【田辺幸男プロフィール・書評】

HOME > 田辺幸男プロフィール・書評

私は1933年東京都生まれで、学生時代は新潟市、長岡市で育ちました。
やがて、光学機械製造のセコニックに入社し、長野県塩尻市の工場で表面処理技術を担当しました。
その数年後、硬質クロムめっき技術をを生かしてホンダに入社して、めっき、塗装、および環境管理の専門職を勤めて来ました。
趣味は学生時代からサイクリングで、峠越えに挑戦していましたが、1965年頃から鉄道写真の仲間に入りました。
日本のSLの終焉を機会に、浦和市で「蒸気機関車 日本縦断」の写真展を開催しました。
また、1977〜1982年まではアメリカ工場の建設に従事しておりましたので、アメリカでのSL写真を撮影することに恵まれました。
残念ながら定年を間近に迎えた頃に失明に見舞われ、自分史の執筆に専念する日々が続きました。現在は透析治療も行っており、日常生活は規則正しくを強いられて居ります。
最近のコンピューター技術の発達のお陰で視覚障害者の生活も大変に楽しく過ごすことが出来て喜んでおります。
私が今持っている記録を是非同好会の方々にご覧になって頂く機会を何とか提供したいとホームページを立ち上げました。
宜しくご支援をお願い致す次第です。

2007年9月 田辺幸男

自分史への書評

日刊工業新聞/自動車工業欄

(平成15年2月6日木曜日掲載)

「失明乗り越え"ホンダの文化知ってほしい"」
  • ホンダの元主任技師の田辺幸男さん(69)は退職後に失明したが、「ホンダの企業文化を多くの人に知ってもらいたい」の一心で点字を習得し、点字でパソコンの操作をマスター、そしてパソコンを使って一冊の本を書き上げた。
  • これが「東西自動車塗装スケッチ、自分史への試み(ホンダの塗装技術と共に30年)」。アニオン電着塗装から水性ベースコートと自動車塗装一筋で生きてきた田辺さんが、ホンダを中心に自動車業界の塗装の歴史を紹介した物。
  • 「執筆は大変と云えば大変だったが苦にはならなかった。活字になっていない本田宗一郎エピソードも織り込んである。是非読んでもらいたい」とPR。
    (新聞切り抜き終了)

