研究ノオト68 社会生物学と文化決定論

2005/07/13初稿

 

【テキスト】

 

ジョン・オルコック、長谷川真理子訳『社会生物学の勝利』新曜社、2004年、第7章。

 

【目次】

 

01 生物学嫌い

02 何も書かれていない石版という理論の弱点

03 何も書かれていない石版と美人

04 何も書かれていない石版と大量殺戮

 

【内容】

 

01 生物学嫌い

 

フェミニスト達は、個人のパーソナリティや態度、モラル、行動などを形成する環境要因をめぐってさまざまな分派に分かれている。その一方で、彼らは、個人が人生で得る経験が、男性や女性を形成するのであり、進化論的な歴史に対する言及は不必要かつ有害であり、生物学的特徴ではなく文化が原因である、と考える。

 

フェミニスト(や社会学者)は、進化的視点による性差の説明と、性差の正当化を混同している。これは重大な誤解であり、偽の二分法に基づく誤りである。なぜなら、文化による説明は至近要因であり、進化による説明は究極要因であるのに、その区別を理解していない。さらに、行動形質は遺伝と環境の双方によって形成されるということも理解していない。

 

社会学者や文化人類学者は、文化的(至近的)説明の方が進化的説明より優れていると考える。彼らは文化的行動は本能から自由で、任意に作られると主張する。また、ミードやグールドがそうであるように、生物学的説明に対して部分的に譲歩して見せたりする。

 

社会学や文化人類学の説明は、至近的要因の説明であり、社会生物学の究極的要因の説明とは説明のレベルが違うだけで、優劣はなく、補完的である。彼らの説明は、人間が進化的な説明から自由であるということを信じたい、という信念の表明であり、そう述べることで安心したい、という心理の表れである。

 

 

 

02 何も書かれていない石版という理論の弱点

 

ミードやアンジェールの戦略は、例外の存在を発見することで一般化をすべて無効にする、というものである。ミードはサモアに性的に放埒な文化が存在すると主張し、アンジェールは北部タンザニアに男性が狩の獲物を特に妻子に分けないということから、ともに進化的な一般的傾向をすべて否定しようとする。

 

例外が1,2見つかることによって、規則が無効になるわけではない。一般的なパターンが存在することは、ミードやアンジェールの発見によっても覆ることはない。また、彼らの発見に基づく検証可能な仮説として、文化の多様性が無数にあり、人間の行動には進化的なバイアスが存在しない、という考えをあげることができるが、これは現実の事例に照らしても支持することはできない。

 

03 何も書かれていない石版と美人

 

(略)

 

04 何も書かれていない石版と大量殺戮

 

グールドによれば、大量殺戮に関する生物学的基盤が存在したとしても、進化論的な視点からは説明できない。人間の文化的可塑性は進化の制約を受けないのであり、社会生物学の決定論はあてはまらない。大量殺戮の例は社会的善行と同じくらい、殺人をする集団と平和を好む集団は同じくらい、存在する。

 

ダイヤモンドによると、大量殺戮は、歴史時代において、大規模なものであれ小規模なものであれ、南極を除くほぼすべての大陸でしばしば起こっている。つまり、大量殺戮は現代においてのみみられるものでもなければ、偶然によって生じるものでもなく、人類が持つ傾向の一つであると考えざるを得ない。

 

1つめのパターンは、大量殺戮は、軍事的に強い立場にある人々が、弱い立場にある人々の土地を占有しようとし、弱い立場にある人々がそれに抵抗した場合に起こることが最も多い、というもの。つまり大量殺戮は任意の様相で生じるのではない。もう1つのパターンは、「自分たち」と「彼ら」を分類するという至近的メカニズムがあり、それが集団帰属に基づいた道徳規準を採用する傾向を生み、大量殺戮を促す要因となっている、というもの。

 

