演習室22 学問史からみた国際政治学の歴史

Seminar22 International Relations as historical construct: view from the Disciplinary History

第1稿 10/19/2001

 

【テクスト】

 

Brian Schmidt, "The Historiography of Academic International Relations", Schmidt, The Political Discourse of Anarchy: A Disciplinary History of International Relations, State University of New York Press, 1998, Chapter 1, pp. 15-42.

 

今回は、学説史(disciplinary history)の分野から国際政治学の歴史を分析した若手研究者ブライアン・シュミットの労作の冒頭部分を紹介します。この部分は、以前にReview of International Studies, v.20 (1994),pp. 349-367に掲載されたものとほぼ同内容です。

 

【目次】

 

(introduction)

1 The Historiography of Political Science

2 The Historiography of International Relations

3 Traditions: Analytical and Historical

4 Contextual Approaches to Disciplinary History

5 Critical Internal Discursive History

6 The Political Discourse of Anarchy

 

【内容】

 

(introduction) 略

 

1 The Historiography of Political Science

 

 政治学の歴史を研究することに関しては、これまでに様々な論争が展開されてきたが、なかなか合意を見ることは少なかった。その原因としては(1)政治学史における歴史解釈には、現時点の自己の属する立場の自己正当化としてなされる種類のものが多かったこと、(2)政治学へのアプローチが多様化してきたこと、(3)歴史の多元性に対する許容度が浸透したこと、などがあげられる。

 

 そうした状況を端的に表しているのが、1990年にAPSR(American Political Science Review)誌に掲載されたシンポジウムにおける議論であった。このシンポジウムにおいてドライチェクとレオナルドは、コンテクスト重視アプローチ(context sensitive approach)を採用する必要性を主張する。彼らによれば、歴史を明らかにすることと、それによって自己正当化を図ることを切り離すことはできず、また唯一の正しい歴史というものも存在し得ない。したがって、ある特定の時間と空間という固有の文脈において、その学問が持っていた意義と限界を明らかにすることが必要となる。バターフィールドが定式化した「ホイッグ史観」は、自らが如何に正しいかを過去にさかのぼって明らかにしようとするものであるが、それと同時に、ガンネル、ファー、サイデルマンといった学説史家達の取っている懐疑的な立場は、現在の学問のあり方が如何に誤っているかを立証しようとするものであり、いずれも現在中心主義(presentism)的であり不十分である、というものである。

 

 これに対して、ファーは唯一絶対の正しい歴史が不可能であるとしても、より中立的なアプローチは可能であるとのべ、サイデルマンはドライチェクとレオナルドは彼ら自身が批判する問題点を彼ら自身が脱却していないと論じ、またガンネルは、現在中心主義にもよいものと悪いものがある、として、研究者の言説実践(discursive practice 調べてみたんですが、discursivediscourseの形容詞形として使っている、と考えて良いようです。辞書の意味の部分には載っていないことが多いようですが、大きめの辞書の語源の部分には載っていました)を系譜学的・考古学的に分析する内在的アプローチ(internal approach)を提唱している。(ガンネルの弟子である)シュミットは、こうした内在的アプローチを、国際政治学の学説史を展開する際に適用する。

 

2 The Historiography of International Relations

 

 マーティン・ワイトがかつて述べたように、主権国家によって課された知的な偏見と、国際関係が国内政治においてそうであるようには進歩主義的な解釈になじまないことから、国際理論が希少かつ貧困であることは否めない。そして国際政治学の学説史もまた、単に数が少ないだけではなく、その歴史が当たり前のものであると見なされてきた故に、まともな研究が存在しなかった。

 

 これまで紹介されてきた「歴史」は、たとえば「パラダイム」の変遷であったり、「論争」の変遷であったりしたのであるが、これらは実際の歴史過程を表現したものであるとは言えない。このような状況をもたらした原因は、第一に、国際政治学が古代ギリシャから現代に至るまで連続する伝統を持っていると仮定してきたこと、第二に、国際政治学の史的展開が実際の国際関係事象の変化に従属すると仮定してきたこと、である(シュミットに拠れば両方とも、誤りを含んでいる見解なのである。第一の点は3で、第二の点は4で敷衍される)。

 

3 Traditions: Analytical and Historical

 

 国際理論を含む政治理論全般は、古代ギリシャから現代まで連続した伝統、言い換えれば「偉大なる伝統(great tradition)」を持っていると自己主張することを好む。しかしガンネルに言わせれば、こうした主張は単なる神話にすぎない。こうした主張の背景には、「分析的伝統(analytical tradition)」と「歴史的伝統(historical tradition)」の混同、という事態があるという。

 