「塗装技術」誌の「エディターズシップ」

(2003年6月号所載)、発行人 小柳行正さんのコラムから

  • 日本デビルビス(株)の社長(現・旭サナック(株)常務取締役)だった金子以伸氏が、本田技研名工業の粉体塗装の取り組みに社運を賭けてチャレンジしていたころの知見から、当時、技師長だった田辺幸男氏が写真が趣味で、4年間の北米駐在中にアメリカ大陸を大西洋から太平洋に横断するSLの写真を撮影して、その写真のネガフィルムを沢山持っているという話を耳にしたことがある。その金子以伸氏の情報が奇縁となって、田辺幸男氏との20年近い交遊が芽生えたのである。
  • 当時、本誌の表紙の素材に苦労をしていたものだから、一瞬、表紙の題材として使えないものかとアイデアがひらめいた。そこで撮影したフィルムを持参してもらって拝見したところ、素人芸としては見事なものであった。そこでフィルムを何十枚か借用して、その中から選択させてもらった。問題は表紙のことば、これは技術論文と異なってセンスが物を言うので、文章の表現はこちらにまかせて、骨子だけを書いてもらうということで、1990年の4月号から本誌の表紙に登場した。カメラアングルが秀逸で、アメリカ大陸の洋々とした風刺をうまくとらえてあって、いま思えば楽しい仕事であった。
  • この2年間の楽しい御縁があって、1994年1月号から2002年3月号まで、86回という自分史の長期連載に進展するのである。本田技研工業の技術士として37年余を一貫して表面技術の進歩に貢献し、現場の専門職として巷間にうかん)ホンダの天皇と敬称され、その存在感は知る人の知るところであった。ホンダの技術の生き辞引きとしての実績と足跡は輝かしいものがあり、これが後世に残しておくことは、ジャーナリストの責務でもある。そこで自分史の執筆を提案することになったのである。
  • 当時、すでに目が不自由であり、自由自在に原稿が書ける状況にはなかった。毎日、5時間のリハビリに通いながら、その後は自分史執筆に精進した。この不自由な体で精進する姿に強い感銘を受けた。その執念の力強さに敬服させられた。86回という長期連載に異議を唱える声もないではなかったが、この不屈な生きざまを信じて見守ってきたものである。
  • 4月20日、田辺幸男氏から次のような内容のお手紙をいただいた。
    「貴誌に長期にわたって連載させていただきました私の自分史を残余の三部を補筆して自費出版することになりました。本の製作は地元の印刷屋に委せることとして、すべての文章を改めて版を起こすことになりました。最終的に上・下2巻の560頁となってしまいました。貴誌に航行区を掲載させていただいたお陰で、一般の方々からも100件余ほどの申し込みを受けており、喜んでおります。4月中旬には完成するものと期待しております。末尾ながら、この度の仕事で原稿の校正を妻と共に行いましたが、本の出版の難しさを思い知らされました。今まで連載中は漫然とながめていたのですが、この度は貴社の苦労が身にしみております。」
  • 自分史は技術の話が核である。そうは分かっていても釈然としないところもある。文章の綾(あや)で読ませる工夫が足りないのである。たとえばアメリカ駐在中のスケッチ。読者にすれば興味あるところだが文中にはあまりふれられていない。空白になったままである。人間の生きざまとしての感銘が希薄な点も文章全体を平板なものにしている。もっと裸になって技術者の生きざまを書くことで読者に感銘を与えるのである。たとえば失明へのいきさつと、この間の精神的な心のありようなどもふれられていない。30年余の人生の喜怒哀楽を語るべきであって、それが自分史というものである。読者はそれを期待していたのである。
  • 正直に申し上げると、編集子の手許には第10部・自動車王国アメリカに生産拠点を築く、第11部・バブル経済時代の高質外観塗装の追求、第12部・水性ベースコート塗装による国際展開の原稿がすでに入手ずみであった。これまでの文章の流れが先になり、後になったりで、どうも同じような内容が繰り返されていると思われる箇所が目に付くようになった。これでは読者も文章のマンネリを強く感じるようになって、編集子も読者の目に散漫な印象を与えることになることを強く意識するようになった。そこで、そろそろ完結することを考えていたところ、2002年3月号の最後で、このプロジェクトの終了から間もなく私の視力が急激な低下の危機に遭遇し半年の休職を経てホンダの定年を迎えることになったと述べており、ここで連載終了にはいい機会だと思って、田辺氏にはせっかくの原稿をいただきながら、86回でピリオドをうつことにした。
  • したがって、このたびの自費出版には未掲載文の第10部、11部、12部の原稿を付加して上・下2巻254ページと膨大な物になっている。完全な自分史としては欠落している面は多々あるとしても、34年間の表面処理の技術者としての一面は十二分に伝わるのである。省みで悔いのない立派な生きざまであったことは、86回の連載を通じて理解できたことと編集子は確信している。
  • 80年代の表面処理の画期的な進展がなければ、今日の自動車産業の発展は約束されなかったことである。クロムめっき技術から出発して水性ベースコート塗装で開花させるまで、一貫して表面技術の進展に現場技術者として歩んで来た歩調は、この一冊に見事に結実しているのである。とまれ80年代から90年代のイノベーション時代に、技術者として大きな夢をつぐいできた貴重な著述として一読をすすめたい。
    (K)

3:「経営通信」

(Vol65 62-003所載)

経営コンサルタント Q&A研究所 伊藤隆二さん(ホンダOB)が編集発行

「私の記録」は「資格制度の原点」
最高傑作
「東西自動車塗装スケッチ、自分史への試み」(ホンダの塗装技術と共に30年)上下巻 田辺幸男著

失明の危機の中での労作
素直で率直 けれんみのない記録

目次がいきいき表現に

  • ホンダは二輪では世界一を成し遂げたものの四輪では後発メーカーであり、特にボデー・シャシーには開発挑戦テーマが山積していた。韓国車がカナダで日本車の半値で売られ爆発的にヒットしたが、塗装クレームで、翌年は撤退に近い状況に陥ったことがある。それは塩害という想像を絶する厳しい対応が必要なのである。早くからホンダは世界に挑戦していたので、オランダでの実験など塩害対策は怠りなかった。しかし高品質・高信頼性でよりリーズナブルなコストを得るための製造プロセスの開発は凄かった。真似の大嫌いな企業哲学で技術者はトップの承認をうるのに凌ぎをけずった。四輪工場の投資は塗装ラインで決まったほどである。東西自動車塗装スケッチは、見事にホンダの塗装開発の原点を活写している。ホンダ50年社史や生産技術史では表現できなかった、あるいは漏れてしまった重要なポイントが網羅されている。著者は失明の危機の中でこの大著を発表した。奥様のお力添えに感謝したい。そして、本田技研工業(株)資格制度の発案者 故藤沢武夫最高顧問提案の「私の記録」最高傑作の誕生を喜びたい。ここには検閲も遠慮もいらない豊かな情報が満ちている。素直で率直、けれんみのない記録が素晴らしい。失敗も原因究明と恒久対策、次の予防対策までに展開しているのがいい。ホンダ記録も生きている。雑誌連載の集大成と書き下ろし部分があるが、改めて「目次」がいきいきした表現に推敲されている。校正は数ヶ月に及んだ様子だが、見事な出来ばえである。著者に心よの乾杯をしたいと思う。

↑このページの先頭へ