研究ノオト37 ナショナリズム

2002/8/29 第1稿

 

【テクスト】

 

姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年、第1章、122ページ。

 

【目次】

I ナショナリズムの近代

1 ナショナリズム、近代の「病」か「救済」か

2 <自然>と<作為>のあいだ

3 ナショナル・アイデンティティとナショナル・ヒストリー

 

【内容】

I ナショナリズムの近代

 

1 ナショナリズム、近代の「病」か「救済」か

 

 ホブスボームは1990年に、ナショナリズムの近い将来における衰退を予見し、ナショナリズムが峠を越えたという議論を行った。しかし、自信のなさと未来の不透明さへの不安は、ネオ・ナショナリズムという形を取って現在も根強く存在しており、グローバル化に対してネイションへの同一化をはかろうとする人々も少なくない。

 

 とはいえ、グローバリゼーションや市場原理主義によって、ナショナリズムの未来が閉鎖的であることも事実である。ネグリとハートが「帝国」的主権という形で表現しているように、近代的主権はいわば破綻しつつあり、グローバル・ガバナンスとしての帝国が、脱中心的な権力のネットワークの中で支配力を行使している、とみることもできる。こうした状況に対して、アイデンティティの確実なよりどころとしてのネイションが再評価されていく動きが存在している以上、ナショナリズムが完全にその力を失ったとは言い難い。

 

 ネイションとナショナリズムの定義はつねに茫漠なものとしかなりえないが、最大公約数的な定義としては、エルンスト・ゲルナーによる、「政治的な単位と民族的あるいは文化的な単位が一致しなければならないと主張する政治的原理」という定義がある。ゲルナーのナショナリズム論は、産業化の過程に基礎をおいており、その意味で近代主義的な把握である。これに対してはすみすのような土着主義的把握という反論もあり得るが、いずれにせよ、政治的単位と民族的・文化的単位の一致を「伝統」とみなすことにナショナリズムの特質があると考えて差し支えない。

 

 ネイション・ステイト(国民国家)やナショナリズムが近代において登場したと言うことは、近代はナショナリズムなしには存在し得なかったということである。ナショナリズムに「病」と「救い」の両義性があるということは、その両義性はまた、近代の両義性でもあるということになる。

 

 ナショナリズムの「病」の側面に関しては、なだいなだやギデンズのように、ナショナリズムを世俗的な宗教としてとらえる見方や、バリバールのように国民国家が「非国民」を創出し、包摂と排除のメカニズムを駆動させていく中で、ナチスに代表されるような破壊的倒錯に至ってしまうという見方がある。

 

 一方、ナショナリズムの「救い」の側面に関しては、バーリンのように、それが優越した外部の「他者」による傷を癒すという、大戦後の第三世界やフィヒテにおいてみられるような側面を評価する見解がある。そして、丸山真男や司馬遼太郎が論じたように、明治期日本の「健全」なナショナリズムが、その後軍国主義に基づく超国家主義という「魔の季節」を迎えていった、という歴史把握にも「救い」「病」としてのナショナリズムが歴史的条件の中で変容していくという議論もある。

 

 こうした、いつが「救い」であり、いつが「病」であるか、という、「救い」と「病」の境界設定の仕方事態が、その人の、ネイションの自意識を「反映」したものだということができる。

 

2 <自然>と<作為>のあいだ

 

 近代とは単数ではなく、ナショナリズムもまた単数ではあり得ない。それらは常に、複数の「近代」,複数の「ナショナリズム」として把握されるべきである。そして、どのナショナリズムにも上記の両義性が付随している。

 

 ここで重要なのは、ネイションをめぐる観念の二重性である。それは、清水幾太郎「人為的結合剤」と「自然の傾向」という言葉で表現したように、ネイションというものが、自生的な共同体として現れると同時に、作為的な抽象的統一体という面をも持っているということである。換言すれば、「想像の共同体」(アンダーソン)としてのネイションには、ゲゼルシャフト(直接的な対面的関係を超越)としての面と、ゲマインシャフト(平等な同胞としての内部)としての面があるということをも意味する。大澤真幸の言葉を借りれば、ネイションの本質的な特徴は、「普遍主義が特殊主義の形式において現象するという逆説」にあるのである。

  

