演習室15 経済学の100年

Seminar15 Economics in 20th century

2001/06/25 第1稿

 

【テクスト】

 

宮本憲一「経済学の100年サスティナブル・ソサイエティ(維持可能な社会)の経済学を」『20世紀とは何であったか−新世紀の科学・学問を展望して−』(立命館土曜講座シリーズ8)立命館大学人文科学研究所、2000年、47−74ページ。

 

今回は経済学です。立命館での講演記録であるこの小冊子は偶然見つけたのですが、宮本氏だけでなく、網野善彦氏、大南正瑛氏の講演記録も力作です。

 

【目次】

 

1 国家と経済学

2 環境と経済学

3 サスティナブル・ソサイエティの経済学を

 

【内容】

 

1 国家と経済学

 

 冒頭で宮本氏は本論文の目的を、第一に資本主義経済制度と国家の関係について、マルクス主義経済学とケインズ主義経済学を検討することで考察し、第二に環境問題という衝撃を経済学がどのように扱ってきたかを考察することと述べています。第1節、第2節がそれぞれの考察に当てられており、第3節がそれらを受けた考察になっています。

 

 本節ではまず最初にマルクス主義経済学が検討されます。マルクスが資本論を書いた時期は、資本の蓄積に伴う貧困化や貧富の対立、差別の問題、景気循環の繰り返しの中での産業構造の変化による失業問題の循環的発生、地域経済の不均衡、発展する都市と取り残される農村の格差の拡大、といった資本主義の弊害が顕著に現れ、同時に、金融資本を中心とする独占体が成立し、独占体と国家が結びついた世界戦争が発生し、また、生産や生活の社会化の進行に伴って公共部門の増大し、国家が生産や消費の過程に全面的に介入し始めるという、資本主義の変化の時期でもありました。

 

 そのなかで登場したマルクス主義経済学は、(1)国家独占資本主義論、(2)社会主義的計画経済論の二つの理論を中心に構成されていました。計画経済を実現するために、レーニンは農民の土地所有権を廃止して集団化を進行させ、民主主義や自由を制約し、マルクス主義という国定イデオロギーに従って全生産、生活を統括するという中央指令型の一国社会主義体制を確立しました。それは経済発展に多大に寄与し、社会主義計画経済の「成功」は、資本主義が国家と独占体の癒着により国家独占資本主義になったことで全般的危機に陥ったという国家独占資本主義論の正当性を跡付けることにもなりました。

 

 しかし宮本氏に言わせれば、国家独占資本主義は「一つのドグマ」であったということになります。なぜなら第一に、国家と独占体が癒着しているという状態が、資本主義が瀕死の状態にあることを示していると考えた点。第二に、経済のグローバリゼーションに現れているように、資本主義の国際的な発展の可能性を読み切れなかった点、以上に点はともに誤りであったためです。実際には資本主義はこれ以降、さらに拡大発展して協力になっていったのであって、マルクス主義経済学はそれを読めなかったわけです。

 

 それに社会主義経済はさまざまな弊害を伴いました。そうした「マイナスの現実」としては、第一に、すべての生産手段や主要な生活手段を国有化した生産関係は、政治と経済の癒着を生み、また産業構造の変化に対応することができず官僚主義的な非効率を生んだこと、第二に、軍事態勢を維持する莫大な費用が経済発展を止めたこと、第三に、所得水準・教育水準の向上にともなって国民が求めるようになった民主主義、自由、文化の多様性に応えることが出来なかったこと、があげられます。

 

 さらに冷戦の崩壊が拍車をかけて、マルクス主義経済学は今ではかなり地に落ちてしまったかのように思われていますが、宮本氏にいわせると、資本主義の弊害をついたという意味で、マルクス主義経済学の考え方は有効性があるのであって、簡単に捨て去るべきではない、と論じています。このあと、彼自身の大学での勉強の話が入っていて、そこはなかなか面白いです。

 

