小田原建築探偵〜大阪万博編      
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ラオス館part3〜ラオス館の今〜12  2006.09


万国博会場から霧ケ峰への移築。

50万円の礼金でラオス館を譲り受ける事にな
ったが山崎氏の資金難は続く。解体運搬費用
だけでも少なくとも300万円の資金を集めるの
に奔走したそうだ。檀家も無く資金にも乏しい
昭和寺は山崎氏の熱意によって本堂建設に
進んでいく。


万博会場に近い豊中不動寺の住職とは親しい
間柄だったので大工、とび職、炊事係、計15人
程泊めてもらい丁寧にラオス館を解体しトラック
に積み込む仕事に当らせ一方霧ケ峰では境内
の傾斜地を整備し10月15日には万博観音を
霧が峰スキー場のゲレンデに迎え露座の安置
供養法要を開催した。

この時はラオス大使夫妻も出席された。大使一
行を諏訪市湖畔の観光と下諏訪の工場見学に
案内し特製のオルゴールを贈呈して精一杯の
感謝の気持ちを表した。

運んできたラオス館の建築用材を一冬雪の下
に野積みにしておくと痛むので基礎のコンクリ
ート工事を急がせ11月10日には雪降る中で
仏式の地鎮祭を行い11月20日、積雪前に素
建てを完了したのであった。

その間も数々の方からの寄付も集まり翌年5
月下旬には本堂最後の塗装工事が仕上がり
新緑の落葉松林の中に紅色の三層の尖塔を
載せた南方仏教の美殿が見事に出来上がっ
た。梅雨の中で重い観音像をデレンデから堂
内に苦労しながら安置し6月5日、500名以
上が集まり大法要が営まれた。

本尊の造立、万博安置、本堂建立の事業には
四千数百人の浄財によって成し遂げられた
そうだ。

こうして万博会場にあったパビリオンは長野霧
ケ峰に移築され第二の人生を送り始める事と
なったが檀家も無い為資金難は相変わらずで
住職の住む場所も無く隅の三畳間に防寒天井
を張りその上は物置にし内面はガラス戸と厚
いカーテンで囲い電気こたつと石油ストーブで
暖をとりひとり用の炊事用具を備えて本堂の隅
で零下十数度の霧ケ峰の冬を過ごした。

その後土地の問題等の紆余曲折を経て昭和
47年国際学生ゼミナールと幼少青壮老人の
研修による社会教育を事業目的とする財団法
人を設立し資金の一部を万国博記念協会の助
金で補い本堂の隣に研修会館を建設するに
至ったそうだ。会館の落成式にはラオス及び
ネパールの駐日大使も列席して行われた。