夜明け前の凍てつく空気の中、あたしたちは屋敷を出発した。

 ほんとに寒い。東京の真冬よりまだ寒かった。魔術師がよく着ているっていう灰色のフード付きマントの袖を合わせて、あたしは震えていた。

《ねえ……、チャム。どっかそこらでカイロとか買えない?》

 マントのポケットから顔をのぞかせたチャムが答える。

『この世界にコンビニはないぞ』

《だめか……ってあなた、どうしてコンビニなんて知ってるのよ?》

『そなたをこの世界に呼ぶ前に、そなたの世界がどんなものであるのか一通り調査したのでな。精神の魔法を使える魔術師に協力してもらって、そなたの世界にある魔法の情報貯蔵庫を読み取ったのだ』

《魔法の……情報貯蔵庫? ってなに?》

『そなたの世界には、世界のあらゆる情報を集めた情報貯蔵庫があるではないか? 確かインターネットとかいう名前だったが』

 あ……。インターネットね、なるほど。

 って、魔法でインターネットにアクセスする魔術師……なんかシュールだわ。

『まあ、そこから情報を読み取ったおかげで、そなたの世界がどんなものなのか大体は知っている。残念ながら、このザンジアにセブンイレブンが出店するとかいう話は今まで持ち上がっていないのだ』

 それって……冗談のつもりなのかしら? あたしは考え込んでしまった。

「あの……フレイン様、何のお話ですか?」

 となりを歩いているローザが不思議そうに問いかけた。彼女は昨日と同じ、真っ白な法衣に身を包み、金色の杖を持っている。なんでも法衣は巫女の制服だそうで、ほとんどいつも同じ格好らしい。昨日と違うのは、旅の荷物を詰めた厚い布地の背負い袋をあたしと同じように担いでることだけ。

「い、いや大した話ではないぞ、ローザ。それより……寒いではないか」

「そうですね……確かに寒いですわね。ちょっとお待ちくださいませ」

 そういうと、ローザは立ち止まり、杖から手を離して、両手で複雑な印を結びながら小声で呪文を唱え始めた。

 ローザが空中で指先を動かすと、その跡が一瞬光り輝き、空中に図形が描かれる。彼女が呪文を唱え終わり、指を止めたときには、右手の伸ばした人差し指と中指の先が明るくグリーンに輝いていた。

「フレイン様、どうぞおでこを出してくださいませ」

 そう言って彼女はその指をあたしのおでこに近づけ、そっと触れた。

 その瞬間、指で触れられた部分がかっと熱くなった。すぐにその熱さは消えて行き、変わりに身体の奥底から活力が湧き上がり、血液が全身を力強く駆け巡るのが感じられた。

「これは……」

 ローザは微笑んで答えた。

「身体の活力を高める、簡単な光の魔法ですわ」

 うわあ、魔法ってすごい。ってゆうより、この世界じゃ本当に魔法が当たり前なんだ。

「う、うむ。ありがとうローザ」

 あたしが答えたとき、視野の横で赤い光が輝いた。

 夜明けだった。東の山陰から姿を見せた太陽の赤い光が周囲を染め、あたしたちの長い影を石造りの路上に映し出す。

 空に目をやると、青い空の中に筋のような雲がたくさん、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。……って、何か変?

 あたしはその妙な雲を、目をこらして見つめた。空に浮かんでいる雲……、よく見ると、それは雲じゃないことに気付いた。まるで水面みたいに光を反射して、あっちこっちがきらきら光ってる。さらによく見ると、それはまるで川みたいに流れてる……。

 そこまで見て気が付いた。あれって水じゃない! 信じられないけど、どう見ても空を流れてる水としか見えない。

「う、うそっ! 何よあれっ! そ、空に水が流れてるわっ!」

 ……あ、しまった。フレインの口真似忘れた……。

 ローザはきょとんとした顔で答える。

「は……? 当然ではありませんか、フレイン様。ただいまは『水の季』なのですから」

 チャムがポケットから飛び出し、あたしの耳元でささやく。

『この世界には「風の季」「火の季」「地の季」「水の季」の四季があるのだ。そなたの世界でいう春夏秋冬だ。今は水の季、そなたの世界の冬だから、水の元素界がこちらに張り出してきているのだ』

「水の元素界が……張り出してる?」

『いかにも。この世界は八元素界のはざまに存在するのだ。北には水、東には風、南には火、西には地の元素界がある。風の季になれば風の元素界が、火の季になれば火の元素界が張り出してくる』

 そういえば、そんなことを夕べ聞かされたような気がする。なんでもこの世界は地球みたいに丸いわけじゃなくて平らで、世界には果てがあるんだとか……。

 納得は行ったけど、現に空の上を水が流れている光景は異様だった。

 ここって、本当に異世界なんだ。初めてそう得心が行った。

 

