研究ノオト36 自我の起原1:性現象と宗教現象

第1稿2002/9/1 第2稿2005/08/06

 

【テクスト】

 

真木悠介「補論2 性現象と宗教現象—自我の地平線」真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年、165—196ページ。

 

夏の宿題第二段ということで、『自我の起原』にとりかかりましょう。真木悠介氏(見田宗介氏)の議論は、一昨年の『気流の鳴る音』、昨年の『宮沢賢治』に続き、今年三冊めにあたります。第1回めは、昨年の宮沢賢治からの流れ、そしてこの3つの作品がいわば三部作のように響き合うことがよくわかる、補論2から入っていくことにします。

 

【目次】

 

01 欲望の導火線

02 <狂者の拘束衣>

03 自我という罠。ルーパとリーラ

04 禁欲の戦略

05 「ほんとうの神」

06 嫉妬と聖位

07 百鳥含花一場もら

 

【内容】

 

01 欲望の導火線

 

 ボート・ピープルたちの漂流生活の中で、乳飲み子を抱えた若い女性が一番はじめに死んでいったという。そのことは、類の再生産のメカニズムという<自然>が,時には<文化>を媒介としてまでも貫徹してしまうものであることをも示している。

 

 わたしたちの性の欲望とは個を超えたものの力、すなわち遺伝子の再生産の力によって先取りされているものとして、私たちの欲望の中心をなしている。私たちは、遺伝子の再生産に反逆する形でそれを享受することもできるが、その際に得ることのできる歓びは、類がわれわれという個にあらかじめ装填しておいた感覚に依存せざるを得ない。

 

 性とは、「個という存在の核の部分にはじめから仕掛けられている自己解体の爆薬」であり、個体は、「個体の固有の<欲望>の導火線にみちびかれながら自分を否定する」。

 

02 <狂者の拘束衣>

 

 吉本隆明は宮沢賢治の生涯を、「公に意味をもった存在」となることへの願望から、「透明にそれを否定しきるような場所」へとたどっていった過程と表現している。しかしここでの「公」と「私」という言葉の示す地平は、賢治自身の生涯の核の部分を表現しきれていない部分があるように思われる。

 

 吉本のもうひとつの賢治評として、賢治の日蓮、法華経信仰がまるで<狂者の拘束衣>のように彼をしめつけていった、という見解がある(賢治の実家は浄土真宗)。これはもちろん、第一に法華経と賢治の間の異和、としての拘束であるが、では実際には何と何が拘束されていたのか?

 

 普通、宗教と性の関係について予想される<拘束>とは、宗教が性を拘束すること、宗教的観念によって性的な欲望が拘束される、というふうに観念される。しかし賢治の場合、事態は全く逆だった。「小岩井農場」に明確に語られているように、むしろ、性が宗教、より正確には、万象と共に至上のさいわいに到ろうとすること、を拘束していたのであり、その限りにおいて、彼にとって、「恋愛」や「性欲」は、「変態」に他ならなかったのである。

 

 賢治の宗教観、というよりも宗教を通して持っていた「万象至福」としての原的な願望は、いわば特定の「神」「仏」等の観念を超えた志向を持っていた。それは、類や万象の内に散開し交歓する欲望であり、直接に類的、あるいは超類的なものであったし、それは、科学、芸術、文学といったさまざまな形をとりうるものであった。

 

 この万象至福への願いこそが、法華経の党派性と相剋せざるを得なかったのである。そして、こうした類的­・超類的志向もまた、性の欲望と同様に、自己を否定する装置である。

 

 性現象と宗教現象とは、賢治のようなやり方でも、またその逆を行ったフロイトのようなやり方でも、一方を他方には還元できないものである。それらは、「自我がじぶんの欲望を透明に追い求めてゆくと、その極限のところで必ず、自己を裂開してしまうという背理を内包しているという、おなじひとつの形式の、異なる位相をとった反復である」。そして、「それは個の自我という現象の存立の構造のうちに原的に仕掛けられている、もうひとつの炸裂力だ」。

 

03 自我という罠、ルーパとリーラ

 

<性>とは、「個の身体の核の部分にあらかじめ仕掛けられている解体の罠」であり、<宗教>とは、「個の自我の構造の核の部分に仕掛けられてある裂開の罠」である。しかしこうした見え方は、あくまで自我を絶対視するような、個我の身体性を核に据えた地点からの見方に過ぎない。

 

 その位相を転倒してみれば、すなわち、身体や意識の方こそルーパ(つかの間の形態)であり、リーラ(永劫の旅,終わりのない戯れ)としての<宙宇>こそが実体であるという感覚に依拠するならば、むしろ自我の方が罠であり、拘束衣なのである。

 

04 禁欲の戦略

 

 賢治の<禁欲>を示す一例として、賢治に好意を持ったとされる女性の作ったライスカレーを食べなかった、という事件がある。「そういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大事といふ当たり前のことになりますから」という手紙からも推測されるように、この一見小さな事件は、賢治の生涯を賭けた営為の岐路としてとらえることも可能である。

 

 ちなみに賢治は、禁欲の「理由」として、労働、性欲、思索の三分説(どれか2つまでは可能だが、三つ全ては不可能である)ということを話していたという。この場合でも、性欲の抑圧が先行していたのではなく、むしろ思索(詩作)と労働への欲望が先行していたのである。

 

