最後の砦 |
最後の砦 −君が代に付いて考えてみた− |
今年(2001年)も、卒業式、入学式の時期には、各新聞の紙上で「日の丸・君が代」に関する議論が活発に行われたが、ぼくは普段から産経と朝日の社説を読み比べたりしているので、やれやれ、またかという感じで面白半分にこのやり取りを眺めていた。 ぼくの住んでいる地域は日教組が強く、小中高校を通して学校で日の丸が掲揚されるのを見たことが無いし、君が代も一度も歌ったことがないのだけど、個人的には卒業式や入学式のような式典で国旗掲揚や国歌斉唱を行うのは、ごく当たり前の常識的なことだと思っている。※注1 まあ、この問題については色んな所で議論されているし、国歌国旗について政治的、思想的に考察するのがこのページの目的ではない。 ただ前々から君が代に関する議論の中で非常に気になっている意見があった。 それは、君が代のメロディや曲調がのんびりしていて嫌いだとか、メジャーかマイナーか判別しづらく、今の時代にそぐわないという意見だ。 音楽的な見地から 君が代 を歌いたくないという人がいるらしい。 個人的には、とても良いメロディーだし、西洋的ではない和風な旋律であるところが、却って素晴らしいと思っているのだけど、音楽の好き嫌いは人それぞれなので、君が代 の旋律が良くないという人が居ても別に構わない。 しかし、こと 君が代 に関しては、好き嫌いや政治的な問題を超えた重要な意味がある上、今後その重要性は増していくので、大事に歌い継いでいかなければならないと考えている。 以下は個人的な体験に基づいた主観的な意見かもしれないけれど、君が代について従来とは違う角度から眺めることが出来たんじゃないかと思うので、こんな意見もあるんだな、という感じで軽く読んでいただければ有り難い。 ―――――― ○ ―――――― ○ ―――――― ○ ―――――― 先ず最初にハッキリさせておきたいのが、「音楽は世界共通語」という言葉があるけれど、これは違うんじゃないかと。 音楽に付いてちゃんと考えている人にとっては、これほど胡散臭い言葉はないのだけど、何故かこの怪しい概念が一般には広く信じられているようだ。 どういう事かというと、例えばアフリカやアジアの僻地の少数民族の歌を聴いたとする。 あなたはそれが、結婚式の歌か葬式の歌か判別できるだろうか? たぶん無理でしょう? 結婚式と葬式の区別すらつかないというのは、あんまりな話だと思うけれど、これが現実だ。 乱暴な言い方かもしれないけど、人間は音を使ってコミュニケート出来るとか、音の動きが人の情動に作用することは確かだけれど、世界中のどんな国の人でも感動するメロディーなどというものは存在しない。 ちなみに文化人類学者の川田順三氏の本によると、アフリカのモシ族にモーツアルトを聴かせたら、まるっきり雑音扱いされたそうだ(その代わり、モシ族は「太鼓ことば」という独自の音楽世界を持っている)。 突き詰めて考えるなら、音に関して世界共通と言って良いのは、次に挙げる程度のことしかないと思う。
他には、赤ちゃんは高い音を好むらしい(だから「〜ちゃん可愛いでちゅねぇ〜♥」という時は自然と声が高くなる)というのを何処かで読んだ事がある。 ぼくらが当たり前のように考えている西洋12音階も、元々はローカルな宗教音楽(教会音楽)に過ぎず、普遍的なものでもなんでも無かった。 たまたま世界中に広まってデファクト・スタンダードになってしまったわけだ。 何故そうなったかというと、音の動きを記録できる「譜面」の発明が先んじたこと、大航海時代にキリスト教の宣教師達が讃美歌という形で世界中に12音階をばら撒いた事、現代ではハリウッドやテレビなどのメディアの影響が非常に強いだろう。 現在のメディアで強大な勢力を持っているのはキリスト教圏の人々であり、映画やポピュラーミュージックなどには、殆ど例外無く西洋12音階(教会音楽の発展形)が使われているわけだけど、もし仮にイスラム教がメディアを席巻して、毎日テレビでコーランが詠じられるような世の中であれば、バッハやベートーベンの旋律も魅力を失ってしまうかもしれない。 そもそも「バロック」は異端を指し示す言葉だった。 ベートーベンが登場したとき、その音楽の前衛性に、聴衆はどこが良いのか理解できなかったという。 しかし今の耳で彼らの音楽がどれほど斬新だったかを感じ取るのは難しい。