演習室19 ネーションの自意識の学としての日本外交史研究

Seminar19 Study of Japanese diplomatic history: exploring the nation's self-perception

01/09/08 第1稿

 

【テクスト】

 

酒井哲哉「日本外交史の『古さ』と『新しさ』−岡義武『国民的独立と国家理性』・再訪」『国際関係論研究』第13号、1−20ページ。

 

【目次】

 

1 はじめに

2 アジア主義・脱亜・ナショナリズム

3 大正デモクラシーと国際協調主義

4 共同体的社会構成と主権国家秩序

5 おわりに

 

【内容】

 

1 はじめに

 

 近年、外交史研究に対して、政策決定者のみを分析対象とすること、理論と没交渉な実証主義、内政と外交を分離する現実主義的変更、といった視野の狭さに対する非難がなされてきた。このような、いわば古い学問としての体質から外交史研究が危機にあると考える人々も多い。

 しかし、こと日本外交史の研究を瞥見する限りでは、そうした批判や危機はそのまま妥当するとは言い難い。なぜなら、第一に、日本外交史は、二国間の外交交渉史のような古典的な業績は予想外に数が少なく、政策決定にかかわる分野が多い。第二には、政策決定分析は外交指導の巧拙だけではなく、内政と外交の相互関係をマクロな構図で描き出すことで、両者の不可分性を重視している。第三に、思想史との境界も不明瞭であり、そうした曖昧な領域を抱え込んでいるのである。

 以上のような伝統を持つ日本外交史の現状と課題を、岡義武の「国民的独立と国家理性」を軸に、その後の研究の展開を会わせて史学史的に分析することで明らかにしていくのが本論文の課題である。

 

2 アジア主義・脱亜・ナショナリズム

 

 近代日本の対外論は、「アジア主義」対「脱亜」のイデオロギー対立として、前者から後者への移行という構図によって描かれることが多い。それは具体的には明治期における、日清提携論清韓改造論大陸進出論という変遷として現れるのである。岡義武もこの構図に従って議論を構築している。

 しかしその後の研究は、こうした基本的理解に対して挑戦を試みている。たとえば『明治・思想の実像』の著者坂野潤治は次のように主張する。彼によれば、アジア主義とは「思想」ではなく単なる「表現」に過ぎず、その「実像」は論者の権力政治的な状況判断の分析を通してはじめて理解できるというものである。筆者は坂野の主張は的確であり、外交政策としてのアジア主義は日中戦争期までは成立する余地はなかったと述べるが、しかし、アジア主義と脱亜がコインの表裏をなすようなアイデンティティの言説的構成がどのように歴史的に形成されたかという論点が次に残ると考える。

 アジア主義と脱亜のコインの表裏的な関係が成立していく過程を考察する上では、松沢弘陽の『近代日本の形成と西洋経験』における福沢諭吉に関する議論が重要な示唆を与える。松沢によると福沢諭吉は、西欧文明論の使徒という通説的イメージに反して、西欧文明論のオリエンタリズムに敏感であったが故に西欧文明論への同化に警戒的であり、日本が国民国家として「独立」するために国産の文明を「始造」せねばならなかったのであり、むしろ「国民論派」の議論に近かったのである。筆者は、こうした西欧中心の単系的発展論への同化を超える多系的発展論への潜在的指向性が、彼らまたは以後のアジア論の構成にどのように織り込まれたかを検討することが次の課題であると考えている。

 福沢が持っていた文明論の二重性、すなわち西洋に対して独自性を、アジア諸国に対して優越性を、という議論がどのように構成されうるのかを研究したのが、Stephan TanakaJapan's Orientであった。タナカは、明治啓蒙期の文明史が抱え込んだ、西欧中心主義的な進歩概念の中にどのように非西欧圏に属する日本を位置づけるかというアポリアが、「東洋」概念の構築を通して、西欧諸国に対する文化相対主義とアジア諸国に対する文明化の理論を両立させる言説的構成が誕生することによって解消されたと論じ、アジア主義/脱亜の二項対立図式ではなく、両者が共振するような言説空間の構造を問題とした。筆者は、西欧−日本−アジアの三者関係に伴うアイデンティティの揺らぎが「東洋」概念の構築によって調整される認識論的機制の分析が次の課題となると考える。

