研究ノオト78 会社はだれのものか

2006/06/14第1稿

 

【テクスト】

 

岩井克人「第1部 会社はだれのものか」『会社はだれのものか』平凡社、2005年。

 

【目次】

 

01 ライブドアとフジテレビ

02 会社とは何か

03 会社の二階建て構造

04 コーポーレート・カバナンスとは何か

05 会社経営者の義務

06 資本主義の倫理性とエンロン事件

07 産業資本主義とは何か

08 ポスト産業資本主義とは何か

09 日本的経営の歴史的使命

10 ポスト産業資本主義におけるおカネの没落

11 産業資本主義時代における会社買収

12 ポスト産業資本主義時代における会社買収

13 ポスト産業資本主義における金融の役割

14 アメリカの金融と日本の金融

15 ポスト産業資本主義における個人と組織

16 CSRとは何か

17 会社の存在意義と社会的責任

 

【内容】

 

01 ライブドアとフジテレビ

 

ニッポン放送をめぐる買収問題で、「会社はだれのものか」という問いが改めて浮き彫りになった。この議論を行うためは、そもそも「会社とは何か」から考えなければならない。

 

そもそも、「企業」と「会社」は同じではない。「企業」とは、「利益を求める経済活動」である。そして、「会社」とは、「法人化された企業」である。「法人」とは、「本来ヒトではないモノなのに、法律上、ヒトとして扱われているモノ」のことである。

 

02 会社とは何か

 

この「法人」の定義は、末広厳太郎の定義をもとにしている(岩波の法学辞典か?)。モノをヒトとして扱う、というのは、ヒトはモノを所有することができるが、ヒトはモノではなく、ヒトをモノとして扱ってはならない、という、人権宣言などが謳う、近代社会の原則に矛盾するように見える。このような存在である会社が資本主義の中核を占めているのは驚きである。

 

03 会社の二階建て構造

 

では、(1)法人化されていない企業(個人企業)と(2)法人化されている企業(会社)との間の差異はどこにあるか。たとえば、八百屋さんは店頭の商品を食べても問題ないが、デパートの株主はデパートの品物を万引きすれば逮捕される。つまり、個人企業の場合は、会社の資産はオーナーのものであるが、法人企業の場合は、会社の資産は株主のモノではない。

 

株主は、株式の所有者であり、会社資産の所有者ではない。株式を持っているということは、株主総会の議決権、配当請求権、残余資産請求権など、モノとしての会社を所有することを意味する。

 

2階建ての構造とは、第1に、株主がモノとしての会社を株式を所有することによって所有しているということと、第2に、モノとしての会社がヒトとして、会社資産というモノを所有しているということ、という2つによって、会社が成り立っているということである。アメリカの株主主権論は第1の部分を、日本的な会社は第2の部分を見ているのであって、この構造は共通である。

 

04 コーポーレート・カバナンスとは何か

 

コーポレート・ガバナンスは、企業統治と訳すのは誤りであり、会社統治と訳すべきである。個人企業が経営者を雇う時、それは双方が自己の利益に合致していることによって合意して成立している契約関係を意味する。しかし、法人企業である会社の経営者は、契約関係によって経営者となっているのではない。会社は本来モノであるがヒトとみなされる存在であるが、ヒトとして活動するには代表権をもった経営者が必要となるのである。

 

05 会社経営者の義務

 

人形浄瑠璃の人形と人形遣いの関係は、会社と会社経営者の関係にあてはまる。会社に経営者が必要なのは、強制法規によって定められているのであって、経営者が存在しない会社は会社ではなくなる。人形遣いは自分の欲望や利益を全て抑えて、人形のために忠実に仕事をしなければならない。それと同様に、会社の経営者は自己の欲望や利益を抑えて、会社のために忠実に仕事をしなければならない。このことは忠実義務・注意義務として法律で定められており、違反すれば背任罪に問われるのである。

 

06 資本主義の倫理性とエンロン事件

 

このように、資本主義の中核をなしているのは法人としての会社である。法人化された企業である会社と経営者との関係は、法人化されていない企業と経営者との関係とは異なる。後者は相互に自己利益を追求する契約関係であるが、前者は信任関係である。会社は自らの全ての動きを経営者に任せているのであり、経営者は会社に対して倫理的に行動することが義務づけられている。

 

したがって、自己利益の追求を目的とする資本主義という社会体制は、その中核において人間の倫理的な行動を基礎に置いている。このことから、会社が株主のものでしかないという株主主権論が法理論上の誤りであることも明白である。

 

07 産業資本主義とは何か

 

しかし、アメリカは株主主権論に基づいて90年代発展してきたのではないのか、誤りであってもそれがグローバル・スタンダードなのではないのか、という反論がありえる。しかし、現在のポスト産業資本主義においては、おカネの力が弱くなってきており、その意味からも株主主権論は妥当性を失いつつある。

 

