研究ノオト46 戦後日本の社会科学

第1稿 03/04/26

 

【テクスト】

石田雄『社会科学再考』東京大学出版会、1995年、第3章。

 

【目次】

第3章 近代西欧像の変化

01 前提としての「近代の超克」

02 課題としての「近代」、典型としての西欧

03 達成されつつある「近代化」、追いこす対象としての西欧

04 「近代化」の「卒業」と「西欧の相対化」

05 「ポストモダニズム」の問題

 

【内容】

 

第3章 近代西欧像の変化

 

01 前提としての「近代の超克」

 

 日本にとって近代西欧は、目標であると同時に批判の対象であった。「近代」という点に関しては西欧が本当に進んでいるのか、「西欧」という点に関しては西欧が本当の理想なのかが問題となった。つまり前者は縦軸の時系列的な問題であり、後者は横軸の比較の問題である。現実には近代西欧を目標として模倣する選択肢しかなかったが、日本の近代化は強引かつ性急な必要性から達成されたために様々なひずみを伴い、反動も生み出す。ひとたび日本の地位が安定すると西欧批判が正面に出てくるという特徴がある。

 

 「近代の超克」という議論は、戦時中に知識人たちが行った、典型的な西欧近代に対する批判であった。この前駆的な議論としては三木清の「新日本の思想原理」がある。竹内好が述べるように、そこには近代西欧に対する両面性を引き受けざるを得なかった近代日本のアポリアが凝縮されていた。鈴木成高の議論に明らかなように、「近代西欧」の超克が叫ばれる一方、その否定の後には何も残らないようなものだった。こうして戦後日本の知的共同体は、近代の超克を超克することから始まるのである。

 

 近代西欧像は、

 

 (1)第1期:敗戦から1950年代終わり:課題(目標)としての近代、典型(モデル)としての西欧

 (2)第2期:196070年代:達成しつつある「近代化」、追い越す対象としての「西欧」

 (3)第3期:1980年代以降:問題としての「近代」、達成された「近代介護」の問題、相対化された(だめになった)「西欧」

 

 の3段階で変化してきた。

 

02 課題としての「近代」、典型としての西欧

 

 丸山真男は、日本は近代を超克する段階にあるどころではなく、近代が依然として日本の目標であると考え、近代的思惟の獲得や近代的人格の確立を戦後の目標として提示した。丸山の議論は西欧近代の一方的礼賛に他ならないという批判もあるが、丸山における「課題としての近代」は西欧近代の現実と課題・要請としての近代的なるものを峻別していた。

 

 大塚久雄は「典型としての西欧」の模範を、イギリスにおける資本主義の自生的展開に見いだし、比較経済誌の観点からこれを追求した。そこでロビンソン・クルーソーに代表されるような内面的エートスを持った近代的・民主的な政治主体の形成が課題とされた。一方、高橋幸八郎はフランス革命を市民革命の原型とみなして、日本をフランス革命前夜の状況になぞらえた。

 

 第1期の前半は、日本社会を近代化・民主化するという目的から、日本の知的共同体は緩やかな統一を持っていた。しかし、現実の政治における民主統一先生が分裂していった結果、知的共同体も様々な分化や対立を起こしていった。

 

 まず、哲学の分野では、マルクス主義者がいわゆる主体性論争において近代主義をブルジョア的であるとしてイデオロギー批判を行った。さらに歴史学でもマルクス主義は下部構造ではなくエトスを重視する大塚史学を観念論であるとして批判し、西欧近代社会を模範に考えることは資本主義社会の礼賛であるという批判もあった。それ以外には、江口朴郎のような帝国主義批判もあった。

 

 政治学の分野はマルクス主義の影響は小さく、イギリスの市民社会を典型と見なして議会制度に根ざした市民の成長、近代的人間類型の確立、が目標として設定された。しかし50年代中盤には、伝統から近代へという以降ではなく、現実には「大衆社会論争」に見られるようなマス社会化が進行するなかで、理論的枠組みを偏向していく必要に迫られていくことになった。大衆社会論を唱えた松下圭一によれば、マルクス主義は硬化し、大塚史学は近代を画一的にとらえすぎている、ということになる。

 

 この時期、特需景気などによって経済が復興していったが、結果として形成されたのは丸山や大塚が考えていたような「市民社会」の担い手としての自発的「市民」ではなく、大衆社会論が扱うような受動的で政治的には無関心な経済受益者としての「大衆」であった。しかし安保闘争などにみられるように、大衆が抵抗を示すこともあった。

 

03 達成されつつある「近代化」、追いこす対象としての西欧

 

 この時期に提唱された「近代化」は、第1期の「近代化」とは多く異なるものであった。

 