 ではそもそもなぜ、アジア主義対脱亜という構図が最初にたてられたのであろうか。それは、そもそも福沢の「脱亜論」が戦後になってから「再発見」されたことに現れるように、戦前の帝国主義的遺産を断ち切るとともに、戦中期に萌芽的にあった問題設定を戦前の文脈の中に生かすため、真に対等な主権国家間の「アジア連帯」の思想を帝国主義成立前の歴史の中に探し求めようとすることが1950年代に課題となっていたためであった。

 とはいえこうした、近代日本のアイデンティティ形成に伴う葛藤に着目する視座は、その後の外交史研究からは徐々に欠落していったものであり、岡の議論から得られる示唆はいまだに多いのである。

 

3 大正デモクラシーと国際協調主義

 

 岡の議論に置いては、1920年代に対する評価はかなり低い。それは岡だけではなく、1920年代に対する冷淡な評価は、1930年代から1950年代にかけて共有されていた。その理由は、1920年代に提示された古典的自由主義の行き詰まりに対する構想がいずれも問題の本質的解答にはならなかったとみなされたためである。

 しかしその評価は1960年代に入って後、当時の安定した国際政治経済体制の起源を探る問題関心によって肯定的に再解釈されることによって変化した。たとえば「大正デモクラシー」という概念は戦後になって作られたものなのである。この概念が戦後支持されるようになったのは、安保改訂時の民主主義擁護運動に象徴されるような戦後における市民的政治意識の成長が背景にあり、大正デモクラシー概念には戦後民主主義理念の戦前期の萌芽として捉えようとする問題意識があったのである。岡たちはこうした後の世代に再評価に対して反発していた。

 また、マルクス主義との対抗関係から、日本政治外交史研究は二つの方向性を持って転回されていった。ひとつは、一枚岩の「支配層」の存在を設定するマルクス主義史学に対して、明治憲法体制の割拠的・分立的構造を指摘しつつ官僚・政党・軍部といった様々な行為主体の多次元的競合関係を対置させることである。もう一つは、日本における近代化の特殊性を強調する講座派的見解に対して、いくつかの側面において逸脱があるとしても、日本の歴史的経験は基本的には欧米諸国のそれと対比可能なものとして扱えることを示すことである。

 こうした傾向を持ちつつ70年代に日本外交史研究は隆盛を迎えるが、それは、「市民社会派的な規範関心に基づく日本政治の後進性を強調する議論を締め出していく指向性」を持つという意味で、現代日本政治研究の方向性と軌を一にしていたと思われるのである。こうして日本外交史研究は対外論やアイデンティティを解釈学的に分析することから、政策決定過程を実証主義的に研究する方向へと傾斜していくのである。

 しかし、こと国際連盟体制に対する評価は、依然として岡の否定的な評価と同じ判断を下している(連盟体制の研究はきわめて少ない:私個人の意見では、国際連合に対する戦後の同時代的な評価と関係があるのではと思います(芝崎))のである。

 1920年代の日本外交における国際連盟の位置づけをどう考えるか、という問題は、国際連盟を通して、主権国家体系のアナーキー構成をどう考えるべきか、という問題でもあった。たとえば横田喜三郎は新カント派的な発想から主権概念を否定して国家の相対化をはかり、戦争違法化の流れをもっとも肯定的に評価した(満州事変においても日本政府を批判した)。立作太郎は国際連盟は国際社会全体とは同一視できず、あくまで個別国家の集合体に過ぎないとみなし、また戦時国際法の有効性を否定する流れに対して批判的であった。

