ホンドーラ
1960年代のホンダは、自動車会社としては小さな会社であった。主たる業務の四輪車生産も、軽自動車の
Nシリーズが加わり本格的に軌道に乗ってきた。さらに小型車生産に駒を進める日も近い。すなわち本社の技術
資源(資金にせよ、人員にせよ、すべて)は、量産車に振り向けられることとなる。グランプリ参加当初から
四輪車の設計人員は総勢20名しかなく、グランプリ専任部隊の編成は不可能だった。すべて兼任であることを
本旨とし、エンジン屋もシャーシー屋も入り乱れて図面を描く状態だった。ただし兼任であったからこそ、
グランプリで得た技術を余すことなく量産車に還元できたともいえるが・・・
1966年にレギュレーションが1.5リッターから3リッターに拡大されたことにより、グランプリの様相も
一転した。中でも大きな事件はフォード・コスワースDFVエンジンの参加である。このエンジンもまた
クライマックスと同様に市販品であった。コスワースDFVが相手ではホンダRA273は刃が立たない。
もしも英国に前線基地を持てるなら、多くの物品を本社から空輸せずとも現地調達が可能となり、エンジンの
オーバーホールくらいなら前線基地でも可能である。本社をあてにせず現地で可能な戦力向上策はRA273
よりも軽量なシャーシーを新規で起こすしかない。幸いにもローラ社が全面協力してくれた。インディ500の
ローラT-90 はグランプリにも転用可能だった。このシャーシーはRA273に比べて大きな減量が可能だが、
更にエンジン&ミッションも減量の努力を払った。冷却水及びオイルを含めた全備重量で約 70Kg 軽くなった
新車についた名前はRA300である。
エンスーどもは、ホンダとローラの合いの子の意味でホンドーラというニックネームで呼んだらしい。
RA300 イタリアGP 優勝車 1967年
V12 の横置き形式は3リッターでは幅が許さず縦置きとした。RA272は横置きだがヨー慣性モーメント
の軽減には効き目が無いことも理由である。V12の場合、60゚の整数倍ならば爆発間隔が均等となりバランスが
良いが、シャーシーの制約からエンジンのV角度は90゚とした。高速回転を前提とする限り不均等爆発は大きな
問題とならないと考えたようだ。クランク軸の振動を抑えるために、軸の中央から出力するようにした。
(このコンセプト自体はRA273を踏襲するものである)
前出のティレルP34と比べるとタイヤの幅は明らかに狭い。それにしても、排気管のレイアウトは
どうにかならないものだろうか・・・ (Fulcrum 著)