 そして、ライスカレーとは、自分を育ててくれた、地元有数の豪商であり、命がけで自分を病気から守ってくれた父に代表される家族の恩愛と同義のものだったのである。彼は自分が持っている万象至福の志向を貫くために、<独りであること>へ固執し、ほんとうに広い場所、真実の場所へ立とうとした、そのためには、そうした「愛」の連鎖から自分自身を切り離さなければならなかったのである。

 

 ライスカレーは、自閉のためではなく自己を開くために、「これ以上は身に受けてはいけないもの」としてとらえられていたのだった。

 

 「どんなナショナリズムも、愛をエゴイズムに転回する装置である」。家族とは、あらゆるナショナリズムの原素態であり、賢治は、そうした共同体の愛、エゴイズムからの亡命をはかり、コスモポリタンとして亡命し抜くということに賭けていた。性は<自我>を裂開する力、であると同時に、また限定する力であり、賢治は<禁欲>による共同体の愛からの脱出を、そして排他の否定へと向かったのである。

 

05 「ほんとうの神」

 

 性と宗教はともに、内部においては他者と結合し、外部とのかかわりにおいては他者と切り離すものである(バタイユに対する反論として)。

 

 『銀河鉄道の夜』における問答が示すことは、死が立ち止まらせる場所=その死のときに信じていたものである、ということであり、ある宗教を信じることは、降車駅を予約することである、ということである。しかしジョバンニは登場人物達各々の宗教の外部にいる。カンパネルラもどこかで降りてしまうが、ジョバンニはどこにも降りない。彼が持っている切符は、「どこまでも行ける切符」なのである。ショバンニの宗教に対する態度と、賢治の性に対する態度はその意味で通底している。

 

 しかし賢治は、法華経というひとつの宗教を最後まで捨てることはなかった。それは賢治に、固有の敵からの解放と資質的直感の言語化という点で助けになった。法華経は、生家の真宗に対する、宗教批判として、ひとつの宗教からの解放としての役割を果たしたのだが、同時に賢治は、法華経の教義性、党派性という桎梏を強く感受せざるを得なかった。

 

 性や宗教は、既にみて来たように、自己を裂開し,限定するものである。そして両方とも、何度でも人を裏切るものである。賢治は宗教に裏切られても、宗教を否定するのではなく、<ほんとうの>宗教を求め続けた。

 

 <ほんとうのもの>を求めることをやめるには、ある特定の宗教を信じて、<ほんとうのもの>はここにある、という、宗教、という方法と、<ほんとうのもの>はどこにもない、という、反宗教、という方法とがある。賢治は、そのどちらにも行かずに歩いていくことを選んでいったのでなかろうか。

 

06 嫉妬と聖位

 

 嫉妬とは、類の仕掛ける罠に対して自我が即座に打ち返す罠であり、愛という名のエゴイズムである。それはエゴイズムを倫理として意識する。

 

 賢治が晩年「敵」とみなした「慢」とは、<聖>であろうとすることの競覇、<他よりもすぐれて>自我を超脱するものであろうとする自我の欲望の背理であり、それは性における嫉妬と同型のものである。

 

 禅の「聖意階空」とは、悟りを捨てることに最終的に帰着する。にもかかわらず、悟りの競覇に満ちているのが禅者の世界であるという矛盾がある。

 

 並び立ち、互いに相犯さない世界はあり得るか、という賢治の言葉は、この同型性を見据えたものであろう。「百の恋愛が並びたちしかも互いに相犯さない世界というものがあるのだろうか。億の明悟が並びたちしかも互いに相犯さない世界がいつか来るのだろうか」。

 

07 百鳥含花一場もら

 

 法融が陥りそうになった最後の罠から逃れることが出来たのは、自分自身を新しい視線で見ることができた故であった。賢治が辞世の歌のなかで御法を「みのり」のなかへ消去しつくしていることは、彼が法華経の教義性や党派性をつきぬけていこうとする仕方であり、<慢>という宗教の最後の罠をつきぬけていく仕方であり、賢治の生涯はそこに賭けられていたのではないだろうか。

 

【コメント】

 

 『宮沢賢治』、そして宮澤賢治のテキストをある程度読んでいないと、ちょっと理解するのが難しいところもあります。その分豊富な引用でカバーしているということになりましょう。

 

 まだはっきりと言語化できていませんが、『自我の起原』における、(1)遺伝子的な愛、(2)個の自己目的化によるエゴイズムという個体利己的な愛、(3)個の脱自己目的化による純粋な他者への利他的な愛、というテレオノミーの重層的非決定性と、『宮沢賢治』における(1)自我の羞恥、(2)焼身幻想、(3)存在の祭りの中へ、(4)地上の実践、がどうかかわるか、ということが、さしあたりの議論の出発点となるような気はしています。

 

 基本的には宮澤賢治における人生の4局面は、テレオノミーの(2)と(3)との間のかかわり、ということになるでしょう。しかし『自我の起原』においては、(1)のテレオノミーが加わっており、また歓喜の問題を論じるにあたっては、遺伝子(生成子)のテレオノミーは個体の内外を問わず、さらには種の異同を問わずにこの世界全体に作用する、という理解になっていることから考えると、テレオノミーの(3)においてもまた、生成子のテレオノミーが作用している、ということにもなるのかもしれません(たとえば繁殖の相手は同種の純粋な他者、であることが多いはず)。

 

 『宮澤賢治』では相対性理論の摂取に加えてヘッケル博士のモネラ仮説の影響が検討されています。賢治がそれ以外の当時の生物学をどの程度知っていたか、という点はどこまで検証されているのかな、ということがちょっと気になってきましたが、いずれ調べてみたいところです。(2005/08/06)

 

(芝崎厚士)

  

  

 

 

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