因習と耶蘇教

 1966年の改正で3リッター・エンジンに変ったのは、1.5リッターの技術が成熟を極め、今後の発展に期待が

持てなくなったという事なのだろう。新しい課題を与えれば、また珍騒動が起こり(事実4WDだの6輪だの

ゲテモノを生む土壌となった)観客席を刺激すると読んだのかもしれない。

 改正当初、各チームから3リッターエンジンの入手に見込みが無いという苦情が殺到して、FIAの老人会が

うんじゃ、しかたない。過給器付きの1.5リッター・エンジンも認めよう」と言ったらしい。しかし、

当時としては、ターボ・チャージはトラックのディーゼルにしか無かったから、ターボという単語は規則書に

盛り込まれなかった。

 

 ル・マンや、アメリカくんだりの馬鹿騒ぎではターボがレース・カーに搭載されたが、ターボの投資対効果を

鑑みれば、等価係数 1.4 は言わば限界に近い値で、ターボ付き3.6リッターと自然吸気5リッターは互角と

しても、ターボ付き1.5リッターが自然吸気3リッターに敵う筈が無いというのが極普通の考え方だった。

鞭を当てれば多少は速く走るだろうが、やりすぎれば、馬がヘタって死んでしまうというのである。

 

コスワースDFV(DFVはダブル・オーバヘッド・カムの4バルブの意味だそうだ)のキース・ダクワース

「スーパーチャージは出力の一部をコンプレッサーに回すが、ターボはタービンが排気で作動するモータだ。

つまり双発のレーシング・カーは違法だ」と切り捨ててDFVのターボ化には手を出さなかった

事実、一時期、フェラーリはターボ・ラグを短くする目的でタービンに燃料を噴射する事までテストした。

これこそ、レシプロ+ジェットのハイブリットであろう。

 

 ところが 1970年も半ばになると、大手自動車メーカーのルノーがF1に参戦した。ルノーはDFV全盛の

の中にあって、我が身の個性ターボ付き1.5リッター・エンジンに求めたのだ。これは正しく茨の道で、

見送る者の無い船出であった。とは言うもののルノーは、この時点で既にル・マンターボで征しており

なおもすると、ポルシェよりもターボの技術的蓄積が多いかもしれない。ル・マンに胡座をかかず、この時期

を狙ってF1に参戦した事は先見の明と言えるだろう。当時のF1はグラウンド・エフェクト時代の真中で、

馬力で多少劣ろうとも空力を見方につければ優勝も夢ではなかった125cc×12気筒=1500ccだとわめいた

頑固爺も、バイクでの成功を根拠にF1に乗り込んできたわけで、成功者にとって挑戦と博打は一線を隔す

別物らしい。後で思い返せば、この機会を逃してターボが日の目を見る事はなかっただろう。ルノーはF1に

多大な貢献をしたわけである。ポストDFVがターボとなった原動力はルノーの成果と実績に他ならない。

(Fulcrum 著)