研究ノオト31 フーコー以後の政治学

2002/5/20第1稿

 

杉田敦「ミシェル・フーコーと政治理論」杉田『権力の系譜学 フーコー以後の政治理論に向けて』岩波書店、1998年、47−88ページ。

 

 竹内啓さんに続いて、今回は杉田敦さんの論文です。社会科学総論なら竹内氏、政治学総論なら杉田氏の書き物が、現時点では最良の部類に属すると思います。今回はフーコーに焦点を当てた話です。

 

1 フーコーの仕事

 

 本稿の目的は、フーコーの権力観が政治理論に与えた影響を、フーコーの仕事を概観し、それに対する政治理論家たちの議論を参照しながら考えていくことである。

 

(1)「考古学」と「系譜学」

 

 フーコーの方法論は、「考古学」から「系譜学」への移行、としてとらえることができる。「考古学」とは、ある時代においてあらゆる知識を秩序づけている、通常人々が自覚していない構造である「エピステーメー」を、後の時点になって発掘し、解明することである。その後フーコーはこの「考古学」を、「言表」の分析を通して、「知」を規定するルールを解明するという方向に洗練していった。

 また、「系譜学」とは、ある社会が持っている固有の「真理体制」に着目し、政治的・経済的な要請にもとづいて「真理体制」が何が真であるかを決定するメカニズムの生成・維持の歴史的過程を解明することで、権力と真理(およびそれを創出する「知」のルール)の相互依存関係を分析していくことだと考えられる。

 こうした移行は、フーコーに老いて構造主義の影響力が払底されていくと同時に、ニーチェ主義を全面に出すことで、マルクス主義批判が方法論的に徹底化されていく過程としてとらえることが出来る。

 

(2)権力

 

 フーコーの「権力」概念は、こうした方法論的な変遷に即して重点が変わっていく。

 『狂気の歴史』 (1961)における権力概念は、「排除」としての権力であった。排除・監禁・解放、といった歴史的な現象に着目したフーコーは、近代産業社会の支配的アイデンティティが、そうでない「他者」の排除によって成立していく過程の中で、権力が労働/労働不能、理性/非理性といった境界付けの作用を持つことを解明したのである。

 『監視と処罰』(1975)における権力概念は、「規律」としての権力であった。古典主義時代における公開の残虐な刑罰が、人間主義の時代に入ると、犯罪者の身体・魂の改造だけが目的とされるようになるが、その歴史的な変化の背景には、「これこれをするな」と禁止するネガティブな権力から、「これこれになれ」と強要するポジティブな権力へとの変化があることをフーコーは見いだした。そして、近代における「客体」としての人間が、誰かの一貫した意図の下ではなく、あらゆる社会を広く覆っている「規律」のテクノロジーによって創出されていることを明らかにしたのである。

 『性の歴史』(1976−84)における権力概念は、「生命に対して積極的に働きかける権力」としての「生−権力」であった。性に関する言説が、「牧人=司祭型権力」による「臣下=主体化」が作用する「告白」のテクノロジーによって形成されていく過程の中に、個々の主体の意思を超越した「戦略」としての権力を見いだしたフーコーは、そこに「死なせる」権力から「生命を経営・管理し、増大させ、増殖させ」ようとする権力への転回があることを指摘し、近代の人間が、主体としても客体としても生かされていくメカニズムを描き出したのである。

 

 こうした、人間が主体として、そして客体として形成されていくことに関しては、すでに『言葉と物』(1967)において議論されていたことである。『監視と処罰』ではそうした知と規律の関係が、心理学・統計学・犯罪学が人間を客体化するテクノロジーとして機能し、『性の歴史』では精神分析理論が主体化に貢献した点が指摘されている。『性の歴史』の時期においては、さらにマイネッケの「国家理性」論と「性−権力」論との共犯関係についての言及がある。

 

(3)ローカルな抵抗と知の分散化

 

 フーコーは『性の歴史』において、古代ギリシャの主体の「自己への配慮」という、現在とは異なるありようを描き出したが、彼はそうすることで現在の主体のありように対するオルターナティブを提示しようとしたわけではないと言う。フーコーはあくまで、他の可能性があるということを示すことで、単に異議申し立てをするだけである。

 こうした批判のあり方は、「ローカルな抵抗」とでも呼ぶべき物である。それは、次から次へと登場し、偏在していく権力に対して、「正しい」状態を想定し、普遍的な真理にもとづく「革命」のようなものをめざすのではなく、それらの、社会のあらゆる場に存在し、貫かれている権力に対してその都度、アドホックに抵抗し続ける一種の永久運動のようなものである。

