い手ということになるぞ』
《そんなに難しいことなの?》
『ああ。全員に魔法をかけるのなら、それなりの能力があれば難しくない。だが同じ場所にいる人間の中で一人だけに別の魔法をかけるなどというのは、普通の魔術師にできることではない』
《それじゃ……、あの人はいったい誰なの?》
『わからん……』
晩ご飯の時間になっても、あたしとチャムの頭からその疑問は離れなかった。
「は〜、やっと眠れる……。しかも今夜はちゃんとベッドで」
簡易ベッドと小さなテーブル、それとランプしかない狭い部屋だったけど、野宿が続いていたあたしにとっては一流ホテルも同然。チャムはテーブルの上にうずくまって寝ることにしていた。ローザは隣の部屋だ。
宿で貸してくれた、飾り気のない麻の夜具に着替えてベッドに横になり、毛布をかけたとき、部屋のドアをこんこんと叩く音がした。
「誰?」
ドアの向こうから声がした。
「ローザでございますわ、フレイン様」
「……ローザ? 夜中に何の用かな?」
「あの、入ってもよろしゅうございますか?」
「う、うむ……。まあ、よいぞ」
あたしが答えると、ドアを開けてローザが入ってきた。あたしと同じ麻の夜具を着ている。さすがのローザも、寝るときは法衣は着ないんだ……って当然か。
あたしは起き上がって、ベッドに腰かけた。ローザはその前に立ったまま、あたしを見つめていた。
……あ、そうか。
「その、座ってくれ、ローザ。ベッドしかないがな」
「フレイン様のお許しとあれば」
ローザは上品なしぐさであたしの横に腰かけた。それから、あたしの顔を見つめて、
「フレイン様……、このときをお待ちしておりましたわ」
……え?
な、なんか変な雰囲気。
ローザは腰のところで両手をもじもじさせながら言った。
「今宵は私たち、二人きり。そして、ここならば何も邪魔は入りませんわ」
え、えっ? それってもしや?
あたしはローザの顔を見つめた。彼女の目は妖しい光に満ち、口元は悩ましい息を吐き出していた。
「フレイン様」
耳元でささやかれて、あたしはびくっとした。
「は、はいっ!」
「今宵、どうか私をフレイン様のものに……」
ずどど〜ん!
やっ、やっぱりっ! それってつまり、そ、その、エッチしてって……。
いっ、嫌よっ絶対! ……その、女の子となんてっ!
「だっ、ダメっ! あ、あたしそうゆう趣味ないのっ!」
思わず地を出して叫び、あたしは部屋の反対側に後ずさっていた。
「……フレイン様」
ローザは泣きそうな顔になった。
「ああフレイン様、ローザはこんなにもフレイン様をお慕いしておりますのに……。私の愛に応えてはくださらないのですか?」
そうか、ローザってフレインのことが好きだったんだ。ってゆうか、ローザの態度を見ていれば最初からわかりきってたことだったわ。自分に起きた事件で頭が一杯で、考えてなかった。
んなこと考えてる場合じゃないっ! この状況どうすればいいのよっ!
そうだ、チャム! あいつに責任取らせなきゃ!
だけど、見回した部屋の中にどこにもチャムの姿はなかった。
「あいつ……、逃げた……」
く、くそっ。後でたっぷり問い詰めてやる。
それはともかく、この状況をなんとかしないと。
「ロ、ローザ。そなたはルミールに仕える巫女であろう? 巫女ともあろうものがこんなことを……」
「ええ、そうですわ。ルミールに仕えるのは巫女としての勤め……」
そう言ってからローザは妖しい微笑を浮かべて続けた。
「でも、フレイン様に仕えるのは女としての勤めですわ」
う、うわっ。ローザ、完全にソノ気だ。
こ、こういうときはどうやって断るのがいいのかしらっ?
「フレイン様……。私の身体は髪の毛からつま先まですべて、フレイン様のものでございますわ……」
ローザは夜具の帯を解いて床に落とし、長い夜具の前をはだけた。色白できれいなローザの肌があらわになる。
「だ、ダメっ! 脱がないで!」
ローザはあたしの言葉にかまわず、夜具の袖を脱いで手を離し、夜具は彼女の身体からするりと床に落ち……。
ばきぐしゃあぁぁん!
ものすごい音がしてドアがはじけ飛んだ。