( 更に言うなら、バッハの時代と、現代では、楽器の調律法が異なるので、作曲された当時と同じチューニングで曲を聴くと、平均律に慣らされたぼくらの耳には調子っぱずれに聞こえる。 また音色やダイナミクス、テンポも、当時とは異なることが分かっている。) 別に古典音楽の時代まで溯らなくても、ビートルズだって、ほんの数十年前には騒音だなどと言われて耳を塞がれていたのだ。 今ビートルズの曲がラジオから流れてきたら、和んでしまうくらいだけど。 音楽に対する価値観というのは、驚くくらい急速に変わってしまうもので、100年前の人にビートルズを聴かせて、その良さが分かってもらえなくても、それはそういうものだ。 仕方ない。 ぼくらは「音楽」という言葉から知らず知らずの内に、ベートーベンやビートルズなどの限定された時代、地域のメロディーを想起してしまっているのではないだろうか? しかし、音楽は、そんなに単純なものではない。 「音楽は世界共通語」「音楽は普遍」という安易な認識は、捨てなければならない。 ―――――― ○ ―――――― ○ ―――――― ○ ―――――― あるメロディーが普遍的なものでは無いならば、それを聴いて良いと思ったり悪いと思ったりする時に、拠り所とする価値観(基準)は何処から来るものなのか? それは自分達を取り巻いている環境だ。 普段どんな音に囲まれているかということだ。 そして自然や歴史、宗教、文化的な環境も価値観の拠り所になる。 住んでいる環境や、ライフスタイルから、それぞれに異なるリズムやメロディが生まれてくる。 具体的に言うと、砂漠で手に入る材料で作る楽器の音色と、砂に吸い込まれていく響き、山で手に入る材料で作る楽器の音色と、山々にこだまする響きは、異なる。 また、田植えの歌と、狩りの歌では、自ずとリズムも旋律も違ってくる。 日本の伝統的な歌やリズムは、自然、気候、風土、四季の移り変わりなど、日本を取り巻く環境や、そこで暮らす人々の生活様式からの影響を強く受けている。 そして、そんな中から生まれてきた童謡やわらべうた、祭囃子、盆踊りや、法事で聞く僧侶の読経。 日本で生まれ育ったぼくらは、そういった様々な音を、長い年月をかけて耳に染み込ませてきた。 ぼくらには、日本人として先祖代々受け継いできた感性が自然に具わっている。 小学校の頃、京都へ観光して、有名な日本庭園を見学したことがある。 美しい庭園だと聞いていたので、どれほどの物かと期待していたら、砂を綺麗にさらった上に、石がぽつんぽつんと無造作に置いてあり、遠くに何本かの木が生えているだけ。 ぼくは「美しい庭園」という言葉から、綺麗に刈り込まれた生け垣や、見事な噴水があって、バラが咲き乱れているような、西洋的な壮麗な庭園を思い浮かべていたので、日本の文化はなんて貧乏くさいのだろうと感じてしまった。 しばらく経ったある時、日本びいきの外国人を紹介するテレビ番組(たぶん「なるほど・ザ・ワールド」だったと思う)を見た。 随分昔のことなので内容は詳しく憶えていないが、外国人が部屋の中に屏風を飾ったり、扇子を集めていたりするのは、素直に嬉しく、ちょっぴり誇らしくもあった。 ところが、彼らが作ったという日本庭園の映像を見た時、非常に強い違和感を感じたのだ。 一応、砂利が敷き詰めてあって、松が植えられており、燈篭や鹿威しなども並んでいたのだが、その配置というかバランスが、なんとも下品というか、風雅な感じが全く無いのだ。 ただそれらしい物をゴタゴタと並べてあるだけで「間」がないし、雑然とした雰囲気で、なんだか見るに耐えない。 これと比べると、ぼくが京都で見た庭園を思い出してみると、一見何も特別な物は無いが、凛とした緊張感のある空気がその空間には漂っていたように思えてきた。 空間そのものが、何か肌がピリピリするような、心が引き締まるような美しさを発散しているとでも言えば良いか。 その時、バラや噴水のような、派手で分かり易いものはなくても、美しいと感じるものがあるということに気付かされたのだった。 つまり外国人が作った日本庭園のお陰で、本物の日本庭園の良さを知ることができたのだ。 日本庭園には、西洋の絢爛たる庭園とは、全く違った美しさ素晴らしさがあるのだと。 それ以来、自分には日本人ならではの繊細な美意識が刷り込まれているのだという事を強く意識するようになった。 