 分析的伝統とは、ある種の観念・テーマ・ジャンル・テキストを機能的に類似したものであると見なすことで、歴史を非歴史的に再構成していくことであり、まさに現在中心主義的な歴史に対する態度である。歴史的伝統とは、ある特定の言説枠組みの内部で諸観念が伝達される慣習的実践の自己構成的なパターンをさす。

 

 偉大なる伝統を分析的伝統の立場から認めるとしても、たとえば国際政治学の場合、ほとんどの古典において国際関係は副次的にしか扱われてはいないし、その議論は多様である。しかし、ウォーカーに拠ればこうした現実があるにもかかわらず、こうした「偉大な伝統」は、(1)ツキディデス、マキャベリ、ホッブス、ルソー、カント、グロティウスといった先達が国家間関係の政治の本質を明らかにしている、と位置づける、そして(2)カー、モーゲンソー、ウォルツたちもまた、そうした「偉大な伝統」の一員として連続的につながっている、とみなすというかたちで扱われているという。

 

 こうした位置づけ方は、コヘイン、ギルピン、ホルスティなどに見られるように、ほとんどすべての国際政治学者の記述にみられる。これらはまさに、過去をそのまま再構成するのではなく、一貫性や連続性という伝統を創出することで、現在の国際政治学のあり方を正当化する現在中心主義的な歴史把握なのである。

 

4 Contextual Approaches to Disciplinary History

 

 もう一つのとらえ方は、国際政治学の展開をその時々に起きた事件によって説明するという「文脈主義(contextualism)」である。しかしシュミットに言わせると、文脈主義もまた現在中心主義から免れておらず、また方法論上の問題点も存在する。

 

 ホフマンは有名な論文「アメリカの社会科学としての国際政治学」(とでも訳せばいいでしょうか)で、第二次世界大戦の結果として、アメリカにおいて国際政治学が成熟していったのであり、国際政治学はアメリカの社会科学なのである、という議論を行った。アメリカで国際政治学が発達した理由として彼は、(1)科学主義的傾向や亡命学者の影響により形成された知的風土、(2)大学の発達や政府と大学の積極的な交流といった制度的な機会をあげるが、最大の原因は(3)アメリカが超大国となったことにある、という。アメリカの超大国化は研究者に国際関係を研究することを誘発し、またリアリズムと政策論の関連が研究を促進したのである。

 

 もちろんシュミット自身も、国際関係の変容と国際政治学の変容が無関係であると考えているわけではない。しかし、例えば国際環境の変動と国際政治学における学問上の変容との関係を厳密に説明できるわけではないのではないか、と彼は考えるのである(ソ連のアフガン侵攻とネオ・リアリズムの誕生にどのようなactual connectionがあるのか、など)。したがって、国際関係の変化を踏まえつつも、学問の内在的な変容をより厳密に捉えていく必要があるのである。

 

 これまで、文脈主義的なアプローチから国際政治学の歴史を書いてきた人々には、こうした厳密な論証が欠如しており、彼らは基本的には現在中心主義的な視点から、歴史を後ろ向きに書いてきた(writng history backwards)のである。だからこそ、国際関係現象の変容と学問内在的な変容とをいったん分離して考えていかなければならないのである。

 

5 Critical Internal Discursive History

 

 そこでシュミットが採用するのが「批判的言説内在アプローチ(critical internal discursive approach)」である。彼はこのアプローチによって、「学問としての国際政治学を構成してきた議論の歴史を可能な限り正確に再構成する」ことを目指している。様々な過去の文献を元に、19世紀後半から20世紀初頭までの議論を対象に、こうした分析を行うのである。

 

6 The Political Discourse of Anarchy

 

 その際に中心的な概念となるのは「アナーキー」である。「主権」と「アナーキー」は、国際政治学における最も重要な概念であり、これらの概念の扱われ方の変遷を核に据えることで、国際政治学の学説史は有効に展開されるのである。

 

【コメント】

 

 かなり大ざっぱにまとめてみました。ともかくこの研究はある意味でかなりpath-breakingなところもあり、出版を知って即座に手に入れたときに興奮を禁じ得ませんでした。彼が狭い意味でのIRの研究者ではなく、学説史研究者であったことによって、かなり大胆な議論ができているところもありますし、なによりこうした過去の時期の国際関係に関する議論をこれだけ深く読み込んでコンサイスに紹介したものはこれまでなかったので、非常に有益でした。

 

 第一に述べなければならないのは、アメリカのIRが如何に非歴史的な歴史解釈を行ってきたかということを方法論的にしっかりと暴露したことにあると思います。「分析的伝統」と「歴史的伝統」との混同、現在中心主義(これはpresentismに対する私の訳です。いろいろ考えているのですが、他によい訳があればご提案ください)は、科学主義に染まりやすいアメリカの社会科学の浅薄な歴史観の根底にある問題点であると言うことができるでしょう。

