研究ノオト41 環境問題の政治経済学
第1稿 2002/11/4 改訂 2004/09/04
【テクスト】
ロレイン・エリオット「環境の国際政治学」、エリオット、太田一男監訳『環境の地球政治学』法律文化社、2001年、191-217ページ。
【目次】
00 はじめに(略)
01 北と南(一部略)
02 誰の共通の議題なのか(略)
03 共通であるが差異ある責任
04 持続可能な開発
【内容】
00 はじめに(略)
01 北と南(一部略)
先進国・発展途上国、第一世界・第三世界、北・南といった、貧しい国と豊かな国を区別する言葉はどれを使うとしても様々な問題をはらんでいる。そして、環境問題に関する立場としては、南北間の差異だけでなく、それぞれの内部の差異も考慮に入れなければならない。
一般的に言って、北側は資源を不均衡に利用して来た。しかし南側の緩和措置がない限り環境劣化の防止は困難である。南側は北側が援助する責任があると考えているが、北側は南側のそうした態度をただ乗りとみなしている。こうして南北間の合意や協力はそう簡単ではない。
02 誰の共通の議題なのか(略)
03 共通であるが差異ある責任
北側は全ての国に環境保全の義務があると考える一方で、南側は北側との間に義務の差異があると考えている。北側は南側のただ乗りを嫌い、南側は北側のそうした方針が不平等をさらに拡大するとみなしている。こうした立場の違いを包括するものとして、「共通であるが差異ある責任」という概念がある。
先進国の人口は世界人口の4分の1であるが、世界の資源の5分の4を利用している。こうしたことからも明らかなように、先進国は地球資源を不平等に利用しており、同時に環境劣化の責任もそれだけ重いと考えることができる。しかし、将来の人口増加の90%が途上国でおこり、途上国の多くがこれから経済成長を遂げて行こうとする以上、途上国での環境破壊を抑制することが課題となる。
気候変動問題における指標のとりかたをめぐる論争は、こうしたこれまでの状況と今後の予測を踏まえ、「共通であるが差異ある責任」という概念がはらむ北と南の立場の相違を明確にする一例である。UNCED以降においても、この言葉に対する北と南の解釈は大きく異なっており、両者はまさに同床異夢の関係になっている。
04 持続可能な開発
持続可能な開発ということばは、ココヨック宣言ではじめて用いられたと言われているが、それが広く普及するようになったのは1987年2月に東京で開かれたブルントラント委員会の最終報告書以降である。
ブルントラント報告は、「将来の世代が自らのニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすことが可能な開発」と定義している。ここには、貧しい人のニーズの優先、環境のニーズを満たす能力の資源面での限界(成長そのものの限界ではない)に対する自覚、という2つの原理がある。
同報告は基本的には成長の必要性を強調している。つまり、貧困と不平等の克服こそ環境劣化を防ぐ上でも、そして持続可能な開発のために重要であると考えている。より低い原料とエネルギー集約度での成長の達成、債務危機の解決や成長に対する構造的制約の除去、世代内・世代間の社会的正義、社会的公正の実現、様々なシステムレベルでのガバナンスの向上などが主張されている。
地球サミット(UNCED)では「持続可能な開発」の定義こそしていないが、アジェンダ21の「持続可能な開発のためのグローバル・パートナーシップ」という用語が示すように、ブルントラント報告を踏襲しつつ、より具体的な実践へと踏み込もうとしている。
「持続可能な開発」という概念に対する批判は数多い。第一に、その定義が実際には曖昧であり、具体性に欠けるために実質的な意味が定かでないということ。第二に、経済成長を基本的に認めているものの、それがどのようなものなのであるべきなのか、ということがはっきりしていない。
第三に、環境問題の解決のためにはこれまでの古典的な成長、開発に対する考え方を根底から香得て行かなければならないと言われているのにも関わらず、成長を強調することは、結果としてそうした方向での再考を妨げてしまい、結果として環境回復のために成長を追求することでさらに環境の劣化を産みかねない。
多国籍企業の役割を無視したり、GNPを指標としたりすることによる現実との乖離、経済成長を重視する余り結局近代化を言い直しているだけの意味しか持たなたないために、結局開発によって開発の弊害を是正しようとしていたりと、環境劣化の防止という目的のための手段だったはずの持続可能な開発自体が手段と化しているところがあるのである。
