文教都市の虚像・豊中の教育

平成12年11月14日から11月23日まで6回にわたって産経新聞に連載されました。



【豊中の教育】(1)
●体質改まらぬ市教委 次から次へと問題表面化 [2000年11月14日 東京朝刊]

 大阪府北部にある人口約四十万人の豊中市は、教育熱心な土地柄で知られる。現在でも、社員の子供の教育を考えて社宅を設ける大企業が多い。が、実際に行われている学校教育に対して、疑問の声があがりはじめた。「文教都市」のイメージの裏で、なにが行われているのか。
 「豊中の教育は『どこか変だ』と思っていた市民や市議は多い。その長年のウミが一気に噴き出しつつあるようだ」

 大阪府豊中市で十月十三日に開かれた市議会文教常任委員会。委員の一人で新政とよなか(旧民社)所属の北川悟司市議は、委員会でのやりとりをこう振り返った。

 主に取り上げられたのは、市教委による学習指導要録の形がい化指示や一律評価の記載▽高学年の通知表の二段階評価▽テストに点数をつけない−などの小学校の学習評価の問題。

 さらに、「豊中市教職員組合」(豊中教組)による主任制反対活動▽今春の小学校の入学式で、国旗・国歌に反対する新入生担任の男性教員が式を欠席し、加入する「大阪教育合同労働組合」(教育合同)の活動で別の学校を訪れていた−という組合員らの問題も、新政とよなかのほか、公明、共産の市議らが会派を超え、繰り返し市教委の責任や対応を追及した。

 豊中では過去たびたび、学校教育法や学習指導要領を逸脱するような教育内容が表面化してきた。

 平成九年には、一部の小学校で「国語」の授業名を「日本語」と言い換えていたことが判明し、市教委が指導。昭和五十九年には、ある小学校で、音楽の教科書の「君が代」のページに、北朝鮮の民衆歌「白頭山」の楽譜を張りつけて二年生に歌わせ、六年生の社会科で「戦争では日の丸が悪魔のシンボルのように恐れられた」などとしたプリント授業が行われていたことが問題となり、校長が教諭に降格された。

 北川市議は「市教委は、こうした問題を解決してきたように見える。しかし、実際にはもぐらたたきのように新たな問題が起きる。根本的に対応してこなかったからだ」と指摘する。

 市民の意識も、変わってきた。公明の佐野満男市議はこういう。「(評価の差のない)通知表や点数のないテストは『いまどきは、そんなものか』と思っていた保護者がほとんど。しかし、新聞や市議会で取り上げられて問題点を指摘され、『これでいいのか』という声が次々と聞こえてくるようになった」


【豊中の教育】(2)
行き過ぎた“平等” 「順位づけしない」徒競走 [2000年11月15日 東京朝刊]

 「オリンピックの金・銀・銅メダルは差別の象徴ですか」
 大阪・豊中市の九月議会文教常任委員会でこんな質問が飛び出した。質問者は、公明の佐野満男市議。

 「これぐらい言わないと豊中の行き過ぎた“平等教育”には待ったをかけられないと思った」

 佐野市議が問題としたのは、徒競走にまったく順位をつけない小学校の運動会だ。豊中では、ゴールインの順番を書いた「等旗」が、四十一の市立小学校すべてで使われていない。

 佐野市議は、等旗が使われる徒競走やリレーで盛り上がる中学校の運動会と対比しながら、等旗の復活を各校に働きかけるよう市教委に迫った。

 市教委によると、小学校運動会での等旗は、昭和五十年代前半に消滅した。「友人と競うことを避ける」「順位づけをしない」などが理由だったという。

 まったく同じ理由で、豊中の二十八の市立小学校では、高学年でも二段階評価「よくできました=◎やA」と、「頑張りましょう=〇やB」の通知表が使われている。そのうえ、ほとんどは「◎」だ。