歴史的な流れを見てみると、産業資本主義は、産業革命に基づく機械制工場による労働生産性の向上と、農村の余剰人口が大都市に流入することによって確保された、産業予備軍による労働賃金の抑制によって、成り立っている。

 

08 ポスト産業資本主義とは何か

 

そもそも、資本主義の基本原理は、違い(差異性)から利益を生み出すことにある。古代においては、遠隔地貿易に依拠した商人資本主義が、土地の距離によって生じる価格の差を利用して活動してきた。産業資本主義の時代には、機械制工場と低廉な労働力によって収入と費用の差を生み出してきた。

 

しかし、労働賃金が上がってくると、産業資本主義も通用しなくなってくる。ポスト産業資本主義の時代とは、絶えず新たな「違い」を、意識的に、次から次へと創出し続けなければ、利益を生み出すことができなくなった時代である。似たような製品であれば製造コストを削って価格を下げ、他者と違う製品を生み出し、別の市場を開拓し、経営手法を変更する、といった手法を常に模索しなければならない。

 

09 日本的経営の歴史的使命

産業資本主義には2つの段階がある。前期産業資本主義とは、18世紀半ばのイギリスから始まった第1次産業革命による、紡績業、紙・パルプ業、印刷業などの軽工業が生み出したものである。後期産業資本主義とは、19世紀後半から20世紀にかけて、鉄工業、造船業、石油精製業、化学工業などの重化学工業が生み出したものである。双方とも機械制工場と低賃金労働が支えていたが、後期産業資本主義はより大きな固定費用のかかる物的資産とそれを効率的に動かす特殊組織的な人的資産が必要である。

 

日本的経営とは、終身雇用制、年功序列制、社内組合制を中心とした、組織特殊的人的資産を育成するシステムである。これは後期産業資本主義に適した手法であって、ポスト産業資本主義時代には通用しないものである。

 

10 ポスト産業資本主義におけるおカネの没落

 

産業資本主義時代に必要なのは、機械制工場を持てるだけの資金だった。したがって、おカネを持っていればいるほど、利益を生み出すことができ、経済活動において最も強い力を発揮することができた。

 

たとえば、戦後の日本は恒常的な資金不足で、外資は導入できず、株式は不安定で、家計の貯蓄の大部分が郵便局や銀行に流れた。郵便局の資金は政府が重点産業に投入したが、民間銀行に流れた資金は、機械制工場を持ちたい会社と長期的な踏み込んだ関係を築いて、おカネを貸すだけでなく経営に参与するようになった。こうした、融資を通して銀行が会社と密接な関係を保ち経済活動に参加していくしくみが、メイン・バンク制度であった。

 

近代社会はヒトとモノを明確に分けている。ヒトはモノを買うことができるが、ヒトがヒトを買うことは、ドレイ禁止令に抵触するので、許されない。したがって、ヒトがモノを買うことはできない。「ヒトを買う」のはドレイ禁止令で禁止されており、これは近代社会の大原則である。したがって、「ヒトを買う」という言葉が実際に意味するのは、一定の時間、あるヒトの行動を制約する、という以上の意味を持たない。もしドレイ禁止令に反して、ヒトを買おうとしても、ヒトの頭の中を完全にはコントロールできないし、お金だけではコントロールできない。以上の理由から、「ヒトを買う」という表現は比喩の域を出ない。

 

ポスト産業資本主義の時代において、利益を生みだす差異を意識的に創出できるのは、おカネではなくヒトである。したがって、優れたヒトを集めなければ、会社は利益を生み出すことはできない。しかし、ヒトをおカネによって完全にコントロールすることはできない。つまり、ただおカネを持っているだけでは利益は生まれない。それ故に、ポスト資本主義の時代にはおカネの力は相対的に弱くなり、資本となるのはヒトである。

 

金融革命や金融のグローバル化が意味するのは、現在はただ単に機械制工場に投資していれば利益が得られる時代ではなくなったため、世界中で利益を稼ぐためにさまざまな制度を生み出し、環境を整備してお金を動かしていかなければならなくなった。つまりそれだけ、おカネそのものの力が弱まったからこそ、その運用の仕組みを代えたり広げたりしなければならなくなったのである。こうして、株主主権論は理論上も実践上も、正当性を失いつつある。

 

11 産業資本主義時代における会社買収

12 ポスト産業資本主義時代における会社買収

13 ポスト産業資本主義における金融の役割

14 アメリカの金融と日本の金融

15 ポスト産業資本主義における個人と組織

16 CSRとは何か

17 会社の存在意義と社会的責任

(以下略)

 

 

【コメント】

 

基本的な内容は、『会社はこれからどうなるのか』と『ヴェニスの商人の資本論』を中心とした著者年来の主張の域を出てはいませんが、法人論におけるヒト・モノ、会社における自己利益と倫理、といった「矛盾」ないし「逆説」を足がかりにすることによって、その後の現実の展開を踏まえて議論を進めていっています。

 

いくつか気がついたことを。

 