 また、吉野作造は幕末以降の自然法的な万国公法観念受容の分析によって日本における近代的政治意識の形成を位置づけようとしており、その観点から国際連盟に肯定的であった。いっぽう岡義武は同時期の国際関係観は基本的には万国公法に対して否定的であり、国際関係を弱肉強食として捉えていたと指摘しており、その観点から国際連盟に対して否定的であった。

 とはいえリアリズム的なこうした判断で片が付くほど、近代日本の主権論は単純ではない。その複雑な位相は岡自身によっても十分意識されていたのである。

 

4 共同体的社会構成と主権国家秩序

 

 岡は30年代のアジア主義に対しては両義的な評価を下している。岡は1930年代のアジア主義を、一方では「アジアへの回帰」がアジアの擁護者としてではなく、アジアの支配者としての回帰でしかなかったと否定的に評価している。しかしその一方では、東亜連盟論や東亜新秩序論を、新秩序の構成員の対等性やフェデラリズム的構成という基準から肯定的に評価しているのである。

 当時は、自由放任経済の破綻に象徴されるように、近代市民社会論の核である契約説的社会構成は、行き詰まりを迎えているとして批判の対象となっていた。国際秩序論においても同様に、近代主権国家による原子論的社会構成と機械的民族自決主義に世界秩序の無政府状態の原因を求め、それにかわって、協同体原理に基づく国際秩序という有機的社会構成への変革が説かれていたのであった。

 こうした協同体的社会構成への関心を読み解くという問題意識は、ニコラス・オヌフの一連の仕事にも現れている。オヌフは、国際関係思想において有効なのはリアリズム/リベラリズムという対置構図ではなく、リベラリズム/共和主義である。前者は個人や国家という自己関心的な独立的主体を想定して社会を道具主義的に導出するのに対して、後者は社会的結合関係を独立主体に先行するものとして考えるのである。

 東亜協同体論にはこうしたオヌフの言う共和主義の特徴を共有している部分があった。戦間期における主権批判は、(1)これまで国家主導の専管事項とされていた領域を何らかのかたちでより上位の国際機構に吸収していこうとする「普遍主義」的方向と、(2)国家を教会・都市・職能団体という社会集団を並列的に扱うことで、国家主権の絶対性を剥奪していこうとする「多元主義」的方向があったが、こうした批判は国家に回収されない「社会」という領域の自律的な存在の発見という大正期の思想の転回があったのである。

 こうした関心が大正期以降、さまざまなかたちで国際秩序論の中に織り込まれている。たとえば、多元的国家論を視野に入れつつ機能主義的な議論を展開した蝋山政道の国際秩序論・国際行政論は、機能主義的統合論、レジーム論、そしてガヴァナンス論などといった現在の国際関係論の議論の先駆的業績である。

 

 (矢内原忠雄、平野義太郎などについては省略)

 

 以上のような動向を踏まえると、岡の両義的な評価の理由も理解できる。彼は、フェデラリズムを多元主義的な発想に基づいて、水平的な団体間の連合像を国家間連合に読み込んでいく場合、国際秩序としては肯定的な評価を与えることが可能であるという立場に立っていたのであった。しかし実際には当時構想されていた「広域圏」秩序は日本の主導国としての優越性をはじめから前提下ものが主流であったのである。

 

5 おわりに

 

 岡の論文は、対外論を素材にしつつ近代日本における「主権」と「ネーション」に関する一種の精神史を描き出そうとしたものであった。その意味で岡にとっての外交史は、ネーションの自意識の学であった。彼の分析は、人民主権に支えられたナショナリズムと市民社会論的関心を重ね合わせる、という同時代的な特徴=限界を持っていたし、その後の研究はその制約を乗り越えてきてもいる。しかし、残された課題も依然として重要であり、とりわけ、岡が問題とした「主権」や「ネーション」といった国際関係論のもっとも基本的な概念の歴史的・社会的構成それ自体を問い直す作業は冷戦期にはいわば凍結されてきたのであって、その意味で岡の「古さ」の中から「新しさ」を読み込んでいくことには意味があるのである。

 

【コメント】

 

 

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