トップへ > 弁天座の歴史
<弁天座の由来>
慶長5年(1600)子の春、福永太左衛門という人がこの劇場を創設し、その後元和2年(1616)辰の年、竹田出雲が譲り
受け、竹田の芝居として大阪の名物となったが、それ以降持ち主が転々して、明治9年(1876)4月に尼野吉郎兵衛が
買い取り、弁天座と改称した。
同年4月18日には、同座の火災により56名の死者を出した。また、明治27年(1894)5月6日の出火により、建物
全焼27戸、半焼13戸にもおよんだ。明治28年(1895)には、長男貴之が家督を相続した。
同座の住所は、大阪市南区東櫓町63番。 (雑誌「大阪春秋」29号より)
<同座の経営>
明治38年(1905)の「座払領収証綴込簿」によると、1か月の興行は、原則として
22日間であった。
1月を例にとると、出演する役者は中村雁治郎一座である。まず、興行開始の一か月前くらいに手付金を払う。そして
興行前日に残りの出演料を全額前払いした。この一座の場合、計32名で、しめて3,200円である。当時の小学校教員
の初任給が15円くらいであったから、今の数千万円といったところだろうか。例えば竹本伊勢太夫の出演料は、22日
間で22円である。
同年1月は、22日間中13日が大入りであったことから、概算であるが、1月の収入は18,000円前後、出演料が
3,200円で、差引14,800円、今の2億3千万円の黒字であった。劇場の維持管理費や大道具などの仕込みをどちらが負担
したのか不明だが、火災などのリスクを負いながら、かなりの利潤をあげていたことが推測される。
(劇場と演劇の文化経済学より)
<松竹の登場>
京都から大阪道頓堀に進出した松竹は、1906年に中座、1909年に朝日座、1911年に角座と浪花座の経営権を取得し
た。芝居小屋 堂島座の土地・建物を大阪毎日新聞社からの申し入れで売却した松竹は、その代金で座主尼野貴之を口
説き、1916年(大正5年)に最後に残った弁天座を獲得した。 (松竹百年史より)
その後、松竹経営下の大阪各座は、伝統的な歌舞伎小屋であっても、大歌舞伎を上演するには経済的に見合わない劇場
であれば、「新派」、「喜劇」、「家庭劇」、「演芸」、「映画」などの芸能を上演する劇場に変わっていった。
<その後の弁天座について>
大正15年(1926)に、御霊文楽座が焼失した後、弁天座において文楽の仮興行が昭和5年(1930)まで行われた。谷崎
潤一郎が、芥川龍之介や佐藤春夫と共に、人形浄瑠璃「心中天の網島」を観賞したのもちょうどこの時期に当たる。
これが小説「蓼食う虫」の題材になっている。
昭和8年(1931)の大阪各劇場の総興行日数は、10年前の五分の一にまで減少し、特に大歌舞伎の落ち込みが激しか
った。弁天座は、昭和20年3月14日に戦災で焼失した。戦後は再建後、道頓堀文楽座そして朝日座と名称を変更し
たが、昭和59年に廃業となる。