第1に、社会生物学は、グールドの言うような遺伝子決定論ではない。第2に、グールドの主張から導かれる、大量殺戮のランダムな分布、文化的歴史における偶然の発生、という予測は、ダイヤモンドの議論に基づいて検証すると誤りであることがわかる。自然淘汰で生じた我々の能は、ある種の学習や感情的反発、意思決定戦略が起こりやすくなるようになっているのである。

 

ブラウンは、人間の行動が無限に存在する多様性に開かれているという予測を検証した結果、予測とは逆に人間には非常に多くの共通した性質が存在することを発見した。クロンクは、文化の多様性は、存在しうるあらゆる文化的変数の組み合わせに比べると極めて小さいことを指摘した。

 

人間の脳は何も書かれていない石板ではない。盲目的な進化のプロセスの中で、数百万年にわたって働いてきた淘汰によって、人間は大きな影響を受けている。人間の無意識的な目的は、その意味ではほかの生物と変わりないものであり、その点に関して人間が特別な存在であるという希望的観測は誤りである。

 

【コメント】

 

 今回は社会生物学の側から見た社会科学、という方向の文献を選んで見ました。基本的な骨組みは、社会生物学が生物学決定論ではないのと同様に、文化人類学や社会学が文化決定論の立場を取るのは誤りである、ということを主張している議論です。最近になってセルゲストローレの本がみずすから翻訳されましたが、オルコックのこの本は、よい意味でも悪い意味でも学者の現場に近いスタンスで書いてあって、社会生物学の人々のものの考え方がよくわかるように思います。

 

 細かい点を言うと、フェミニズムを文化決定論と断じてしまっているが、これはセックスとジェンダーを分別するのが出発点であるはずのフェミニズムの議論に対する理解不足では?と思ったりもします。

 

 それはさておき、それが遺伝子であれ進化論であれ、あるいは文化であれ社会であれ、なんらかの決定論というものが控えめに言って世界の全体性を理解する上で十全ではない、ということ自体は、なんとなくわかることなのですが、オルコックの議論の方向は、文化決定論=生物学的な傾向から自由な社会構想が可能、ということを否定するために、人間社会がいかに生物学レベルで言いうるような傾向に拘束されうるのか、というところに進んで行っているわけです(それで、ダイヤモンドやブラウンの主張が紹介されていく)。

 

 この方向を掘り進んでいくと、問題なのは、人間社会のさまざまな様相のうち、何が、あるいはどこまでが、社会生物学的に説明しうるのか、ということの線引きになるように思います。真木悠介的に言えば重層的非決定性の問題なわけですけれど、国際関係論と社会生物学、という問題を立てるとすると、たとえば「国際関係」という秩序形成の仕方は社会生物学的にみてどうなのか、などということ、カントの歴史哲学における人類の発生と分立論などの再評価、境界線という問題、などなどさまざまな疑問が生じてきます。

 

それから、究極要因と近接要因、という議論は個人的には非常におもしろく思います。優生学や社会ダーウィン主義を持ち出すまでもなく、生物学的な知を社会・社会科学に対してもろに適用していくような発想に対しては警戒しなければなりませんが、それを避ける意味でも、知にはさまざまな水準ないし領域があり、それぞれで扱いうることとそうでないことを混同してしまうことに対して慎重でなければならないわけです。その一方で、文理融合を一つの焦点に置いた新しい学問を生み出そうという取り組みも学術会議などで行われつつあるわけで、領域の混同をさけながら領域を融合していくような方向性をどう見いだすか、ということが一つの課題となりうるように思います。国際関係論と社会生物学、という2つの領域の接近と相互交通をつけてみる、というのを、領域の混同というマイナスの結果と、領域の融合による新領域の形成、ないしはそれぞれの相互豊穣化の可能性との綱渡りをしながら考えてみる、というのが、わたしの最近の問題関心の一つだったりします。

 

 

【参考文献】

 

(芝崎 厚士)

 

 

 

Home 演習室へ戻る