 ナショナリズムの議論の系譜として、ルナンなどに代表される近代主義的なネイション把握がある。これは、自律した個人の自発的な政治的選択による創造・想像としてネイションをとらえるものである、そこでは前近代的な共同体との断絶が前提されている。こうした作為的なネイション観念は、ナショナリズムがデモクラシーと結びつくことによってモジュール化され、世界へ流布していくことになる。

 

 近代的自由と国家秩序を組み合わせてナショナリズムを「合理化」しようとする試みは、丸山眞男に典型的にみられるように、後発国近代知識人の多くが共有していたものであった。その一方で、モジュール化されたナショナリズムは、大衆市民の従属や動員を容易にし、過剰殺戮への道を開く契機ともなったのである。

 

 近代主義的なナショナリズム理解に対してアントニー・スミスが展開したのは、エスニック的・土着的・系譜的な要素の強調であった。彼はナショナリズムを、市民的・領域的要素(西欧的)とエスニック的・土着的要素(非西欧的)との混合体としてとらえたのである。ただしこの二つの要素は現実にはそれほど明確ではなく、実際にはグラデーション的に現れる。

 

 スミスのネイションの定義は、「歴史上の領域、共通の神話と歴史的記憶、大衆的・公的な文化,全成員に共通の経済、共通の法的権利・義務を共有する、特定の名前のある人間集団」というものである。そして、「国体」としての明治国家は、ネイションの二重性、自然と作為の絶妙の配置によって成り立っていたネイションである。もちろんネイション内部の多様性はそれによって消え去るものではなく、それら文化的マイノリティの位置づけ、という問題は常に存在し続けた。そうしたマイノリティに対する包摂と排除のメカニズムが近代日本において駆動する中で中心をなしたのが、「国体」という観念である。

 

3 ナショナル・アイデンティティとナショナル・ヒストリー

 

 テッサ・モーリス・鈴木はアイデンティティを、記憶,意味,自己決定に関する個と集団の終わりなきインタープレイの過程においてとらえるべきであると考えている。そしてナショナル・アイデンティティは、そうしたインタープレイを、ナショナルな文化、帰属、共同体、歴史の中に織り込んでいこうとするものだと考えることができる。

 

 ナショナル・アイデンティティは、各種制度、価値、シンボル、神話、儀式などを通して人々を「国民」として社会化していき、自己のよりどころを与えてくれるものである。

 

 日本のネイションを考える上では、スミスが示唆する分析枠組みとしての領域、歴史、共同体という三つの媒体が重要である。領域に関しては、日本の文明化と「辺境の民」の同化という基本的な流れの中で、国民国家の境界が実際の対外関係の問題としてと同時に、地理をめぐる言説上の境界を巡る抗争としても現れていった。歴史に関しては、「野蛮」と「文明」をアジアと西欧に対して巧妙に使い分ける日本版オリエンタリズムという問題があり、共同体に関しては、既述の通り「国体」という概念設定が問題となる。

 

II 「国体」ナショナリズムの思想とその変容

 

第1章 基本的な視座

 

 ネイション創出に際して動員される、伝統,神話,記憶に関しては知識人が果たす役割は決定的である。それは、グラムシにおける知識人とヘゲモニーに関する議論からも首肯できる。

 むろん現在においては、吉本隆明が「大衆共同性から上昇的に疎外された大衆」であると同時に「支配者から下降的に疎外された大衆」である、というような知識人像は保ち得なくなっている。現在は知識人の崩壊は明らかで、大衆はミニマルな文化を持つ小規模集団,個人の多層的なネットワークの中に組み込まれているのである。

 

 とはいえ、とりわけ過去においては、知識人の果たした役割は重要であった。近代日本における知識人・知識階級の登場は、大正後期にさかのぼることができる。そこでは、制度的知識人は体制としての「国体」を、自由知識人は文化としての「国体」を、それぞれ担っており、両者は複雑な対立関係をはらみつつ存続していったのである。

 

 以下の議論において、4つの視座が設定されている。第一は、美の論理と政治の論理というデュアリズムで、そこでは美的ロマンティシズムと政治的表象作用間の絡み合いが問題となる。「国体」とは、松浦寿輝が述べるように、その内容よりも不変性・不可侵性を語ることに意味があるようなものであり、その語られ方の中に日本の「国体」ナショナリズムの特質をみることができる。