第1に、会社は自己利益を追求する企業活動を行う存在であるが、会社の経営者は自己利益を抑えて会社のために働くという意味での倫理的な行動を要求される存在である、という指摘について。会社の経営者の経営者としてのこの行動を倫理的と呼ぶことができるかどうかということ自体、ひとつの問題ではあると思います。しかし、この倫理は、後出する会社の社会性ないしは公共性と一意的に結びつくとは限らないような気がします。会社が経営者を信任する時に、会社に対して倫理的であらねばならない、ということができると認めたとしても、会社に対して倫理的であるという時に、どういう経営を行うことが背任にあたらないのか、という点が残るように思いました。つまり倫理が二段構えになっているのではないか、ということです。

 

もちろん、会社の社会性・公共性を利潤獲得と共に追求することが、会社が与えた信任に応えることとイコールである場合も多いでしょうけれど、そうでない場合もあると思います。その辺もう少し襞を付けた議論が聞きたいところです。

 

第2に、たいへんおもしろかった点として、アメリカの株主主権論、言葉だけが一人歩きしているコーポレート・ガバナンス論やCSR論に対する岩井氏のスタンスの取り方です。まとめは略しましたがジョージ・ソロスとフリードマンを同じ穴の狢ととらえていく部分、さらに、本の後の方に載っている原丈人氏との対談での二人の話が印象に残りました。具体的には、まずウォルツとしてのフリードマン、といったようなことです。IRに限らず、社会科学における科学性の追求が持っている強烈な単純な原理への還元とそれをもとにして世界全体を記述し、理解しきろうとするすさまじいまでの力というか意志というか、そういうものに突き動かされていく学問という装置の突進ぶりに対する違和を、岩井さんや原さんはお持ちのようで、大変参考になりました。

 

ちょっと前ですが、故高柳先男さんの名著『パワー・ポリティックス』という本があります。これの指摘でおもしろいと思うのが、パワー・ポリティクス、力への意志というのはまさにヨーロッパ文化の賜物なのではないか、したがって国際関係の支配的なものの見方であるパワー・ポリティクスは、それ自体が最も普遍的なのではなく、こうした文化的な背景に影響を受けたものなのである。だとするとこうした文化は将来(他の文化をもった人々。高柳氏はアジアをあげていますが、差異派フェミニストならば女性、をあげるかもしれません)変わりうるのだ、という議論です。

 

岩井本の中では原丈人氏が、ビジネス・スクールで教えているような数字偏重による科学性の追求が、一つにはアングロ・サクソン的な文化の反映であり、もう一つには人種間の誤解を減らすために数字で表現することが科学的なやり方だということになり、といったような文化の背景がある、といった指摘をしています。こうした、学問と文化のかかわりという視点は、今までに全くなかったというものではないですが、改めてこうした形で出てくること自体に、意味があると思います。

 

ただ、岩井氏はこの文章の前半で、日本的経営の特質をアメリカで教える時に、文化の問題に還元してしまっては「それならば学ぶことは無意味だ」と思われてしまうので、どこの国のどの会社にも共通する普遍的ないし根源的な点から説き起こしていくスタイルで会社論を考えはじめた、と言っています。異なる文化に異なる文化を立てて対抗するというよりも、(おそらく近代という)普遍を共有しつつも、あまりに偏った個別にたいしては普遍を立てていく、というスタンスも窺えます。

 

第3に、ヒト・モノ論と法人論です。ヒト・モノ論は一見ユニークですが、単なる経済学の枝葉末節論ではなく近代社会の原則論に立ち戻っていく上では有効な指摘ですし、よく考えてみると人権宣言にせよカントの理性の自律の議論にせよ、経済活動にも当然当てはまるわけで、そこをブリッジしていこうとする狙いは評価できると思います。

 

法人の歴史を考えて、近代以前の様相をふまえることで現代の法人論の視野狭窄性をときほぐそうとしていくのも、ある意味岩井氏のこれまでの議論と同様、人が増えすぎたり議論を限定しすぎたりして人口密度も絶対的な面積も狭くなった土俵から抜け落ちてしまった補助線を引いて、それを含むより大きな全体から問題を位置づけ・意義付けなおす、というスタンスでやっていると言って良いでしょう。ちょっと気になっているのは、彼が法人論をスタートするときに、末広厳太郎の辞書の項目(岩波の戦前の法学辞典だと思いますが、未見)からはじめていることです。末広さんの別の本を読むと、法人についてはサヴィニーの学説を紹介してまとめていっています。岩井さんは法人擬制説と法人実在説の両方が正しい、という形で議論をしているのですが、たぶんここでの「正しさ」は、法学者が使うときの「正しさ」ではないように思います。これは岩井さんの貨幣論における、貨幣商品説と貨幣法制説に対する落としどころの付け方にちょっと似ている議論の仕方です。とはいえ、法人がヒトであるのもモノであるのも、「無限の予想の連鎖」の結果だということにはならないようですが。

 

とりあえずこんなところで。。。

 

 

 

(芝崎 厚士)

 

 

 

 

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