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…ただ、そこにあるだけで


さて、と。
もう大晦日です。

ま、こんなときにしかじっくり
腰を据えて書くなんてことはできないし、
ここらでちょっと買いたい欲求を
外に出してみようか、
ということで、デザインについてです。

ちょっとデザインとは、関係がないように
思われるかもしれませんが…
最近、ほしいモノってありますか?
わたしは、あまりほしいものを
明確にイメージすることが
できなくなってしまいました。

雑誌を見たり、店頭で見かけたりして
ほしいというものに出会うことがありますが、
何かができるようになるから、
これが必要だ、とイメージしている「ほしい」ではなく、
なんか好みに合うとか、そういえばこんなものもいいな、
とかそういう「ほしい」なんですよね。

マーケティングの世界では、
顧客のニーズを逐一聞いていてはだめで、
感動や驚きを提供しなくてはいけない、
という経験価値マーケティングを説く本が、
増えてきています。

やはり、それもイメージできる
こんな風になれば、もっといいのにとか、
何かができることに対して、
それに見合う「こんなによくなった自分」
を想像することが難しくなってきたからかもしれません。

だから、店頭で接客でプロモーションで、
ハッとする体験をしてもらうことが
大切だということなのでしょう。

ハッとするというか、驚きといえば、
わたしが高校生のときに、
当時の担任から言われたことがありまして。

お前たちは、驚かない世代だ、と。
そのときは、その言葉以上のことを
感じることはなかったのですが、
今考えてみると、ここにそのヒントがありました。

驚くということは、
自分の中で一定の常識があって、
その範囲で思いもかけないことがあって、
驚くものだとするなら、

「モノを買ってなにかできるようになる」

という常識が崩れてしまえば、
あれができて、これができて…
というコトバはとても空虚なものに聞こえてしまいます。

最近の自分が買ったものを省みても、
一般的にデザインで買ったもの、といわれるような
買い方をしたものに共通すること、
それは「自分の好きなものに囲まれる幸せ」
を感じることができるという点です。
まぁ、そういう主観的なことだから
あいまいなわけですが。

たとえば、わざわざキャリア(=電話会社)を変えてまで、
携帯電話を好みのInfobar(Building)にしました。
確かに一番惹かれたのは、「一般的に」言うとデザインなのですが、
ただ、デザインという言葉で片付けると、
そこで思考が停止してしまうような気がするのは、
わたしだけでしょうか?

とあるデザイナーがこんなことを言っていました。

 デザインがカタチだけを造ること、と解されるなら、
 それは、デザイナーにとって不幸である。
 デザインは、モノを使っているシーンやストーリー
 までもデザインするものでなくはならない。

このInfobarも、何かができるようになったか?
というと、特に何かあるわけではありません。
もちろん、できなくなったことはないのですが、
いわゆる第三世代ならではのサービスや、
メガピクセルのカメラとか、そういうものはありません。

ただ、自分のすることをシンプルにまとめてあって
気持ちいいということが第一印象でした。

2003年の初めにパソコンを買い換えた際も、
富士通のLOOXからHPのタブレットPCになって
何ができるようになったのか?
と自問すると、実はそんなに多くはないんです。

どっちもモバイルできる。
どこでもインターネットにつながる。
地図で行き先を調べる。
音楽をためこむ。

…どちらでもできることです。

ペンで入力「できる」ようになったではないか、
といわれるかもしれませんが、
しかし、今までやっていたことマウスの操作を
より自然に、使いやすく置き換わっただけのことであり、
今までから新しい楽しみが追加された
というよりは、今までの楽しみが洗練された
というところでしょうか。

コンピュータや家電の世界はまだ、
やはり何かができる、という機能訴求の世界です。
でも、そうじゃなくて、
快適に使えて心地よかったり
持っていることを自慢したくなったり、
ほんとに大事にしたい気持ちになったり。
そういう付加価値を総称して
「デザイン」というのではないでしょうか。

確かに、形の新しさや高級感もデザインかもしれませんが、
もっと人間の心理に沿った
メンタルな部分との融合させる試みこそ、
「デザイン」が持つ高い付加価値の源泉である、
という気がします。

そういやInfobarの赤いNISHIKIGOIは、
全体が光沢仕上げになっていますが、
カタチや質感のすばらしさもあって、
いつも大事に指紋を拭きたくなるような、
そんな愛おしさを感じられるものになっています。

わたしより年下の世代は、
わたし以上に、驚くことがない世代でしょう。
未来はもっといろんなことができて
人間ができることがもっともっと広がって…
驚かない世代にとっては、それは
過去のパラダイムを引きずった
ドン・キホーテなのかもしれません。

「できる」にはない、もっとスローでアナログな価値。

…ただ、そこにあるだけで。

これから、デジタル家電が生活の核になるには、
生活そのものとして溶け込んで、
それでいて、その生活の中で愛おしさを注がれるような
そんなものでなくてはなりません。

赤ん坊に母親が愛おしさを感じるのは、
いとおしさを感じさせるような要素を
赤ん坊が持っているからです。

推測するに、海外の著名ブランドのバッグや
装飾品などは、世の女性からそういう扱いを
受けているのではないでしょうか。

デジタルの世界にも、ユーザが買いたいと思ってから、
実際買うときまでの物語をデザインするような
そういうメーカーが出てくることを願って、
今年の締めとしたいと思います。

2003-12-31


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