研究ノオト6903 大森荘蔵『時間と自我』その4 「理論概念としての自我と他我」

2005/08/27 初稿

 

【テキスト】

 

大森荘蔵「理論概念としての自我と他我」『時間と自我』青土社、1992年、177−200ページ。

 

【目次】

 

01 問題と方法

02 自我の意味の発生と成長

03 理論概念としての個別確率

04 他我概念

05 問題点の再確認

 

【内容】

 

01 問題と方法

 

 自我・他我概念の解明は困難である。この道筋をつけるには、まず両概念が対をなしているということ、そして両概念の困難性としてそれらが経験的に蔽われている、という点があげられる。いわば両概念は、「直接経験できないが」「内含的に経験可能」である、理論概念として考えることができる。これが考察の出発点である。

 

 理論概念として自我・他我概念を考える際の考察の方法として、万人周知の日常の中での自然発生的野生概念から自我・他我概念を構築していく、という発生論的方法を採用する。つまり概念の生成過程の疑似歴史的な提示を試みる、ということである。

 

02 自我の意味の発生と成長

 

 自我概念を検討する出発点として、動作主体としての自我(私が〜する)を考える。この私というのは、直接経験できないが、その存在は了解されている。動作主体としての自我概念は、自我概念の系統的進化の根幹に当たるであろう。

 

 この動作主体としての自我は、無数の動作経験を経ていく中で、動作の主語としての動作主体が抽出されていく。これはいわば「主語自立化」である。動作主体としての概念の意味は、これとは別に、動作主体としての身体、という意味も可能である。「中隊」「アミーバ」「細胞」などがその例である。

 

 動作主体としての自我は、身体自我の意味をそこに含んでいく。「私は〜する」、から、「私の手」「私の足」といった所有格としての、身体の所有者としての意味も付加される。さらに、「〜される」といった、対格として、受け身の対象としての意味も付加されていく。こうして、(肉体)動作主体の所有としての身体、と身体自我が登場するが、両者は同一ではない。

 

 次に、心的自我の意味形成をたどる。これはデカルトのコギト、としての心的動作の経験に依拠しており、肉体動作主体の意味生成と同様に、無数のコギト経験から主語自立化を経てコギト動作主体としての自我が生まれてくる。この、肉体動作主体とコギト動作主体が同一であることは、心身協働の経験を考えてみればわかることである。そしてこのとき、「一にして同一の動作主体が心身両動作をする自我」という意味が生じる。これを「認識主観」と呼ぶ。ここにおいて、自我概念は身体動作主体としての意味だけでなく、認識主観としての意味が追加される。

 

 理論概念としての自我は、直接その動作を知覚できないが、知覚ではない形で経験することが出来る。こうした動作主体は、「それら無数の言語交信が社会の中で成功することによって、この動作主体の意味は強化され、その流通が促進される。もしもその交信が破綻したり停滞したりすることが数多くあったとしたら、この概念は様々な訂正や改造を受け、それでも改善されない場合は流通が停止されて忘れ去られることになっただろう」、という一連の社会的なプロセスの中で洗練されていく。

 

 動作主体としての自我に、所有格、対格、さらに認識主観の意味が付与されていく歴史過程はこうしたダイナミズムを持っている。つまり自我の実在性は、「繰り返し語られること」によって強化されるようなものなのである。

 

03 理論概念としての個別確率

 

 理論概念の特質を考えるために、「明日の雨の確率」などの個別確率(次の1回限り)を考えてみる。これには経験的な意味は全くない。観測問題、巨大な計量、フロイトの精神分析なども、すべて内含的に経験可能なのである。

 

 理論概念には、制約ないし限界がある。それらは、ある限定された範囲の経験に限って有効である。野性的自我概念は適者生存の結果として日常生活の中で淘汰されて確立しているが、理論概念は限定的である。

 

04 他我概念

 

