演習室17(4) 見田宗介『宮澤賢治』(第3章)

Seminar17-4 Mumesuke Mita, Miyazawa Kenji, Chapter 3

01/08/16 第1稿

 

【目次】

 

 第三章 存在の祭りの中へ

  一、修羅と春−存在という新鮮な奇蹟

  二、向うの祭り−自我の口笛

  三、<にんげんのこわれるとき>−ナワールとトナ−ル

  四、銀河という自己−いちめんの生

 

【内容】

 

 第三章 存在の祭りの中へ

 

  一、修羅と春−存在という新鮮な奇蹟

 

 賢治の自己規定としての修羅は、偏在する光の中をゆく孤独な闇、として在る。それは存在の地の部分である存在それ自体の新鮮な奇蹟を感受するものであり、カルヴァンに見られる近代西欧の主体が抱く、偏在する闇の中をゆく孤独な光としての主体像とは全く逆のものである。

 

  二、向うの祭り−自我の口笛

 

 賢治の<向うの祭り>という心象をもっとも明確に知ることが出来る「花椰菜」という短編においては、疎外感と同時に、自我の防御の取り払われた状態としての解放が描かれている。そこには<解放><融合>と同時に、<羞恥>がある。賢治は農民たちからも、そして役人からも疎外されており、祭りの中へ入っていくことを一瞬しか許されない。彼は役目という、橋渡しと同時に疎外の源であるものに拘束されているのである。

 

  三、<にんげんのこわれるとき>−ナワールとトナ−ル

 

 近代的自我にとって、自我を取り囲む周囲は自我を解体し、死へと連れ去る闇であるが、賢治にとってそれは光でもあった。

 賢治が自我の解体する場所と見ていたのは、いわば<万象回帰の場所>、すべての存在の根源となる場所であった。そこでは自我はルーパに過ぎず、すべてがひとつに溶け合うのであり、そこは闇ではなく、たのしくあかるい根源への出口なのである。

 <万象回帰>の場所で賢治は、「日常合理の世界と自我のかなたに向かってほとんど無防備に開かれてあることの戦慄のようなもの」を感じ、個我をひとつの牢獄として感じ、分身散体していく願望を抱く。

 そうした自我の解体の危機において賢治は、<いつまでもまもってばかりゐてはいけない>と言う。<がいねん化>することによってひとは、<トナール>のなかにとどまって安定を得ようとする。しかしそれは<ナワール>に、存在の祭りに目を閉ざすことでもある。存在の根源である<ナワール>に飛び込んでゆくためには、<がいねん化>は自我の砦であり、自我の牢獄なのである。

 われわれは<トナール>の中で自明性を獲得することが「明晰」であると思いこんでいる。しかし実際にはその「明晰」は<ナワール>の前では意味をなさない。「明晰」には限界があり、我々にはどうにも説明のつかないものがあるということを知ってこそ、真の<明晰>へとたどりつくことができるのであるし、また自分の「世界」に裂け目を作ることではじめて<がいねん化>以前の世界である<ナワール>の大海へとこぎ出すことが出来るのである。

 

  四、銀河という自己−いちめんの生

 

 「おきなぐさ」は、そうした生命連環の恍惚を象徴的に表現している。その死には自己犠牲の暗さなどは一切ない。そうした死は賢治自身の死が<みのりに捨てる>という絶詠にあらわれているとおり、死に魅入られていた死ではなく、いちめんの生に魅入られていた死であることを仮設させるものである。

 

【コメント】

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

 

 

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