 町を出て、街道を歩き続けた。

 もちろんこの世界では、街道といっても舗装もされてないし、車が通ってるわけもない。ただ踏み固められた砂利や土の道が、草原や山の中を走っているだけ。

 数時間歩き続けて小さな山を一つ越え、お昼が近くなった頃には、あたしはすっかり疲れきっていた。

《ねえチャム、そのなんとかいう洞窟ってまだなの? あたし、もう足痛いんだけど》

 チャムはポケットの中であくびをして伸びをし、後ろ足で身体をぽりぽりとかいた。

『そんなに早く到着するわけがあるまい。とはいっても、「風の木霊する洞窟」はそう遠くもない。まあ、二週間も歩けば到着するだろう』

 げ。

《に、二週間? その間ずっと歩き続けるの?》

『仕方あるまい。それでも、シファーの聖地は近いほうなのだぞ。他の精霊王にもそれぞれ聖地が存在するのだが、ルミールの聖地などは国をいくつも超えた先にあり、歩いて少なくとも三ヶ月はかかるのだ。時の王キシーの聖地にいたっては、世界のどこにあるのかさえ知られておらぬ』

 ちょっと考えてから、チャムは言葉を継いだ。

『いや、実際のところは速く移動する方法もあるのだが、今回はあえて歩くことにしたのだ』

《どうしてよ?》

『洞窟にたどり着くまでに、そなたに魔法の練習をしてもらおうと思ってな』

《え、あたしが魔法の練習?》

『そうとも。そなたはまだ魔法の使い方を知らぬだろうが。わたしが教授するから、早く使い方を習得してくれ』

 むかついたあたしは、チャムの首根っこを押さえてポケットから引っ張り出すと、尻尾を握りしめて逆さづりにしてやった。

『こ、こら、痛い、苦しい』

《あ・ん・た・ね〜? あたしを二週間も歩かせる上に、魔法の練習までさせる気なの? 冗談じゃないわよ!》

 チャムは逆さになったまま、前足を腕組みしてあたしの方をにらんだ、

『そなたにぜひとも魔法が使えるようになってもらわんと困るのだ。おそらく、そなたの魔力が世界を救う鍵となるのだろうからな。よいか? わたしはこの世界を救う力を持った者を他の世界から探した。その結果、力を持ち、しかもこの世界に転生させることが可能だったのはそなただけだったのだ』

《でも、あたし魔力なんてないわよ!》

『そんなことはない。そなたは強大な魔力を持っていることがはっきりと分かるのだ。以前のそなたの生活ではその力を使うことがなかっただけのことだ。なに、魔法の使い方はその身体が憶えているからすぐに習得することができる。なにしろ、それはわたしの身体だったのだからな』

 うーん……。

《よくわかんないけど……とりあえず、あなたの言うとおりするしかなさそうね》

『それでは、とりあえずこの手を離してくれないか?』

 あ。あたし、チャムの尻尾を握ったままだった。

 手を離すと、チャムは地面に落ちてぽてっと転がった。それからすばやく起き上がり、あたしのマントに飛び上がってまたポケットに落ち着く。

『もう少し歩くと、湖のほとりに空き地がある。そこで休憩して、少し魔法を練習してみることにしよう』

《へいへい。だけど、あなた重いのよね》

 あたしが不満をたれてもチャムは知らん顔で、ポケットの中で丸くなってぬくぬくしてた。

 

 丘の斜面に沿って道が曲がると、目の前にその湖が現れた。

 そんなに大きな湖じゃないけど水は澄んでいて、周囲は丈の短い草原に囲まれて野生の花も咲いている、一休みするにはもってこいのきれいな場所。あたしとローザは荷物を降ろし、座ってお昼ご飯を食べた。

 それから、そこらで休んでいるようにローザに頼んで、あたしはチャムを連れてちょっと離れた、ローザから見えない場所に歩いていった。

「さてと」

 あたしは言った。

「何すればいいの?」

『まずは、簡単な風の魔法をかけてみることにしよう。さっそくやってみるのだ』

「やってみるのだ……って、あたし魔法のかけ方なんか知らないわよ!」

『魔法のかけ方はそなたの身体が憶えている、と言ったろうが? だからこそ、そなたをわたしの身体に転生させたのだぞ。心を澄まして、意識の底から知識を引き出すのだ。そうすれば、身体に記憶されている魔法の知識を思い出すことができる』

