演習室16(1) 大森荘蔵『流れとよどみ』(1−3)

Seminar16-1 Shozo Omori 1-3

01/08/13 第1稿 06/08/14 第2稿

 

【テクスト】

 大森荘蔵『流れとよどみ』(産業図書、1981年。『大森荘蔵著作集』第5巻所収)

【目次】

 はじめに

 1 夢まぼろし

 2 確率と人生

 3 記憶について

 

【内容】

 

はじめに

 

 本書の目的は、「世界と意識、世界と私、という基本的構図をとりこわすこと」である。こうした世界観は日常生活にも、科学にも浸透している。しかし、「世界と意識とをまず剥がしそしてダブらせるというこの構図は、錯覚であり誤解であると私には思われる」。それは思いこみに過ぎず、「意識のスクリーン越しに世界を眺めているように思いこむ」が、「実は世界の中にじかに生きているのである」。こうした積年の眩惑をはらう作業が、ここで展開される。

 

1 夢まぼろし

 

 夢まぼろしについて語ることは、そのまま現実について語ることである。何かを語ると言うことは、何かでないことを語ることである。それが物事の認識の根本的な仕方(分ける=わかる)だということでもある。

 夢やまぼろしは誰でも聞き間違いや見間違いという形で見聞するものである。ではなぜそれが「まぼろし」や「夢」であると思うのか。それは一言で言えば、「さわれない」からである。そこから反転して表現するならば、「現実」とは「さわれること」(接触)を核心に持っており、食、生殖、戦争に至るまで、接触こそは命の攻防の場なのである。

 こうして人が「現実」と呼ぶのは、「否応なく自分の命と生とにかかわるもの」のことである。したがって、苦痛や感情には、さわること同様にまぼろしはあり得ない。では、「夢」と「現実」にはどのような違いがあるのか。それは、「夢」=非在、「現実」=存在、という区別ではない。「夢」=生き死ににかかわらないこと、「現実」=生き死ににかかわること、という区別、すなわち人間的、さらに言えば動物的な区別なのである。

 そもそも人間は自分の生き死ににかかわる「現実」をほかのものと区別しようとする。いっぽうで「夢」はいわば、「そこに居ない間だけ語れるような」ものであり、よく思い出せないしとりとめがない。もし夢がもっとはっきり思い出されるのであればまた違った扱いを受けるのかもしれない。しかしそうでない以上、人間は「現実」と「夢」を区別しておこうとする。それは人間の動物的条件に根ざした「存在の分類」であり、いずれも存在するものなのである。

 

2 確率と人生 

 

 コインの裏表がそれ以前どうであろうとも次に投げるときには裏表が同じだけのチャンスを持っている。パスカルの神の存在証明にまつわる賭けの議論もそのことに基づいている。こうした数学的な事実としての確率は現在よく知られているが、人々が「確率」という言葉を使っているときには、もっと「把えどころのなさ」があるはずである。では人々は「確率」をどういうものとしてとらえているのだろうか。「数学的舗装」をはぎとって、その「捉えどころのなさ」をとらえていこう。

 そもそも確率的予言とは、両立不可能な二つの可能性を、次の1回に関して云々するものである。そうであるならば、1回きりの事件についてその確率の当たりはずれを言うことは無意味である。いわば確率とは過去の、これまでの結果を基にしてなされているのだが、人々が関心を持っているのは実際には未来の、次の1回のゆくえなのである。

 では、1回きりの個別的事件の確率が人々にとってもつ意味は何か?それは、「単なる個別の命題」としてではなく、「自分が生きる上での心構えの表現」なのである。」オースティンの議論に見られるような、真でも偽でもない物言いに、確率的予言は似ている。それはいわば、「来るべき人生への賭けの表現」なのである。それはまさに、自分の生活をそこに賭けていくという姿勢、「未来に立ち向かう構えの姿勢」、「覚悟のほどの表現」なのである。

 こうして確率論は、人々が生きていくうえで「過去を指針にする仕方の一つ」を提供しているのである。しかし実際には、「次の1回」が何によって導かれるかは誰にも分からない。

 

3 記憶について

 

 人間の記憶とは何か?それが問題である。人々は記憶を、写真のように「過去の写し」であると考えがちである。そうした過去の写し、形見、痕跡を、脳の中の機構が何らかの物質という形で蓄えていて、人はそれをもとに過去を思い出すのだと。