(以下略)
【コメント】
9月にヨハネスブルクで開かれた環境開発サミット、先日デリーで閉幕したCOP8と、1992年のUNCEDから10年、1997年の京都会議から5年の今年は、環境と開発に関しては一つの節目になっています。去年はポーター&ブラウンをとりあげたのですが、今年はやはり概説としては定評のあるエリオットをとりあげてみました。
議論の内容としては環境問題に対する南北の立場や思惑の相違、という重要なモチーフを、持続可能な開発や、共通であるが差異ある責任、というこれまた重要な概念の理解や解釈を巡る論争から説明して行く、という、ワンチャプターによって環境問題の骨の部分がわかるところです。
エリオットの議論はなかなか冷静で、さまざまな論者の議論の整理の仕方もきっちりしていると思います。特に「持続可能な開発」を巡る論争の部分はよく書けているような気がしました。
環境関係の本は実にたくさんリリースされて行くので、フォローがなかなか厄介ですが、松橋さんの本、石さんの本などはなかなかいいと思います。特に松橋本はバランスがとれており、記述も平易でしかも著者の思い入れが伝わって来て、良心的な1冊としておすすめできます。松橋さんはもともと自然科学系の人ですが、廣松渉や碧眼録、タルコフスキーも引用しつつ、社会、人文科学的な領域にも幅広く言及しています。
それから、蟹江さんの研究書も充実しています。あと、『国際問題』で去年4回に分けて連載されたシリーズも事実関係を知る上でとても便利です。
【参考文献】
石弘之『地球環境報告』&『地球環境報告2』岩波新書。
石弘之編『環境学の技法』東京大学出版会、2002年。
◎石弘之『私の地球遍歴』講談社、2002年。
◎蟹江憲史『地球環境外交と国内政策』慶応義塾大学出版会、2001年。
ガレス・ポーター、ジャネット・ウェルシュ・ブラウン、細田衛士ほか訳『入門地球環境政治』有斐閣、1998年。
高村ゆかり、亀山康子編『京都議定書の国際制度』信山社、2002年。
◎松橋隆治『京都議定書と地球の再生』NHKブックス、2002年。
ハーマン・オット、セバスチャン・オーバーテュアー、岩間徹ほか訳『京都議定書』シュプリンガーフェアラーク東京、2001年。
松下和夫『環境政治入門』平凡社選書、2001年。
『岩波講座 環境経済・政策学』岩波書店(刊行中)。
◎『シリーズ環境学入門』岩波書店(刊行中)。
『岩波講座 地球環境学』岩波書店。
(芝崎厚士)
(改訂)
このノオトをお読みくださった方から、持続可能な開発、という言葉はココヨック宣言で初めて使われた、と書いてあるが、ココヨック宣言には「持続可能な開発」という言葉自体は出てこないので、この記述はいかがなものか、というご指摘をいただきました。
そこで調べてみました。
まず、エリオットの訳書を見てみますと、以下のように書いてありました。
「レドクリフト(Redclift, 1987, p.32)は持続可能な開発という言葉は、1970年代はじめにおける環境と開発に関するココヨック宣言(Cokoyoc Declaration)の時に初めて用いられたことを示している」(エリオット、太田一男監訳書、203ページ)。
ということで、エリオットもレドクリフトの受け売りであること、またこの訳文自体が、ちょっと意味が曖昧であることがわかりました。
そこで、エリオットが依拠しているRedcliftのSustainable Developmentという1987年の本を調べたのですが、あいにく大学には原著がありませんでした。そこで中村・古沢両氏による訳書の該当箇所を探してみたところ、以下の通りになっていました。
「永続可能な発展という用語は、1974年の「環境と開発に関するココヨク宣言」〔国連とUNCTADが共催した会議〕で使われた」(レッドクリフト著、中村尚司、古沢広祐訳『永続的発展 環境と開発の共生』学陽書房、1992年、61ページ)
この本ではSustainable developmentを「永続可能な発展」と訳しています。しかし、肝心の部分は、ここでもやはり、曖昧な訳し方になっています。
ココヨック宣言を見る限り、用語としての「持続可能な開発」ではなく、それと同様のアイデアが示された、という以上のものではないので、訳文自体に問題あり、ということになるようです。
両方とも原著が今大学にないようなので、原著での記述を確かめる機会があればまた訂正を加えたいと思います。ご指摘を下さった方に感謝申し上げます。
ココヨク宣言
http://www.southcentre.org/publications/conundrum/conundrum-06.htm