小田原建築探偵〜大阪万博編      
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ラオス館part3〜ラオス館の今〜8  2006.09


世界平和同願会の会誌”同願”から大阪万博
出展からパビリオンを譲り受ける経緯を抜粋
してみる。

日本万国博覧会に平和観音像を出展するに至
る経緯は世界平和同願会の発足から書かねば
解り難い。昭和35年故山崎良順氏が自らの戦
争体験から第二次世界大戦の戦没者の方の慰
霊と世界平和を祈り日中両国に観音像を送る
事を戦友会で提案した事から起因している。

当時中国へ観音像を送り安置する事が困難な
中にも実現し、やがて他の太平洋の激戦地にも
観音像が送られ祀られ世界平和同願会の基盤
が出来上がって行ったそうだ。。

日本万国博覧会が開催される事が決定しその
テーマ「人類の進歩と調和」が仏教精神に通じる
と感じた山崎氏だったが物質機械文明は如何に
進歩しても、これを戦争に利用されては人類を不
幸にすると危惧した。

平和観音像を万国博覧会に出展し世界平和
を訴えたいと願った山崎氏は開催3年前の
昭和42年日本万国博覧会事務総長だった
鈴木俊一氏(元東京都知事)と面談し出展許
可を願い出たが許可が出るまでには相当な
時間がかかったと言う。

何度目かの出展依頼の際、協会側からは
「全日本仏教会から法輪閣と言うお茶の接待
所を建てて施設参加する申込みがあったの
で観音像はその施設の中に出展されるよう」
としたが全日本仏教会からの許可が出たの
は昭和44年8月、開幕七ヶ月前の事であっ
たと言う。

それから出展する為の平和観音像の製作
にとりかかり、出来上がったのは開幕直前
の3月初旬の事だったそうだ。万博開幕は
3月15日だったが諏訪で開眼供養をした
のが3月8日、会場の法輪閣で奉安法要を
行ったのが3月9日の事だったそうだ。

本当にキリギリの日程だったが何とか念願
だった万博出展が果たせた山崎氏は安堵
の胸をなでおろしたそうだ。