 

 (研究ノオトのイッガースを参照していただければと思います)歴史は単なる過去の事実の集合ではない、などということは、社会史やアナール学派、ニュー・ヒストリー以降の歴史学の展開を踏まえていれば当然の話なのですが(本当はそれ以前から優れた歴史家の仕事はそうであったのですが)、歴史に対して歴史学的な感覚を持ち合わせないままジグソーパズルのように好き勝手に操作しがちな風潮があるのは残念なことだと思います。その辺に対する繊細な手さばきを身につけずに社会科学と歴史学を合成しようとすると、あるいみちょっといびつな歴史解釈が生まれるように思います。

 

 第二に、お師匠さんのガンネルに寄り添ったかたちで、シュミットは第一の点に対して猛攻撃を加えているのですが(笑)、ここで問わなければならないことは、ではなぜアメリカの国際政治学者達は学説史としての国際政治学という研究をないがしろにしてきたか、ということでしょう。シュミットの批判は、ある意味無い物ねだりなのではないかな、とも思うわけです。つまり、もともと厳密な意味での歴史学的な研究など目指していない人々の歴史記述を、シュミットが習ったようなマナーでやっていないという理由から批判している、というところがある気がします。

 

 別の言い方をすれば、アメリカの国際政治学者達にとって過去の歴史とは、そういうものとして考えておけば十分なものでしかなかったということなのでは、と思うわけです。そのことを研究者のモラルの欠如、あるいは国際政治学の学問としての構造的欠陥と見なすこともできるように思います。ただ、なぜそうなってしまったのか、ということも考えてみる必要があるわけです。

 

 私は「文化としての国際関係論」、つまり、戦争や外交といった、国際関係の様々な現象だけではなく、国際関係論という学問や、そういう学問をやっている研究者そのものが一つの国際関係現象であり、研究対象であるのではないか、ということを最近考えています。こうした立場に立つ場合、歴史を軽視する、あるいは非歴史的に考えて国際政治学を膨大な規模に発展させてきた人々や集団や制度自体、20世紀特有の現象であった(今も続いていますが)と言うことになるように思います。

 

 ここからは全くの思いつきですが、国際政治学のこうした状態は、20世紀の激動を何とか「科学的」に説明するためのブリコラージュ的な努力の継続の結果だったのではないでしょうか。方法論的な洗練やディシプリンとしての自立性・一貫性は喧しく主張されている割にはそれほど発達してこなかった国際政治学ですが、それよりもむしろ、いかにして刻々変化してゆく国際関係を説明し、了解するかという実践的な目的に奉仕することが常に優先事項であったように思うわけです。

 

 シュミットに言わせればこれは「文脈主義的」な解釈ではないか、と言うことになるかもしれませんが、彼自身文脈を否定していないわけですし、また、過度に言説内在的な発展過程を信じてしまうのも私は懐疑的です。テクストそのものに現れる思考は、そのテクストの著者やその週を含めたその時代や場所を包んでいたすべての思考のほんの一部でしかないと思うので。

 

 第三の点は、シュミットが分析の核に「アナーキー」を据えたことの妥当性です。6の部分でその理由を説明していますが、私には彼が「アナーキー」を選んだ理由が、まさしく彼が批判するところの現在中心主義に影響されてしまっていることを示しているように見えます(本全体の結論部分にもそうした傾向があるような気がします)。アナーキーや主権は確かに戦後の国際政治学にとって死活的な概念ですが、それ以前の歴史をはじめからその視点から見ていいのかな、とちょっと思ったりします。本論を見ると、確かに「アナーキー」と「主権」で切ってかなりうまくいってはいますが、本当はそうした予断をおくべきではなかったようにも思うわけです。

 

 もちろん、こうした仮説をおいて話を進めなければまとまりませんので、それ自体は仕方ないのですが、個人的にはたとえば、通説通りアナーキーと主権の話で国際政治学が形成されてきたんだよ、という結論よりも、最初はそう思ったのが実は全然違う話で国際政治学ができあがってきたんですよ、という風に落ちが付いてほしかったような気もしているというわけです(笑)。

 

 それにしても、こうした比較的正統的な歴史学的、もしくは思想史的研究が今後IRや日本の国際関係研究にどこまでしっかり根付いていくのでしょう。厳密には、こうした「文化としての国際関係論」をやる場合、既存のIRや国際関係研究内部のいっさいの理論的な立場から自らを引き離して、いわば彼らを研究対象として突き放して分析する醒めた姿勢が要求されるわけですが、それは国際関係研究の仲間に入れてもらえるのか、はたまたシュミットのように違う学問分野からしか発言できないのか、その辺が微妙なところです。

 

(芝崎厚士)

 

 

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