 佐野市議は、市などが依頼する啓発ポスターへの応募状況も取り上げ、「『表彰が差別感を植え付ける』などの理由で受け付けない学校があるのでは」と指摘し、「教育を均等に受ける権利を奪っている」とまで訴えた。

 「差別」というと大げさなイメージもあるが、こんな現場の実態を証言する教員もいる。

 「『競い合いや順位づけはダメ』という方針に異を唱えようものなら、『差別だ』とつるし上げのように批判を浴びてしまう。反論を許さないような雰囲気がある」

 二年前、ある小学校のPTAでは、保護者が「運動会が活気に欠ける」「一位になっても評価されないのはおかしい」と等旗の使用を提案したが、学校側に無視され、以後、年度が替わるまで険悪な関係だったという。

 十月十六日に開かれた校長会議では、文教委での等旗や通知表の議論が紹介され、市教委幹部から「一つの考えだが」と前置きして、こんな発言もあった。

 「できることを認めてくれるだけでなく、できていないことを見逃さず指摘する人を子供たちは求めているのでは。厳しいものでも教師が見捨てずに自分を高めてくれると信じれば、子供たちは受け入れてくれると思う」


【豊中の教育】(3)
激しい組合活動 現場から失われた情熱 [2000年11月16日 東京朝刊]

 「連日連夜、分会(組合の学校単位の組織)で校長と交渉。午前三時ごろまでやったこともあった」
 大阪府の豊中市立学校のベテラン教員は、昭和五十年代の学校現場をこう振り返る。当時「主任制」導入をめぐって日教組加盟の豊中市教職員組合(豊中教組)が激しい反対闘争を繰り広げていた。

 日教組は、勤評(勤務評定、昭和三十二−三十四年)や学テ(学力テスト、三十六年以降)など大規模な反対闘争を展開。五十年末に学校教育法施行規則が改正され、文部省が翌年、三月からの実施を通知した主任制も対象になった。

 折から豊中では、近くの千里丘陵を会場にした万国博覧会開催(四十五年)に伴って宅地開発が進み、人口が急増していた。教員を大幅に増やす必要に迫られ、全国各地から集められた。その中に「70年安保」や「全共闘運動」で高揚していた学園闘争の活動家もいた、という。

 「イデオロギーに染まってない短大卒業生も積極的に採用されたが、組合のオルグにあうと、ひとたまりもなかった」と元校長の一人。

 豊中教組が勢力を拡大し、闘争的性格を強めていたなかで、主任制闘争は始まった。

 市教委との団体交渉には大規模動員をかけ、夜を徹した。学校内では、校長をつるし上げる怒声が日常的に響き、職員室には横断幕が掲げられた。組合員が校長と全く話をしない、あいさつもしない“無言闘争”で、組織率がほぼ一〇〇%の組合の前に孤立無援となり、定年を待たずに退職した校長もいた。校長室から校長を追い出して談話室のように使った教員もいたという。

 「組合活動に明け暮れた結果、教育への情熱が現場から失われていった。いまでも意欲的な教員はいるし、平和教育や人権教育にはおおむね熱心だが…」

 複数の学校関係者は、こう口をそろえる。

 昭和四十年代まで、豊中の公立学校は「教育の質が高い」と評判だった。市教委の指導主事チームが学校を訪れる授業指導もひんぱんに行われ、特に新人研修は、教員らが泣き出すほど厳しかったという。「こうした授業研究は教員の命だが、最近まで、指導主事の研修訪問も拒否するような状態。校内での研究発表もほとんどなく、あっても教員間で傷をなめあうようなレベルでしかない」と、ある教員はいう。

 府教委幹部は「かつて、他府県から来た教育視察団の行き先はいつも豊中というほど、熱心に先進的な取り組みをやっていた。いまは、視察団を案内することはまずない。文教都市として知られた面影はなくなった」と話している。


【豊中の教育】(4)
校長権限はく奪 ステージに上げぬ卒業式 [2000年11月17日 東京朝刊]