 したがって、知識人はもはや何でも知っている普遍的な存在としてではなく、「特定領域の知識人」としての役割を果たすことになる。

 

2 フーコーをめぐって

 

(0)政治学に与えた影響

 

 フーコーが政治学に与えた影響は大別して二つある。

 第一の影響は、権力と主体の関係に関するものである。それまでの政治学では、「ある主体が別の主体に及ぼすもの」という権力概念が主流であり、それはダール、ミルズ、バクラックとバラッツ、ルークスといった議論の変遷の中でも一貫して維持されてきた。それに対してフーコーの議論は、従前の権力概念の核となる「主体」自体が権力の所産であるとみなし、同時に主体の意思に還元不可能な権力の存在を示すことで、これまでの権力論の基礎を崩壊させると同時に、これまで言及されなかった新たな権力のありかたを提示したのである。

 第二の影響は、権力の所在(および性質)に関するものである。それまでの政治学では、権力は「国家」に集中している、と考えられてきた。それに対してフーコーは、権力は国家を含めた我々の「社会」の隅々に偏在するものであり、しかもそうしたミクロ的な権力はアドホックなものであるが故に、権力全体と対決したり、権力から最終的に解放されるという可能性を否定していったのであった。

 以下では、そうしたフーコーに対する批判を4点に分けて整理し、論じる。

 

(1)近代の人間主義への評価の問題

 

 テイラーやハーバーマスは、フーコーの近代批判が、近代社会が持っている正負両面の打ち、マイナス面を強調し、プラスの面を過小評価する傾向があると論じている。また、主体であれ客体であれ人間に押しつけられたものであり、どちらも本質的ではないと考えるフーコーの議論は、客体化権力への抵抗の拠点を主体に求めるような理論とは両立しがたいと筆者は考えている。

 

(2)フーコーの立場の規範的基礎づけ

 

 現状を批判するためには何らかの規範意識が必要であると考えるフレイザーやハーバーマスは、フーコーが、抵抗を主張していながらその規範的基礎付けを示していないと批判している。筆者は、フーコーが自らを「歴史家」であると主張し、その仕事から実践的提案を極力排除してきたとしても、あらゆる言説が社会的実践であるというフーコー自身の議論から、フーコーの批判もまた免れ得ないと考えている。

 

(3)フーコーの言説の地位

 

 テイラーやハーバーマスは、「真理体制」が言語表現を司っているのであれば、なぜフーコーはそれを批判することが可能なのか、そしてなぜフーコーの理論が優越性を主張しうるのか、という、フーコー自身の批判の根拠に対する根本的な疑問を持っている。こうした「自己言及」のパラドックスはフーコーに限らず、ウィトゲンシュタインなども含めた20世紀哲学全体の問題であり、それをアポリアとみるかどうかはさらなる議論の必要があると筆者は考えている。

 

(4)抵抗の拠点をめぐって

 

 ウォルツァーは、フーコーが国家権力の重要性を過小評価していると批判し、そのことと関連して、フーコーの抵抗が、最終的解決や外部に出る可能性を否定しているが故に基礎付けが不十分であるとハーバーマスやテイラーは考える。フーコーの反論は、抵抗の自然発生性を素朴に前提としすぎており、課題としての抵抗と実践としての抵抗の関連づけが十分でないと筆者は考えている。

 

コメント

 

 明快な文体と簡にして要を得た整理力。杉田さんの書き物が政治学研究者に限らず、広く読まれ、受け入れられるのは、知的な誠実さとそうした技量の高さ故であると思います。単なる輸入学問に過ぎないのではないか、西洋人の思考の後追いをして勉強した気になっているだけではないか、という批判をしようと思えばできないことはないのかもしれませんが、前回の竹内さんの議論からもわかるように、既存の議論との対話なしには学問は進まないわけですし、また杉田さんの他の仕事を見てもわかるように、こうした摂取を経て、自分なりの議論が進んでいくということもあると思います。

 著述を全部読んだわけではないですが、フーコーの文章を読んでいると、「この人ってホントに頭良いなあ」と素直に感心させられます。それは丸山真男やソクラテスの言葉に初めてふれたときと同じような知的な感動でした。翻訳調の、あるいはフランス語の文章構造自体から来るとっつきにくさも、慣れてくるとかえって意味を取り違えないで読めるようになってきます。

 ほんとうに1行1行、考えに考えた自分の思考を彫りつけていっているという感じがするんです。彼の主張に賛成できるかどうかは別としても、この人の思考の動きを追体験するだけで純粋な知的感興が得られるというような文章だと思います。