 

 第二は、「国体」の境界の弾力的可変性で、ここでは「不純」な他者との異種配合と内部の「純粋性」をめぐる言説戦略が俎上にあげられる。第三は「国体」の心象歴史imaginative historyとでも呼ぶべきもので、かつて丸山真男が「縦軸の連続的無窮性」と表現したような、「国体」に付与されるイメージの解析である。

 

 第四は、「国体」的なるものの「内破」と「外破」であり、前者においては国体の純粋性の神話に挑戦し批判を試みた北一輝、後者においては「日本」の自明性を問い直した網野史学をあげることができる。ただし、網野史学的な中世史像の焼き直しは、それが近代以降の歴史とどのように連続し、断絶しているのかという検討を十分に試みる必要がある。

 

 というのも、単に自民族中心主義思考を脱構築するだけではすでに不十分だからである。なぜなら、「それだけでは<帝国>としての『国体』、あるいはトランスナショナルな<帝国>の有力な支柱に転化しつつあるグローバル・パワーとしての『日本』=『国体』を脱構築することにはなりえないからである」。つまり現在のナショナリズムの戦略は、<帝国>化する「国体」とでも言うべきものなのであり、「国体」ナショナリズムの脱構築と<帝国>批判が結びついたものでなければ、批判として有効とは言えないからである。

(以下略)

 

【コメント】

 

 ナショナリズムに限らず、あらゆる包摂と排除の機構としての境界設定が両義性を持つ、ということを認識の出発点としつつ、それでも「病」の分析を近代日本において敢行し続けることに賭けていく、というのが、ここでの、そして他の文献を含めての、姜尚中さんの立ち位置である、と考えて大筋では間違いではないと思います。

 

 新味としては、ネグリ&ハートに依拠しつつ、グローバリゼーションによって国家主権が解体しつつある、という主張によってナショナリズムを叩くことの意味が薄れる、というような方向性に対して、改めて再批判を加えつつ、網野史学的な議論をさらに発展させていくことが必要である、という主張を出して行っている点をあげることができそうです。

 

 しかし、ネオ・ナショナリズムとそれ以前のナショナリズムの位相差はここでは若干不当に閑却されているような気もします(「国体」という言葉の概念史、という面を含めて)。たとえば、これからの社会が価値の多元性に立脚した公共空間の創出、といった方向性を取るべきであるとするならば、ナショナリスティックな主張もまた、そうした公共性を共有しうる限りにおいては、存在し続けることを否定することができなかったりするようにも思えるのです。

 

 たとえばロマンティック・ラブ・イデオロギーとラディカル・フェミニズムの対抗関係と同型の状況として・・・どのようなセクシュアリティを生きるかは根本的には非決定的であるべきだ、というのならば、両者は相互に否定し合うことができるのかどうか、という論理はナショナリズムに対しても適応可能か、など・・・。もちろんナショナリズムが「病」として人類に惨禍をもたらした面は否定できず、そうした他者の声を聞き入れないようなナショナリズムは攻撃されてしかるべき、なのですが。

 

 どのような境界設定であっても「病」と「救い」は創出されざるをえないのか、そうでないものがあると考えること自体が両義性の隠蔽に他ならないのか、などなど、このあたりになると宮沢賢治論ともエコーする話になってくるように思うのです。

 

 私はどちらかの立場に立ってどちらかを批判する、というよりも、人間の歴史の中でどのような両義性がその時代、その場所の人間や社会を規定してしまっていたのか、そのことについてある個人や集団や組織がどのように思考し、行動したのかを研究していく方に関心があるので、両義性の問題に関しては姜尚中さんともう少し違ったつきあい方になるのかもしれません。

 

 また、近代的な知識人像が崩壊しつつあるという現状認識の中で、この種の議論の意味、さらには姜氏自身がこのような議論を行うことの意味とは何か、ということに関しても、もう少し知りたいな、という気はしています。

 

【参考文献】

 

大澤真幸編『ナショナリズム論の名著50』平凡社、2002年。

 この本は非常に便利です。確か文化人類学編、そしてフェミニズム編が出ています。

 

(芝崎 厚士)

 

 

 

 

 

 

 

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