研究ノオト505 気流の鳴る音(IV&結)

2003/08/09第1稿

 

【テクスト】

 

真木悠介「IV 「心のある道」<意味への疎外>からの解放」&「結 根をもつことと翼をもつこと」『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫、2003年。

 

【目次】

 

IV 「心のある道」<意味への疎外>からの解放

 

01 回収されない40年

02 幽霊たちの道

03 <意味への疎外>からの解放

04 四つの敵・四つの戦い

 

結 根をもつことと翼をもつこと

 

【内容】

 

IV 「心のある道」<意味への疎外>からの解放

 

01 回収されない40年

 

 カスタネダの話す、40年もの苦闘と放浪を敗北したという結果において判断して空虚だと思いこむ老弁護士の話と、松島めざして旅をしたがそこでは一句も作らず、そこまでの道のりを充実して旅をし尽くした芭蕉の話はまさに正反対の事態を示している。老弁護士は何も<見る>ことなく、ただ年を取ってきただけなのであり、芭蕉は<心ある道>を行ったのである。

 

 ここでポイントとなるのは、存在を非在の非在として感受する、有を無の無として感受する感覚の反転力であり、H.S.氏の話に出てくるような、目にふれるひとつひとつのものがおどろきであるような感覚である。

 

 近代世界においては、意味は<結果><成果>に外在化され、それを得ることがなければすべてが空虚である、とみなされ、考えられがちである。それにたいしてドン・ファンは、「すべてのものがあふれんばかりに充実しておる」「知者は好きになる。それだけだ」と言い切る。それは、ドン・ファンにとって、意味が毎日の生活それ自体に内在化しているからである。

 

02 幽霊たちの道

 

ドン・ヘナロがナワールへ舞い上がって経験するイクストランの道で見かけた人々は幽霊であり、カスタネダも幽霊だという。「幽霊」とはまさに意味が外在化され、そこから疎外されている存在、魂がここになく、今ここに生きていない存在である。そうした人々は、道を通っているが、道を歩いてはいないのである。こうして生きることの「意味」が成果へと外化されてしまうこと、そして成果の有無によって感じる感覚によって一喜一憂することは、まさに「明晰の自己欺瞞」に他ならない。ヘナロの旅には終わりはなく、「心のある道」にも終わりはない。彼らに死は訪れるが、それはとても平静なものである。

 

03 <意味への疎外>からの解放

 

<心のある道>を選ぶことは、ここまで見てきたような外なる「意味」による支えを不要とする生き方である。それは意味へと疎外され、意味からも疎外されるような生き方からの解放である。

 

04 四つの敵・四つの戦い

 

恐怖、明晰、力、老い、という4つの局面におけtる4つの敵を、ドン・ファンは絶滅させるのではなく乗りこなしていく。それが心ある道を行く生き方である。

 

結 根をもつことと翼をもつこと

 

人間には根をもつことと翼をもつことという2つの根元的な欲求があり、カスタネダは呪術師の生き方は根をもたない(履歴を消す、自尊心を消す)寂しいものなのではないかと考える。しかし実際には、ドン・ファンやドン・ヘナロにとっては、全世界がふるさとなのであり、存在への揺るぎない愛に満ちているが故にその2つの欲求が同時に実現している。そこで彼らは、自分の歩く道と自分の踊りという2つの物を持ち、4つの局面を自在に乗りこなし、充実した生を送り、静かに世を去っていくのである。

 

コミューン構想は終局的には、万人が全世界を所有することを一つの目標においているが、そこで近代の排他的な所有観念に従っている限りは、二律背反性をこえられない。そもそも所有はそうした近代的なものとは異なる非排他的なものであるはずである。近代的所有権の観念は人と自然を切り離し、人と人と切り離してしまう効果をも持っていたが、それを新たな社会構想の中で変革するとしたら、ドン・ファンたちの生き方にそのプロトタイプが求められるかもしれない。

 

 

【コメント】

 

 

 

 

 

【コメント】(後日まとめて行います)

 

(芝崎厚士)

 

 

 

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