 大阪府豊中市の多くの市立学校には、「常識はずれ」(元校長)の慣習が数年前まであった。
 卒・入学式や各学期の始・終業式には、午前中で勤務を終え、午後からは“自宅研修”という名目で教員が学校を離れる。“自宅研修”という制度はなく、研修にも本来は校長の承認が必要だが、その手続きもとられない。通常の勤務日でも、“自宅研修”というだけで早帰りが許されていた時代もあった。

 残業があれば“回復措置”として後日、早帰りを要求する。回復措置が公式に認められているのは、修学旅行や体育祭などの学校行事が休日

にあったときなどに限られているが、無断“自宅研修”とあわせて、まかり通ってきた。

 豊中市教職員組合(豊中教組)による激しい主任制反対闘争の影響で、それぞれの学校現場から校長権限がはく奪されていったことが、大きな要因だという。ある元校長は「中間管理職ともいえる主任制は、職場に差別と分断を持ち込むというのが組合の主張。『民主的な学校運営』を実現するとして、学校構造の単層化を目指した組合の力に抗しきれず、校長の力がなくなっていった」と話す。

 「学校構造の単層化」とは、校長ら管理職も教員も子供たちも「平等」という論理だ。

 今年三月。全四十一小学校のうち十四校、十八中学校のうち十一校で、ステージを使わず、管理職、教員、児童・生徒、保護者ら参加者全員がフロアに並んで式次第を進める「対面式」とも「フロア形式」とも呼ばれる形の卒業式が行われた。

 「フロア形式は『子供が主役(主人公)』という名目のもとで行われているが、その陰に、校長権限を認めず、校長を『ステージに上げたくない』『高いところに立たせたくない』という組合員らの主張がある。卒業式では国旗・国歌だけでなく、こうした実施形式をめぐっても校内で議論される」と、ある教員。

 「卒業証書授与式」という名称をめぐっても、「『目上の者』(校長)が『下の者』(子供たち)に与えているという意味だ」として、「授与」という言葉の削除を要求する教員らもいる。

 また、昨年度は四小学校、中学校は全十八校の通知表に校長印欄がなかった(本年度は小学校二校)が、これも「校長の印鑑は不要」という教員らの主張によるという。

 教育課題が山積し、校長のリーダーシップによる学校改革が求められる時代。豊中の学校現場は変わっていけるのだろうか。


【豊中の教育】(5)
元校長の嘆き 市教委自らが組合と妥協 [2000年11月22日 東京朝刊]

 平成七年春。大阪府豊中市のある小学校で、入学式での「国旗・国歌」の実施をめぐって校長と組合員が激しく交渉している最中、組合員がどこかに電話をかけた。数分後、当時部長職だった現在の市教委最高幹部から電話が入り、校長に「前校長なみで」と注意した。「前校長なみ」とは、教員の妨害の中で国旗を揚げる“努力”をし、実際には揚がっていないのに「掲揚した」と市教委に報告することだった。
 この校長は「実際にあったこと」と認めたうえで、「組合員に話した言葉がそのまま市教委に伝わっていた」と話す。

 教職員組合の「学校の民主化」運動で、校長権限が形がい化されてきた豊中の市立学校。「組合の力が強いという理由だけでは、校長権限が骨抜きにされることはないでしょう」と元校長の一人は言う。

 「市教委の指示事項を実施しようとして、組合員の反対にあう。それでもやろうとすると、市教委が『そこまでしなくても』。校長からすれば『はしごを外された』状態だ」

 今年二月、別の小学校で国旗を降ろした男性教員が停職一カ月、栗原有史・教育長ら市教委幹部が「問題解決を遅らせた」として処分を受けた。

 この教員は、平成十年春の卒業式と入学式当日、校庭に掲揚されていた国旗を無断で降ろしたうえ、校長印のない通知表を担任学級の児童らに配布した。このため、校長が全児童宅を回って印鑑を押す事態になった。