 第一に、第1期の近代化は精神革命を伴う全構造的変化であったが、第2期の近代化は連続的で漸次的な、数量化可能な変化であった。第二に、第1期の近代化が人間の内面の変革を問題としたのに対して、第2期の近代化は外面的な経済・社会事象を対象としていた。第三に、第1期の近代化は横軸の比較を含んでいたが、第2期の近代化はすべての社会の性格を程度の差でとらえていった。第四に、第1期の近代化は西欧をモデルにしていたのに対して、第2期の近代化はアメリカをモデルとしていた。

 

 最初、日本の社会科学者は第2期的な「近代化」にはなじめなかったが、徐々にその概念を受け入れるようになっていった。それを可能とした知的条件は2つある。第1の条件は、高度成長を肯定的に捉え、知的関心が精神革命から経済成長へと移行していったことであり、梅棹忠夫の「文明の生態史観」はそうした議論の一つの代表であった。

 

 第2の条件は、「近代」へ向けての価値志向、理念重視の傾向から、現状の繁栄の肯定や維持へと意識が変化していったことである。社会科学の分野では、理念や価値を捨象した現実の分析、計量化を主眼とした「客観主義」進行が増大していくことになり、価値中立的な学問を指向することになっていった。

 

 しかし実際には、そすうした理想主義批判・客観主義の社会科学が本当に価値中立的であったかは大きな疑問がある。これらは大東亜戦争肯定論などにも共通する、戦後啓蒙派の知的共同体の主導的地位に対する怨恨や異議申し立ての側面もあったのである。

 

 そして、現実の状況を見ると、ベトナム戦争反対運動や大学闘争、さらに四大公害訴訟などが起きることによって、現状肯定的な「近代化」論が持つ、GNP偏重や南北問題の軽視といった価値的な前提や管理社会的な病理に対する批判が高まっていくことになった。

 

04 「近代化」の「卒業」と「西欧の相対化」

 

 第3期を特徴づける議論は「文化の時代」と呼ばれるもので、『大平総理の政策研究会報告書』(1980年)がその代表的な表出であった。これには山本七平、山崎正和、梅棹忠夫、大来佐武郎、佐藤誠三郎、高坂正堯、公文俊平、香山健一などが参加していた。

 

 文化の時代とは結局、近代と西欧の同一視を否定し、日本固有の文化に根ざした近代化を達成した、という考えを基礎に持って、西欧的なものの見方と日本的なものの見方を対置して、ともすれば日本文化の絶対化へ向かう危険性をはらむような考え方であった。こうした議論はたとえば三島由起夫の文化防衛論や中根千枝、土居健郎などのナショナリズム的な傾向の理論化としての系譜を持っていた。

 

 こうした議論は2つの効果を持っていた。第一に、日本文化の優越性や特質にさまざまな論点を還元してしまうことで、争点を曖昧にしてしまう効果を持った(政府の権力のコントロール、環境問題など)。第二に、日本文化にそぐわない要素を排除し、日本人らしさを日本人に押しつけることで新たな抑圧を生む効果を持った(過労死、外国人差別)。

 

05 「ポストモダニズム」の問題

 

 ポストモダニストは近代合理性が人間の感性や人間性を捨象することで人間疎外を引き起こすとみなし、価値合理性の問題を拒否し、一部は相対主義的立場を取る。筆者は、合理性には目的合理性と価値合理性があり、目的合理性だけを重視すればナチズムに逢着する危険があり、相対主義も力の正義を許しかねないので、討論的理性に基づいた価値合理性の追求を捨てるべきではない。

 

 ポストモダニストは、近代世界の「普遍」は実は真の普遍ではなく、西欧的価値が文化的帝国主義によって非西欧世界に押しつけられたと考える。しかし、だからといって普遍性の追求を不可能だと考えたり、止めたりする必要はなく、異なる文化との対話の中でより普遍的なものに向かっていくべきである。

 

【コメント】

 

【参考文献】

 

石田雄『権力状況の中の人間 平和・記憶・民主主義』影書房、2001年。

石田雄『記憶と忘却の政治学 同化政策・戦争責任・集合的記憶』明石書店、2000年。

石田雄『自治 一語の辞典』三省堂、1998年。

石田雄『日本の社会科学と差別理論』明石書店、1994年。

石田雄『市民のための政治学 政治の見方・変え方』明石書店、1993(1990)年。

石田雄『平和・人権・福祉の政治学』明石書店、1990年。

石田雄『日本の政治と言葉(上・下)』東京大学出版会、1989年。

石田雄『日本の社会科学』東京大学出版会、1984年。

石田雄『近代日本の政治文化と言語象徴』東京大学出版会、1983年。

 

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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