演習室16(3) 大森荘蔵『流れとよどみ』(7−9)
Seminar16-3 Shozo Omori 7-9
01/08/15 第1稿
【目次】
7 音がする
8 見る−考える
9 ロボットが人間になるとき
【内容】
7 音がする
音ははかないものであり、流れゆきすぎ去るものである。痛みや悲喜の情や時と同様、音は保存不可能であり、物ではない。にもかかわらず人は音を、出てきて・到達し・入る、ような物として考えがちである。
そうした考え方を代表するのが、音は音波=空気振動であり、音は揺れ動く空気の固まりであるという一般に流布している考えである。しかしこれは早とちりであり、誤解である。まず、「耳に入った空気振動がどうやって音を生むのか」が説明できない。頭の中で音がしているわけではないであろうし、脳細胞が音を聞いているわけでもないからである。では脳細胞が音を創っているのか?つまり近くは作られるものなのか?これも理解できない考え方であろう。
結局、本来無声映画である科学的描写によって声や音を説明することは不可能なのである。にもかかわらずそれが可能であると思いこんでいるだけなのである。自然世界の世界描写は六根抜根の説明なのである。我々はそれに音や声を付け加えればそれでよいのである。
8 見る−考える
幾何学上の線や点は厳密には見ることは出来ない、しかし白線の上で考えることは可能である。物事が現れる仕方には(1)知覚的な現れ方、(2)考えるという現れ方、の二通りがあるのである。
そういう意味では人間は常に「考える人」である。知覚的に現れるのは現在のただ今のことだけであり、過去や未来は考えるということによってしか現れることが出来ない。むろん考えることによって現れる映像には様々な相違はある。しかしそれらが考えられた映像であることにはかわりはない。考えられた映像は見つめる細部を持たず、不明瞭である。それに、人間は見るときには必ず考えている。
人間は、遅すぎること、小さすぎることを見ることは出来ない。ただそれを考えているだけである。考えられたものは見えないのである。そしてその考え方に差異はあっても、いずれも同じ世界を考えているのである。
9 ロボットが人間になるとき
「人間をどう考えるか」。人間観がすべての文化や生活の規定をなしている。この人間観は日本においては仏教や西洋思想の影響で屈折し、またヨーロッパでは地動説、進化論、フロイト理論によってどんどん人間の姿勢が低下していった。そうした姿勢の低下を気にしない、というのもまたひとつの人間観である。
そうした種々の衝撃の締めくくりとして現れているのが、「ロボットは人間か」という問いであり、それは裏返せば「人間はロボットか」ということを問うことでもある。この問いは「ロボットに心や意識があるか?」というかたちに変換することが出来るであろう。
実は、この問いに答える方法は未来永劫ない。というのも、科学的な方法によって心や意識の在処を証明することは不可能だからである。さらに、心や意識の在処を証明することが不可能であるということは、ロボットばかりではなく自分以外のすべての人間にも言えるのである。
むろん、心がある、と信じればそれですむのかもしれない。しかし実際には、「信じると思っている事柄自体が不可能」なのである。というのも我々は、他人の経験を自作自演で想像しているだけだからである。
これは哲学の分野では他我問題と言われており、様々な解決が模索されてきた。しかしこれは解決すべき問題ではなく、人間の理解の出発点にするべきものである。私は想像上の私の痛みに心痛しているのであると同時に、その心痛の対象は彼なのであって、それでよいのである。つまりそれが「彼が痛がっている」状態なのであり、彼を眺めている私と苦しそうな彼との間を想像上の私が飛び交っている状態なのである。そういう「飛び交い」があってはじめて、私は人間仲間の一員であるのであって、それがなければ離人症と呼ばれるであろう。
それは相手がロボットであっても同じことである。その飛び交いが生じれば、私は彼を人間だと見なすのであり、心ある存在であると見なすのである。
いわばこれはアニミズムであり、どんなものでも、それといかに交わり、いかに暮らすかで決まってくるのである。
【コメント】
(芝崎厚士)