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第1週目 水戸


はじめは、こんなに毎週毎週出払うことを
考えていたわけではなかった。

ただ、ANAの「超割」を使って、松山へ行こうと
考えていたのは、去年からのことであったが。

もともと、もっと東京から近くて、
遠出した気分になれるところ、
ということで、どこか探していた。

かつて、今のすみかを探したとき、
会社からある時間内で通えるところということで、
会社を中心にして、単純に円を描いて、
この辺りかな、と見当を立てたことがあったが、
こんな気もそんな感じで、
まだ行っていないところ、水戸にしてみた。

その気になれば、各停で行ってもいけなくはないのだが、
ここは、上野からスーパーひたちで急ぐことにした。

で、ここで見つけてしまったのだ。
「長野灯明まつり」のパンフを。

わたしは、明かりが好きだ。
東急ハンズでもロフトでも、
買わないことはわかっているのに、
照明コーナーには、ほぼ必ず立ち寄る。

間接照明の効いた空間も好きだ。
建物がライトアップされる姿も好きだ。
夏の飛びつく虫のごとく、光に吸い寄せられる。

この時点で、毎週お出かけが決定してしまった。
「長野灯明まつり」が、この水戸へ出かけた
翌週で終わりだというのだから。
さらにその次の週は、松山。

ま、いいや。2月は現実逃避の月にしよう。
2は逃げるとか言うし…

ということで、あっと言う間に
水戸へ着いてしまった。
この「スーパーひたち」、上野を出ると
次の停車駅が、水戸なのだ。

えーっと、水戸には何があるんだったか…
一応、日本三大庭園「偕楽園」と、
水戸黄門くらいは、わかるのだが。

ただ、納豆は却下。
いまだに食べたことがない。
というか、食べる動機が見当たらない。
食べなかったら死ぬのか?

そんな大げさなことではないはずなのだが、
なんだかんだと理由をつけ、
今まで食べてこなかったもので…

まぁ、行った時間も遅かったもので、
偕楽園だけでいいか、ということでそちらへ向かった。

どっちに行ったらいいのか、
周辺の地図を探していたときに、
こんなものを見つけた。


「ちゃっかり使用」ですか…
いやぁ、黄門様のお膝元だけに、
「うっかり使用」しちゃいました、
とか言って逃げられたり…
そんなことはないか。

少し距離があるようにも思ったが、
それほどでもなく千波湖に着いた。

千波湖は、偕楽園の隣接する湖。
水鳥たちは、人間になれきっているようで、
湖面から出ては、遊歩道に、
のこのこ出てきたりする。


そんな様子を高いところから、
黄門様が眺めている。

まったく「水戸黄門」のときの姿そのままだが、
実際にあのような格好を
していたときがあったのか、
非常に疑問が残るところではあるが。

だって、あの格好は諸国漫遊のとき、
というイメージがあるので、
諸国漫遊がフィクションだったら、
アレもフィクションじゃない?
とか思ってしまうのだが。

その水戸黄門像からちょっと進むと、偕楽園入口。
入り口に開ける風景に風車が。
風力発電でもしているのだろうか。
大きな風車のほうが、
発電量は大きいかもしれないが、
こういうくらいの風車のほうが、
風景に似合っていてよい。

また偕楽園には、梅林もある。
まずはじめに見えてきたのが、「窈ちょう梅林」。
ちょうは、「あなかんむりに兆」と書くのだが、
パソコンでは表示されないため、
ひらがなでご容赦願いたい。



まだまだ梅の開花には、早すぎる時期ではあったが、
ところどころ咲き掛けの花もあった。
別段、花に詳しいわけでもないが、
香りのする花は気になる。

光とともに好きなのが、ちょうどよいくらいの香り。
どうも嗅覚は敏感すぎて、
きつい香りはどうにも好きになれない。
効きすぎの香水なんていうのはもってのほか。
香水は、すれ違って「あっ」と分かるくらいが
自分にはちょうどいいな。