 市教委は校長ら学校側の報告をもとに教員を事情聴取しようとしたが、教員が加盟する大阪教育合同労働組合の組合員ら数十人が押しかけたため、当時の市教委幹部は組合側と「本日の聴取はペンディングにする」などとする覚書を交わし、市教委はその後、調査を打ち切った。

 ちょうど同校の新年度PTA役員を決める時期で、学校側はこの教員を「書記」とすることを決めたが、府教委の調べなどによると、教員は、国旗問題以外にも平成九年から十年にかけ、男児のしりをかんだり、児童に再三体罰を加えたりしており、不信感を募らせていた保護者側は教員の役員就任を再三、拒否。にもかかわらず、翌十一年三月、教員は「学校代表」という肩書で学校と保護者の窓口になった。

 学校関係者は「迅速に処分してくれたら男性教員がPTAの役職につくことはなかった。覚書は知らなかったが、校長はこの教員を抑えることができなかったようだ」と話している。


【豊中の教育】(6)
進路保障委員会 中学校ごとに“割り当て” [2000年11月23日 東京朝刊]

 「教育の機会均等を守り、進路における差別と選別をなくし、全教育活動を総点検するとともに、一人ひとりの未来への進路を保障する」
 大阪府豊中市で、「地元高校を育成する」「高校間の(学力)格差を解消する」目的で、中学校ごとに各府立高校の受験者数の「目標・限度数」の“割り当て”を示していた「市進路保障委員会」(進保委)。その規約の第一条で「なくす」とされた「選別」には高校入試も含まれる。

 進保委の役員は、豊中市の市立小・中学校長や市教委、教職員、全教職員の研究組織「市同和教育研究協議会」の各代表が務め、活動費も市教委から出ていた。こうした“準公的組織”が、高校入試自体を否定するような目標を掲げるのはどうだろうか。

 進保委現会長の喜多忠政・市立第十一中学校長は「入試の全廃を狙った運動ではないと思うが、『選別』という言葉が適切だったかどうか…」と言う。

 “割り当て”は約二十年前から行われ、市内や近隣に新設された地元校を「育成」し、一部の学校の志願倍率が極端に高くなって大勢の不合格者が出るのを防ぐことが大きな目的だったという。

 「育成」とは、定員割れを防ぐこと。「倍率が定員割れするのと、たとえ〇・〇一ポイントでも一倍を超すのとでは、生徒たちの活気がまったく違う」(学校関係者)からだが、「まずは教職員や生徒の努力。かつて府内の別の地区でも『地元の高校に進学しよう』という運動があったが、高校側が『何もしなくても生徒がくる』とあぐらをかいてしまう弊害もあった」と話す府教委関係者もいる。

 「目標・限度数をもとにした強制的な進路指導はなかった」と市教委や進保委は強調するが、複数の中学校教員によると、実際にはない高校との「姉妹」関係を持ち出したり、「高校間格差をなくしたい」という思いから、より難易度の高い学校に合格できる学力のある生徒に「校内で成績上位でいたほうが伸びる」と言ったりして、“割り当て”の多い地元校の受験を勧める教員もいるという。

 昨年度、東豊中高校の“割り当て”と実際の受験者数が「0」だった中学校の今年の三年生の保護者は「昨年も東豊中を受けたいという子はいたんですが、どんな指導があったのでしょうか。少しでも難易度が高く、大学進学や就職実績のよい高校に行きたいと子供も保護者も頑張っていますが、その気持ちを裏切るようなことはなかったのでしょうか」と不信感をもらす。

 “外”の世界には通用しない『理想』を掲げ、実践する。進保委の“割り当て”は、そんな豊中の学校現場の空気を象徴しているようだ。

 (おわり)


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※この資料は「教育オンブット豊中」の旧サイトより転載させていただきました。(よ)