 言われたとおり、あたしは目を閉じて意識を集中してみた。頭の中で、魔法のかけ方、魔法のかけ方と念じてみる。

 最初は、今まで見たファンタジーの映画や小説なんかの漠然とした記憶が頭の中に浮かんだ。もっと意識を集中すると、そういうのは頭の中からしだいに消えて行き、代わってもっとはっきりした記憶が浮かび上がってきた。

 風の魔法、つまり風を操る方法だ。そのためにどんな呪文や印が必要なのか、どんな効果があって注意点があるのか、そういった膨大な知識、あたしが知っているはずもない知識が心によみがえった。

「うそっ……思い出したわ、ほんとに!」

『よし。ならば試しに突風でも起こしてみろ』

 あたしは目を開いて周囲の状況を確認した。突風を起こしても誰にも見られず、問題がないことを確認すると、魔法をかける動作を開始する。

 突風を起こすには、五つの印を作る必要がある。風の王シファーに力を借りる願い。風の元素を呼び寄せる道標。吹かせる風の方向を示す印、強さを示す印。最後に、この魔法全体を発動させる、スイッチの働きをする印。

 これらの印を順に指先で描きながら、同時に印を補完する呪文を魔法語で唱え、さらに頭の中に魔法に対応するイメージを描いていく。それらすべてを同時に、寸分の狂いもなく正確に行う必要がある。

 簡単な突風の魔法でもこれだけの動作が必要なんだから、魔法使いが高度な呪文を習得するために何年も修行が必要っていうのも納得だわ。

 あたしが最後の印を結んで魔法を発動させると、あたしの周囲に風の力が集まってくるのがわかった。力は集結して、突風を……起こさずに、そのまま散ってしまった。

『二番目と三番目の印の結び方が少し違っていたな』

 チャムが言った。

『もう一度やってみるのだ』

 あたしはもう一度試した。今度は、風の力が集まり……、そのまま上に向かってものすごい勢いで突風を引き起こし、あたしは自分の起こした突風で空中に飛ばされた。

「きゃ、きゃあああぁっ! 助けてええっっ!」

 あたしはそのまま空中から落ち、背中をしたたかに打った。

「い……イタイ……」

『今度は四番目の印と、呪文の途中が少し間違っていたな。もう一度だ』

「……ね、ねぇチャム、あなたあたしをいじめて喜んでない?」

『な、何を言うか。魔法の修行にはこんな苦労はつきもののこと。わ、わたしはその苦労を知っているからこそ……あ、温かい目で見守っているのだぞ』

「……その割には、あからさまに目をそらしてるわねぇ?」

『え、ええい、ぶつぶつ言ってるひまにもう一度やってみるのだ!』

 チャムはあたしから顔をそむけて、前足を口に当てて笑いをこらえていた。

 ううっ、三味線にしてやろうかしら。……って、この世界に三味線はないだろうけど。

 とにかく、あたしはもう一度魔法を試してみた。

 何回かぶざまな失敗をした後で、あたしはようやく思い通りの突風を作り出すことに成功した。あたしが呼び出した風は、草原の草をなびかせ、湖に波紋を起こしてまっすぐに走り抜けた。

 チャムが前足をぽんぽんと叩いた。拍手のつもりみたい。

『よくできた。そこまでできるのに、魔法の訓練生なら一年はかかるところだ』

「やったわ! ねえ、もう一回試してみていい?」

『ああ、試してみるがいい』

 あたしはもう一回魔法をかけてみた。今度の突風は近くの木の枝をガタガタと揺らし、葉っぱをいくつか飛び散らした。

 すごい! あたしにほんとに魔法が使えるなんて夢みたい。

「よ〜し、もう一回!」

『お、おい、そろそろ……』

 魔法をかける楽しさに舞い上がったあたしは、もうチャムにかまわず、そこらの物に片っ端から突風をお見舞いしていった。

「きゃは〜っ、魔法って超面白いじゃない!」

『こ、こら! いいかげんに……』

 あたしは、あたしを制止しようとしたチャムに向き直ってにやりと笑う。

「ふふふチャム、そなたはいろいろとわたしのことを笑ってくれたなぁ……?」

『お、おい何をする……、こら、やめんか!』

「問答無用! 風はわたしのために吹く♪」

 あたしが放った突風に舞い上げられて、チャムはぶざまに空中で手足をじたばたさせた。

『こ、こら、やめろ、止めろ!』

「うん」

 あたしが魔法を止めると、チャムは空中をくるくる回ってから、頭から地面に落下する。

 ぽてっ。

 チャムは倒れたまま目を回していた。

『そ、そなたを選んで……本当に……正しかったのか……』

第一章 目覚めてみたら、ここはどこ?:2

第一章 目覚めてみたら、ここはどこ?:4

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