 宮本氏はマルクス主義経済学を次のように総括しています。マルクスの理論は、資本主義分析は科学的だが、社会主義については科学的ではない。また、民主主義や自由が経済に与える影響についても明確な理論は作れていない。社会運動などに現れるように、政治やイデオロギーと経済との相互関係を抜きにして理論を成立させようとしたことに問題がある、というわけです。

 

 次に、ケインズ主義経済学についてです。ケインズの一般理論は、宮本氏によれば次のようなものです。20世紀の資本主義は民間資本の利潤率が低下してきて投資の動機を低めている。所得は消費需要と投資需要から成り立っており、所得が上がらなければ雇用も増えない。そこで、別な有効需要として財政支出、とりわけ金持ちから税金を取って所得を再分配することで得られる財政支出を使って所得を増やす。投資の意欲が低いために余った貯蓄で、赤字公債を発行して買わせれば財政支出はまかなうことが出来る。その結果として有効需要が増える。ということになります。

 

 この理論は、ニューディール政策の妥当性を示すとともに、戦後資本主義国家が国民のナショナルミニマムを保障しようとする福祉国家へと変貌していく理論的根拠にもなりました。しかし、資本主義が70年代初頭のニクソンショックや石油ショックによってこれまでにない同様をきたすに伴って、大きな政府のケインズ主義に対する批判が登場しました。

 

 たとえば「公共選択論」は、公共部門が非効率な活動をしている点を問題にし、経済は個人の自由な効用追求行為を前提とするべきであり、圧力団体・レントシンキング・官僚機構などによって非効率に運営される公共部門に頼るのは誤りであると論じました。また、「民主主義の赤字」の理論は、民主主義においては政府も市民も今の負担の軽い赤字公債に頼って財政赤字を増やしてしまうため、本来は民間財に回るべき資源が公共財にばかり回ってしまい、生産が停滞してインフレが起こる、と考えました。双方とも、ケインズ主義経済学へのアンチテーゼとして機能しました。

 

 ケインズ批判の最も強力なバージョンと言えたのが、いわゆる「新自由主義」です。これは、政府部門を縮小し、民営化、規制緩和、小さな政府、社会サービスの削減を実現する。と同時に累進課税をやめて平均的な課税制に移行し、また分権化を進める、ことを骨子としていました。そして、サッチャー、中曽根、レーガンの三人が80年代初頭に「新自由主義」を標榜して改革をすすめようとしました。

 

 しかし、この新自由主義にはいくつかの問題点があったと宮本氏は述べます。第一に、規制緩和は地球環境の危機、南北問題の深化をもたらしました。市場が利潤追求に走るあまり、資本主義は野放しになったのです。また、削減するはずの公共部門の割合は、実は増える一方だったという皮肉な結果に終わりました。生活の社会化の進展は、新自由主義によって止めることのできるようなものではなかったのです。結果として、新自由主義は改めて資本主義の持っている弊害を深化することになったというわけです。

 

 ではこれからどうしたらよいのか。宮本氏は、これからは「公私混合経済」、すなわち、公共部門と民間部門の間にある、中間的な部門(設け本位でやってもいけないし、かといって競争原理を排除してもいけない)が増加し、それを公共と民間が協力し合って行うべきだといいます。そのコラボレーションのための一つの方法が、「小さな政府、大きな自治体」という考え方です。これは、今後増大する部門は政府にはやらせない。かといって、地方の官僚制を肥大化させるべきでもない。自治体を核にしながら、NGO、NPO、ボランティア組織、協同組合部門などがパートナーシップを結んで、混合剤部門を担当していくという考え方で、これが一つのモデルになりうる、というわけです。

 

2 環境と経済学

 

 ここでは、宮本氏が実際に見聞して著した「しのびよる公害」、庄司光氏と共著した『おそるべき公害』という先駆的な仕事のできるまでを振り返りながら、論を進めています。宮本氏が四日市の公害を調べていて気付いた「理論的な問題」とは、第一に、GNPで図ると、公害問題はマイナスではなくプラスになって現れること。第二に、開発の結果起きたきわめて重大なマイナスが評価できず、逆にプラスに評価してしまうこと。でした。

 