後に、武満徹が自分の音楽を日本庭園になぞらえているのを読んで、やっぱり感じる所は同じなんだなぁと思った。※注4 そのような空間に対する美意識や、間の概念は、音楽にも当て嵌まる。 例えば武満のオーケストラは西洋の語法で書かれているのに日本的な佇まいがあるのは、きっとあの間がそうさせているのだ。 日本人には、鹿威しの竹が鳴る間隙の沈黙を聴くことの出来る耳を持っている(かつては持っていたと言うべきか…)。 ちなみに雅楽は、元々は大陸から来たものだが、あの独特の張り詰めた間は、日本に入ってから研ぎ澄まされたに違いないと、ぼくは思っている。 音楽に関するセンスは、国や民族などに依って全く異なる。 そのセンスとは、自然、環境はもちろん、そこに暮らす人々の暮しや歴史を背景にして、長い年月をかけて形作られてきたものだ。 音楽が普遍でないが故に、ぼくは、そのそれぞれに異なるセンスを非常に重く考えている。 ―――――― ○ ―――――― ○ ―――――― ○ ―――――― 今でこそ、他の国の人と違う独自の感性を持っているということは、とても貴重で素晴らしいことだと思うのだけど、子供の頃は、それが理解できなかったり、その独自の感性を却って邪魔なものに感じたりすることが良くあった。 個人的な昔話だけど、ぼくは高校の頃に、音楽好きが昂じて作曲を始めたのだが、当時の音楽雑誌には「日本人ではこのグルーヴは出せないね」とか「日本人のブルースには魂が感じられない」とか、極端なところでは「所詮偽物なんだから、日本人はジャズやるな」なんて意見もあった(今でもこういう事を言う人はいるけど)。 ぼく自身、友達に「やっぱ”日本人の壁”って有るよね(←アホか!)」なんて言ってみたりして、日本人のミュージシャンを蔑む事によって、さも自分の耳は肥えているとアピールしたようなつもりになっていた。( 考えてみれば、自分だってれっきとした日本人なわけで、随分妙な話である。) もちろん欧米とは言葉や文化が違うから、彼らの歌をカバーしても、リズムの感じ方や、歌い方が異なってくるのは当たり前だ。 日本の歌謡曲やポップスが、洋楽をベースにしたものである以上、それらが贋物くさく響いてしまうのは、ある意味仕方が無い宿命ではある。 しかし、その頃は本当に日本人であるというだけで、音楽的には何をやっても駄目なような気がしていたのだ。 例えば、アメリカの黒人にとってのブルースのような、魂を揺さぶるような、心の底から湧き出てくるようなリズムやメロディは持っていないんじゃないかと。 今にして思えば、このような卑屈な子供になってしまったのは、日教組の影響が大きかったんじゃないかと思っている。 ぼくの生まれ育った町は、日教組の力が強いことで有名なのだ。 彼ら(日教組教師)のやり方を全否定するわけではないが、もっと日本人として誇りを持てるような教育をして欲しいものだ。※注5 さて、そんなある時、近所の幼稚園の前を通りがかると、「おっとこの中に、お〜んながひ〜とり」という囃しうたが聞えてきた。 ああ、まだこんな囃しうたが残っているんだなぁと、感傷に耽りながら聞いていたら、子供たちは続けて「よ〜しこちゃんを、な〜かした〜(←たぶんこんな感じだけど記憶曖昧)」という風に、言葉に節を付けて歌い始めた。 どんどん新しい言葉にメロディーを付けて、歌い継いでいく。 その頃ぼくは作曲に熱中していたので、このような囃しうたを作るのも作曲の内に入るのかなぁ…、なんて考えながら歩いていた。 そういえば、ぼくが子供の頃にも、クラスに一人はこんな感じで適当に歌を作るのが得意な子がいたし、自分でも即興でこのような囃しうたを作って友達をからかったり、学校帰りに何となく思い付いた単語に節を付けて歌いながら歩いたりしたなあ、などと思い出に耽っていた。 ふと、ぼくらが子供の頃に唄った即興的な歌も、さっき幼稚園で聴いた囃しうたも、なんだか節回しがとても似ていることに気がついた。 何なんだ、この不思議に耳に馴染んだ懐かしい調子は? そうだ、これらは全て日本の童謡やわらべ歌と酷似しているじゃないか! その時、ぼくは自分の中に流れる日本人としての血を強く意識したのだ。 自分の中には、既に力強いリズムやメロディーが流れており、しかもそれは欧米の音楽とは異なる東洋的なものだった。 このメロディーが、日本の環境の中で、長い年月をかけて祖先から伝えられてきたことを思うと、これは胸を張って誇れるものだと確信した。 ―――――― ○ ―――――― ○ ―――――― ○ ―――――― もちろん日本人だってクラシックやジャズやロックを演奏したりする訳だけど、ただひたすら西洋人のように弾きたいとか、黒人のように弾きたいというスタンスは、いわば最初からモノマネ芸人を目指しているわけで、真摯な音楽家のとるべき姿勢では無いように思う。 日本人は、西洋人が真似しようと思っても出来ないような、とても繊細な感覚を持っているのだから、それを活かすような表現を目指した方が良いんじゃないだろうか? 話がジャズのことになってしまって分からない人には申し訳ないけど、白人ジャズピアニストのビル・エバンスは、最初は黒人たちのコピーから始めたものの、後にドビュッシーなどの印象派的な響きや旋律をジャズに取り込んで、「黒人らしくない」素晴らしい演奏を遺し、新しい価値観を創造した。 チック・コリアは、超一流のジャズ・ピアニストでありながら、「ぼくはラテン系だから、ぼくのブルースは本物じゃない」と告白しているが※注6、彼は逆にそれを前向きな方向で活かしており、ラテンのリズムを大胆に取り込んだり、バルトークの方法論を援用したりして、素晴らしい音楽を作り続けている。 もしも彼らがチャーリー・パーカーやらコルトレーンやらのコピーにのめり込み、ジャズの伝統の中に閉じこもってしまっていたなら、あれほど感動的な演奏は出来なかったし、いわゆる"ジャズ"も旧態依然としたままで、進歩は無かった筈だ。 もちろん”ジャズ”というレッテルのついた音楽をやるからには、先人へのリスペクトや研究は必要だが、その”ジャズ”というスタイルの中で、本当に自分に正直で真摯な表現がしたいのであれば、エバンスやチックのように、自らの背景にあるものを表出させなければ、その表現は上辺だけのモノマネになってしまうのだと思う。 ―――――― ○ ―――――― ○ ―――――― ○ ―――――― 元来日本人が持っているセンスは素晴らしいものだし、外国人に対して胸を張って誇り得るものだ。 もちろん伝統はしっかりと守っていかなければならない。 しかし、だからといって今から日本の民謡や伝統芸能をお勉強しましょうか、というのもちょっと違うような気がする。 何故なら、日本の伝統音楽などは、既に身近なものでは無くなってしまっているから。 ぼくらは、毎日浴びるようにテレビから流れてくる流行歌やドラマのBGM,CMソングなどにも取り巻かれている。 それらの大半がいわゆる「洋楽」だ。 ぼくが物心ついた時には、テレビやラジオからビートルズやマイケル・ジャクソンなどが当たり前のように流れていたし、日本の歌謡曲だって洋楽の影響を色濃く受けている。 幼少時から慣れ親しんだこれらの音楽を否定するのは不自然だ。 寧ろ実際は、ぼくらが音楽を聴く時は、洋楽を聞いて培ったセンスを価値判断の基準にしていることの方が多いだろう。 繰り返しこれらを聴くことにより、音楽に対するモノサシがつくられたのだ。 しかしひとつ気にかかる点は、日常生活の中で、おそらく最も頻繁に耳にするであろうポップスの類が、商業主義の産物であることだ。 分かり易いので何度もビートルズを引き合いに出すが、彼らがアメリカで評価されるきっかけを作ったのは、有名な「エド・サリバン・ショー」というテレビ番組だ。 音楽のヒットと、コマーシャルは切っても切れない関係にある。 ビートルズのヒットの影には、彼らを商業的に売り出そうと狂奔した人々の存在があるのは言うまでもない。 ビートルズだってコマーシャリズムと無縁ではないわけだ。 冷たい言い方をしてしまえば、名曲というものは、それが名曲だからヒットしたのか、ヒットしたから名曲になってしまったのか、判断が難しいという側面もある。 例を挙げると、誰にとっても小学校や中学校の校歌は想い出深い筈だけど、それらの多くは平凡な音楽教師や地元の無名の作曲家などによって作られたもので、曲としての完成度は低いかもしれない。 しかし校歌はそれぞれの個人にとってかけがえのない名曲となる。 これを敷衍すれば、たとえ平凡な曲であってもテレビやラジオで繰り返し放送して、大衆にメロディーを浸透させられれば、名曲としてヒットしてしまうことになる。 何度も繰り返し聴くことになる人気ドラマの主題歌などは、自動的にヒットするシステムになっているわけで、歌手がドラマとのタイアップを狙う理由もそこにある。 