…ってそんなことはどうでよく。
季節としては早いわけだが、
花が開いているところでは、
微妙に梅の香りがした。

桜は桜でいいのだが、梅は目と鼻の二方面で楽しめる。
それに、桜は季節柄、出会いや別れなど、
純粋に花を愉しむには、邪魔なイメージもあって
どちらかというなら、梅のほうがいい。

その後は、彰考館・徳川博物館へ。
彰考館の名は、「彰往考来(=歴史を明らかにして未来を開く)」
という意味があるらしい。
この名は、そのまま時代を先取りしようとした
水戸藩の基本的な考え方に通じていると思う。

かつては、日本史を大の得意としていたくらいなのだが、
受験から遠く離れてしまった今となっては、
頭の片すみに、記憶のかけらが残るくらいのものだ。

しかし、ここではそのかけらにもなかった
新発見がいくつか。

(1)徳川光圀が作成し始めた「大日本史」は、
   1906(明治39)年に朝廷に献上された。

    ええっ〜。そうなのか!
    完成するのに何年かかっとんねん!という話で。
    スペインのサグラダファミリアと変わらんくらい、
    時間がかかっているのではないか。

(2)水戸藩主は、ほとんど水戸へ帰ることができなかった。

    水戸藩主は唯一、江戸定府を命ぜられた大名だったのだ。
    ということは…そう参勤交代がない。
    なので、めったなことがない限り、水戸には帰れず、
    生涯、水戸に帰らなかった藩主もいるという。
    
    ずっと江戸にいたために、ついた異名が
    「天下の副将軍」。
    水戸黄門で有名なあのフレーズには、
    こんなところにワケがあったのかっ。

(3)安政の大獄で謹慎した9代藩主徳川斉昭は、
   イタリアのボルタが発明したボルタ電池を
   再現してつくってみせた。

    これも初耳。そんなことができる人だったなんて。
    平賀源内みたいだ。

(4)光圀は、牛肉や豚肉、ラーメンに餃子など、
   今に通じる食べ物を食べてみたり、
   北海道へ探検隊を派遣したりするなど、
   好奇心旺盛な人物であった。

    これは、光圀だけではなく
    水戸藩主全般に言えることらしい。
    さっきの斉昭のボルタ電池もそうであるが、
    時代の中心にいるべき人物には、
    好奇心や先取りしようとする精神が必要なのだろう。

    ただ、失礼ながら、今の茨城県にはその精神が感じられない。
    推測するに、明治政府の時代になって以降、
    時代の中心にいることが少なかったからかもしれないが、
    今こそ、進取の気性を取り戻すことが肝要ではないか。
    そんなおせっかいな気持ちになってしまった。

(5)徳川博物館・友の会個人会員に石原伸晃がいる。

    どうしてなんだろう?何かつながりがあるのか?
    それとも水戸黄門ファン?気になるな…

まぁ、こんな具合でいろいろ考えをめぐらせ、
一通り楽しんだ後、メイン庭園の偕楽園・好文亭へ向かう。
時間が遅いので、もう好文亭内部には入れないのだが。

途中に、「大日本史完成の碑」なるものがある。
1906(明治39)年にここで完成した、ということなのだが、
何もないところで完成した、とはどういうことなんだろう?

当時は、何か建物があったのだろうか。
それとも、ここで完成式典みたいなのがあったとか。
これもナゾだ…

好文亭では、吐玉泉(下写真)をみたり、園内の大梅林をみたり。
義烈館はやっぱりタイムオーバーで閉館。
ただ、京都・龍安寺にある「知足の蹲踞」があった。
そうか、そういや「知足の蹲踞」は、
光圀の寄進だったっけな。


帰りは、わざわざ遠回りして、
かつて光圀が食べたというラーメン・餃子を
再現した「水戸藩らーめん・ぎょうざ」
を食べてきた。

やっぱりラーメンの基本は、塩だな
とは思ったが、取り立ててすごくうまい
とは思わなかった。

最後にひとつ。来た時は気づかなかったが、
水戸駅のベンチには、座布団がついていた。
こんな駅ベンチは、はじめて見た(笑)


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