 しかし、こうした「写しの比喩」は誤解であり、錯覚である。まず第一に、「思い出す」という行為は、「知覚する」という行為とは全く異なるものである。たとえば記憶には、見つめることの出来る細部がないのである。記憶に浮かんだ風景は、目に見える映像とは違うのである。

 第二に、第一の点を受けて、もし記憶が「映像」という形ではなくなんらかの「残留物」(痕跡)として蓄積されている、と考えるならばそれも誤りである。そうした「痕跡」を想定すると、結局は「痕跡の痕跡の痕跡・・・」という形で無限退行にはまってしまうからである。

 結局人々は、過去を「じかに」思い出しているのであって、「写し」を使ったり、蓄えたりはしていない。思い出の中にはいつも過去に出会った人がいるのであって、それを直接思い出しているだけである。そういう意味では、過去は過ぎ去らないのである。

 むろん、脳のような機構は必要である。しかし、だからといってそこに「写し」(痕跡、形見、残留物)が蓄えられているのではないのである。

 

【コメント】

 

(2006年)

 

 大森荘蔵と真木悠介(見田宗介)。この二人が直接議論をしていたのかどうかわかりませんが、同じキャンパスに存在していたことは確かです。そのあたりの事情はさておき、双方の議論にはそうすることでさらにおもしろい視点が開けそうな、発展的な架橋可能性があると思っています。

 

 大森の議論の場合、最終的には「重ね描き」であり、どちらも等価である、とはいうものの、どうしても科学的描写や写しの比喩が日常の描写を説明できない、という論調になっていて、科学的描写ですべてを描き尽くしたと考えて、非科学的な描写は間違いである、というのは間違いである、という主張として議論が進んでいきがちです。

 

 真木的にみれば、科学的描写もアニミズムも、知覚的描写も想起的描写も世界の見え方としては1つの<トナール>の域を出るものではない、どちらも<明晰>ではなく「明晰」ということになるはずなので、見る・考える、科学・日常を重ね合わせるという場合、それらは無数にあるはずの世界の見え方としての<トナール>のうちの2つでしかない、ということになるようにも思います。つまり、科学・日常を重ね描いたとしても、その2つですべてになる、わけではない、というふうに。

 

 ただ、どの<トナール>を選ぶのか、という点での真木悠介の<自分の身を守る盾><統御された愚>としての「人のすること」が必要になってくる、という局面では、大森の言うところの、生き死にに関わる分類、動物的であるかつ文化的な分類、という指摘が効いてくるようです。ただし大森の場合、<ナワール>へ飛び込んで戻ってこれなくなるのを防ぐための分類、という風にはなってはいません。

 

 主体の主体性、という問題や、大森の「見る」と真木悠介の、というかドン・ファンの「見る」のちがいなど、いろいろとりあえずここまでにしておきます。

 

 

(2003年)

 

1 夢とまぼろしの区別

 

 夢やまぼろしは「現実」と同様存在するものであり、それは存在の仕方が違うだけであって存在しないものではない。いわば夢もまぼろしも「現実」も等しく<現実>=存在するもの、なのである。この発想は「存在の地の部分」である<世界>へ目を向けようとする見田さんの議論と重なっているようですね(夢の予兆が現実に登場する、賢治の作品世界)。

 

2 確率といえば・・・

 

 夢まぼろしと「現実」を区別する基準が、生き死ににかかわるかどうか、ということであるのと同様、「確率」もまた、人間の生活の賭けであり、心構えである。ここで「数学的舗装」によって純化された確率から、人々にとっての確率の意味を剥離させている手際は見事です。野球評論家を笑えなくなる・・・かもしれませんね。

 私がこれを読んで思い出すのは、やはり寺山修司の競馬論を中心とした一連のギャンブル慣例のエッセイです(角川文庫が一番手に入りやすい)。人生そのものもギャンブルなわけですが、人がなぜギャンブルに熱中するかを、大森説をもとに寺山説を読んでいくとさらにおもしろいと思います。ちなみに、私は自分の人生というギャンブルで精一杯なので、ほかのギャンブルは一切やりません(笑)。

 

 

3 過去も現在も未来も存在する

 

 これはもう直接に、見田さんのいう「時間のうちに生起する一切のものの永在性」という論点と接続できる話だと思います。見田さんも大森さんも、同じように仏教哲学をひきつけながら論じているところにも注目したいと思います。

(芝崎厚士)

 

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