 他我概念を、他人の経験は直接経験できない、では他人の経験とは何か、という他我問題から考える。他人の経験は直接知覚できないが、理論概念として内含的に経験可能である。類推説は誤りであり、むしろ私の経験の全部の集合としての命題の意味の回路網を、彼我置換していくことで、他者の経験を理論的命題として理解しているのである。行動主義も誤りである、というのは理論命題は単なる振る舞いだけでなく、ある状況に関するすべての命題のつながりを含むものだからである。

 

 他者のコギトという理論的命題は、生まれたときから周囲の人々による言語訓練によって半ば強制的に行われる。「その学習は単に受動的なのではなく、無限に変化する状況の中で自発的で試行錯誤的に試みられる」したがって社会的訓練によって、他者のコギト命題の理論的意味の学習は行われるのである。「絶えず語られ口になじんでくることによって生れてくる実在性というのは一見するほどには奇妙なことではない」。

 

 こうした理論的意味と経験的意味は、日常生活おいて「重ね描き」されていく。その結果として、理論概念の方に実在性があるかのような理解が生まれることもある、ということになる。「意味回路網で規定された理論的意味を何かの対象に試行的に適用してそこから生じてくる経験的命題を待つ」という他我試行は、仮説演繹法そのものである。そして、その適用対象は人間である以上、その適用範囲は限定されるが、そうでないとアニミズムに至ることになる。

 

05 問題点の再確認

 

 他我問題は理論概念としての他我、という考え方によって理解できる。他我概念の回路網は自我概念の回路網と同型であり、現実生活の中で使いこなされて、都切り上げられていく。

 

【コメント】

 

 この部分では、「自我と時間の双生」を引き継いで、他我へも踏み込んでいます。そこで使われる、理論概念としての自我・他我把握という前提、意味の発生論という方法も共通です。

 

 自我概念の発生論的考察において、「主語の自立化」、所有格、対格、そして認識主観へ、という過程が説明されます。これは『自我の起原』における、個体性、主体性、自己意識の発生、という過程の説明とほぼぴたりと平仄が合います。大森荘蔵の自我論はいわゆる「近代的」な自我論ではないか、その意味において自我の比較社会学の近代以降の局面にしか適用可能なものなのではないか、とすると人間社会以前のレベルを考察している『自我の起原』とは似て非なる部分が多分にあるのではないか、もしやけに共通する部分があるとしたらそれは大森荘蔵に人類史的普遍性があるというよりも真木悠介の分析の方に人間社会論的な読み込みのバイアスがあるのではないか、というようなことを、前から考えているのですが、ちょっとまだ決着がついていません。

 

 それをおいておくとしても、ナワール&トナール論、『気流の鳴る音』&『宮沢賢治』における「自分を守る盾」「統御された愚」、「明晰」「がいねん化」などなどの考え方と、繰り返し語られ、淘汰されていく中で生まれる実在性、という考え方との間にも、十分交流可能性があるように思います。

 

 他我概念を他我問題から解こうとするのは、大森荘蔵らしいですが、この箇所の後半でちょこっとはしょられた感じで書いてあるように、理論的意味の社会的訓練による学習、という発生論が他我概念にも自我概念と同様に通じる、という部分がむしろ主眼であろうかと思います。

 

 話を元に戻すと、こうした自我・他我形成というものの歴史性をどう考えるか、ということになります。もし大森図式が普遍妥当的なものなら、自我の比較社会学図式と同じく、この発生論的プロセスにおける自我のあり方が、異なる歴史的状況や歴史的文脈との関連の中でどういう偏差を示すか、という点が問題になるわけです。いっぽう、大森図式が近代に固有のものであるとするならば、大森理論をさらに包括するような自我・他我形成の図式を仮設し、大森図式をその一偏差とみる、という方向で検討をすることができると思われます。

 

 また、普遍妥当的、という意味を人間社会の歴史、というレベルではなく、生命史全体、少なくともほ乳類全体といった生物レベルという水準で考えるならば、その普遍妥当性が社会レベルにおいてどのような偏差を見せるのか(もちろん歴史的視座も入れることが出来るので、縦横両方で、という方向にも考えを向けることが出来ます。

 

 ちょっと中途半端ですがそんなところで。

 

 

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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