 

 さて、杉田さんの議論自体に関してですが、最大のポイントは、杉田さんも含めた政治理論家たちとフーコーは、果たして同じ立ち位置から物を言っているのだろうか、という点になると思います。つまり、政治理論家が議論をするときにこうであるべきであると考えている前提や知的なマナーを、そもそもフーコーは共有しようと思っていたのか、ということです。

 私が思うに、フーコーはもっと自由な人だったと思います。というか、出来る限り自由になりたいと思い、またそうなろうと試み続けた人だったと思うんです。本論文の後半における批判は、政治理論家が政治理論を論じる際にはこうであるべきなのに、フーコーはそうなっていない、というスタイルで展開されている印象があります。しかしたぶんフーコーは政治理論家にはなりたくなかっただろうし、そのマナーを共有しようとは思っていなかっただろうと思うのです。そこに、後半の批判とフーコーの間のギャップがあると思います。

 確か『性の歴史』の第2巻の冒頭だったと思うんですが、フーコーは自分がなぜこういう研究をするのかと自問し、それは自分の好奇心を満たすためだと書いています。「自分自身からの離脱を可能にする好奇心」という言い方をしています(第2巻の序文)。この序文は、フーコーが書いた文章の中でも私が一番好きな文章の一つですが、フーコーには「おまえはこうだ」と言われたくない、誰からも何からも(もちろん自分自身からも)自分を規定されたくない、というような願望があったように思います。

 つまり、こういう物の見方をしている彼、そしてそもそも学問という知の形式自体を問うている彼の議論は、ある特定のディシプリンを素朴に発展させるための足がかりとして使えるのかどうか、という疑問があるわけです。

 それから、もう1点ですが、後半の部分の批判は、仮説と実体を混同しているように思います。私が思うに、フーコーの立場は、あくまでそういう立場可能であると前提して物を見、書いていく、という以上の物ではないように見えます。しかし政治理論家たちは、そういう存在が実体として可能なのか、またそういう主義をとることで現実を換えることが出来るのか、というスタイルで批判を加えているように見えます。とすると、ここにもまた両者の間のすれ違いがあると思うのです。

 そもそも、フィクションとしての仮説(〜であると考えてみる)、存在としての実体(〜である)、倫理的命題としての主義(〜でなければならない)という3つのレベルを峻別するのは科学的思考の初歩だと言われています(竹内啓氏の著作など)。テイラーやハーバーますよりもむしろフーコーの方が、この区別をきっちりつけているようにさえ見えるのですが、どうでしょう。

 

 ということで、屁理屈をいくつかこねてみました。私個人の見方としては、フーコーというのはひたすら逃げていく人だし、たとえ実存においては不可能であっても、またそういう観点から不可能だと言われたとしても、人間の思考が許す限りの自由な仮構の上から一気に物を見渡すことを選び取った人だと思うんです。

 こういう思考が単なる夢物語に過ぎないかというと、そんなことはないと思います。

現実には存在しない物を思考の上で仮設することから、科学が発展し、人間の社会が発展してきたといってもいいくらいだからです(たとえば、長持ちしてしかも食べやすく新鮮な食物缶詰 なんて言う例が東大出版会の『新工学知』シリーズに載っています。)。新しい物の見方や考え方、既存の物の見方にとらわれないでもより「よい」考え方で物を見ていくことが出来るんだ、ということを示すような試みとして、フーコーをとらえてみるのがいいのではと思います。

 

 もちろん、今の世の中に生きている以上、そういう考え方が出来ても、現実の制約からその考え方の持ち主が逃れることが出来ないわけです。しかしそれは挫折でも矛盾でもないはずです。こうなると宮沢賢治とフーコー、みたいな話にもなってくるのですが、とりあえずこの辺にしておきましょう。

 

参考文献

 

杉田敦『権力の系譜学 フーコー以後の政治理論に向けて』岩波書店、1998年。

杉田敦『権力』岩波書店(思考のフロンティア)、1999年。

杉田敦『デモクラシーの考え方』ちくま新書、2001年。

佐々木毅、鷲見誠一、杉田敦『西洋政治思想史』学文社、1995年。

 

中山元『フーコー入門』ちくま新書。

フレデリック・グロ『ミシェル・フーコー』文庫クセジュ。

桜井哲夫『フーコー』講談社新書メチエ(知の教科書シリーズ)。

内田隆三『ミシェル・フーコー』講談社現代新書。

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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