 ぜんそくになるのは子供と老人が多く、彼らは労働力ではないので病気になってもGNPは減らない。しかし、病院に行くと病院の収入が増えてGNPが増える。また、開発しなければGNPは増えないが、自然を破壊して開発すればGNPは増える。公害や環境破壊はGNPという富の増大という尺度によっては実は逆接的にしかとらえることが出来ない、ということに宮本氏は気付いたわけです。

 

 そこでこうした「外部性」をとらえるために「容器の経済学」という考え方を生み出します。それは(1)環境や公害といった「外部性」として処理してきた問題を含めて、経済はそれらすべてを「総体」として理解すべきである、(2)経済の様々なシステムを「水」にたとえれば、生産基盤としての道路、港湾、空港、生活基盤として住宅、公共福祉施設、教育施設といった、国民の生産と生活がおこなわれているものはその「容器」である。(3)容器の経済学は、こうした「水」だけでない、「容器」をも含めた物として経済を捉えていくものである、ということになります。こうした考え方は宇沢弘文の「社会共通資本」概念とも共通するものがあります。

 

 なお、宮本氏によれば環境問題の特徴は3点あります。それは、第一に、被害が「生物的な弱者」に集中する点。第二に、被害者の多くが「社会的弱者」である点。第三に、その被害が「絶対的損失」をもたらす不可逆的損失である点、です。これを踏まえた対策の見当が必要になります。

 

3 サスティナブル・ソサイエティの経済学を

 

 1987年の国連賢人会議、そして1992年のリオサミットで人類共通の課題となった「サスティナブル・デベロップメント」。普通、「持続可能な発展」と地球を主体とみて訳しますが、都留重人氏や宮本氏は「維持可能」と地球を客体とみて訳すべきだといいます。

 

 「維持可能な社会」には5つの条件があり、またそれを実現するためには3つの経済的な手段があります。5つの条件とは、(1)平和特に核戦争の防止、(2)産業と資源の保護、(3)絶対的貧困の防止と経済的公正、(4)基本的人権の確立、(5)民主主義と思想・表現の自由、です。3つの経済的な手段とは、(1)直接規制、(2)経済的手段、(3)環境教育です。

 

 しかし、宮本氏はシステムを全体として変えない限り、こうした対症療法的な対策では限度があるといいます。そうしたシステム変更問題に関しては、次の二つの理論が参考になります。第一の理論は、都留重人やワイツゼッカーによるもので、労働を、他人に強制され所得のために働くという性格のものから、自ら満足できうる楽しく美しい仕事へ変えていくという問題提起です。第二の理論は、見田宗介によるもので、消費のあり方を、モノの大量消費ではない形、情報という生産あたりの資源活用度が少ないものを生かすことで消費したい欲望の矛先を変えていくという理論です。

 

 こうした理論を踏まえて、「成長しなくても満足するシステム」や「市場における『ディマンド』ではなく、社会の『ニーズ』に、『需要』ではなく『必要』に変えていくこと」が必要であると述べています。

 

 本当はこの後に結語として面白い部分があるのですが、そこは省略します。

 

【コメント】

 

 宮本氏自身の身につけた智慧としてとても勉強になったのは、(1)「日本の社会主義研究者の悪いところは、共産党が出した綱領、文献で判断する。そこには実行されていないことがたくさんある。」という話と、それからすでに触れましたが(2)環境と公害が進展するとGNPはプラスになる、とい話。

 (1)は古代ギリシャの哲学者が、言葉から事実を判断してはいけない。事実から言葉を判断するべきだ。と述べたことを思い出させます。(2)は、アマルティア・センの思想とも、そして見田宗介氏の思想とも共鳴するものがあります。

 

 それから、「生活の社会化の進行」という右上がりの現象が、経済学の100年という歴史にも通底しているという指摘はとても重要だと思いました。かつて杉田論文でもふれたように、規律・管理社会の進展という、フーコーがつとに指摘した近代性の特徴が経済の位相からもこのようにとらえられるのだな、という気付きです。これが国際関係論にどう響くのかは、まだ答えは出ませんが。。。

 

 ではとりあえずそんなところで。

 

(芝崎厚士)

 

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