現に平成のミリオンセラーはほぼ全てドラマ主題歌だ。 そして「売れた音楽」で大衆の耳は作られる。 結局、感性とは、(こと音楽に関してはとりわけ)先天的に具わっているものでは無く、後天的に作られるものだ。 その感性を作る源は、かつては自分を取り巻く自然や民族の伝統であったが、今ではマネーのパワーがそれらを遥かに凌駕してしまった。 現代を生きるぼくらの感性は、商業主義によって拓かれたものであり、そしてぼくらの感性を均一化させた商業主義の背後には、アメリカ(西洋というより、アメリカという方が適切だろう)の存在がある。 悲観的な観測かもしれないけれど、上に書いた通り、日本人は独自の繊細なセンスを持っているが、現在の音楽界を見る限りでは、どんどんアメリカ的な価値観に侵食されて、やがては日本的なメロディーやリズムは消えて行くのかもしれない。 ただ、ぼくとしては、経済力や情報力で切り開かれた感性よりも、日本人として先祖代々受け継いできた自然な感性の方を大切にしたいという強い思いがある。 ぼくが小学校の頃くらいまでは、今よりももっと日本の伝統的なリズムや旋律に親しむ機会が多かったように思う。 幼稚園や小学校では、古い唱歌などを歌わされた思い出があるし、夏になると盆踊り大会で「アラレちゃん音頭」やら「パタリロ音頭」やらに合わせて踊ったもんだ。 このあいだ近所であった祭りでは、モーニング娘。や宇多田ヒカルが流れていた。 最近のアニメは知らないけれど、今では夏場に終わりの歌が「〜音頭」に変わることは無いんじゃないかな? 本来なら幼稚園や小学校の時に、しっかりと日本の伝統音楽などについて教えるようにするべきだ。 しかし、今更子供にハンガーバーガーを食べるのは止めなさいと言ったって無理な話だし、音楽に関しても、この西洋化の勢いは止められないだろう。 先にもしつこく書いているとおり、音楽に対する価値観は流転していくものだから、これはもう仕方のないことだと思う。 ベートーベンを聴いて「なんと斬新な!」と感じる人がいないのと同じ事だ。 そんな趨勢の中で、何か核となるような、やっぱり自分は日本人なんだと認識できるような優れた曲があるのだろうか? その曲がことあるごとに繰り返し歌われるような、そして日本人として皆が愛着を持ち得ることができるような曲があるだろうか? …そう、「君が代」だ(やっと出てきた 笑)。 君が代は、雅楽調で作られている。 作曲されたのは明治に入ってからだが、由緒正しい方法に則って作られており、そのメロディーは、日本の歴史の重みを強く感じさせてくれる。 オリンピックなど国際的な大会で聴くと、西洋音楽に馴染んだ耳には、異質で、あまりに荘厳に響くかもしれないけれど、だからこそ自分が日本人であることを強く認識できるわけで、そういうところも素晴らしい。 また、君が代の歌詞は、古今集から採られた非常に歴史のあるものだ。 そもそも俳句や和歌の 5・7・5、5・7・5・7・7 というのは、字句の数を言っているのではない。 言葉のリズムを指しているのだ。 たまに日本人はリズム感が無いなどという変な意見を聞くことがあるが、これほど言葉の持つリズムに繊細な感覚を持つ民族は稀だろう。 リズムの感じ方が西洋人と異なるというだけで、元来日本人は研ぎ澄まされたリズム感をもっていたのだ。 ここは音楽について述べるページなので、あえて詩の内容にまでは踏み込まないけれど(もちろん詩も素晴らしいものだと思う)、日本人の鋭いリズム感覚を後世に伝えるものとしても、歌詞が和歌から採られたということの意義は大きい。 日本で今まで大事に伝えられてきた伝統的なリズムや旋律などは、日本の自然や風土、人の暮らし方など、あらゆるものを反映したもので、出来る限り守っていかなくてはならないものだと思う。 そして「君が代」には、そういったものが込められている。 今後も音楽に対する価値観はどんどん更新されていくのだろうし、一方で伝統的なメロディーやリズムはどんどん失われていくのだろうけど、日本人が日本人らしい感性や価値観を具えている証左として、せめて君が代だけでも、ずっと大切に歌い継いでいきたい。 日本人にとって、「君が代」は最後の砦となるのかもしれない。
(20010707) ※注
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