•  夜と朝の間に  
    〜大輔×伊織〜 






     寝返りを二度打ち、浅い眠りから覚めた伊織は、無意識のうちに擦り寄るぬくもりを探して傍らに腕を滑らせたのだけれども。
    「………大輔?」
     そこにあるべき人の体温をみつけられず、まどろみのなかにあった意識は完全に覚醒した。
    「何時だ? いま……」
     眉を寄せながら身体を起こす。
     午前四時。
     おやすみ、と、言葉を交わし、伊織が先にベッドに潜り込んだのは、ほんの二時間前だ。
     起床するには相当早い時間であるけれども、指先で触れたシーツに、ぬくもりは残っていなかった。
     部屋の主を探して移動したリビングには、明りが灯っている。
     窺うように覗けば、沈み込むようにソファーに座った大輔が、ロックグラスを片手に本を捲っていた。
     音を立てずに入ってきた伊織に気づき、ばつが悪そうな表情で顔を上げる。
    「起こした?」
    「いや、勝手に起きた」
    「眠れないのか?」
     真顔で尋ねてくる大輔に、逆だろう、と、小さく笑う。
    「それ、俺のセリフだわ」
    「あぁ、そっか……」
     苦笑する大輔の隣に腰を降ろし、手にした本をのぞきこむ。
    「寝てないのか?」
     伊織が眠る前にも大輔はこの本を読んでいた。
    「これ読んでたらタイミング逸しちゃってさ」
    「酒飲みながら読む本じゃないだろ」
     自分なら、経済誌なんかを読み始めたら一分ももたないうちに眠りの中にひきこまれるだろうと、伊織は思う。
    「飲みながらでも内容はちゃんとアタマに入ってるさ」
    「ふーん」
     興味なさそうに適当な相槌を打った伊織が、テーブルの上に置かれた大輔のグラスに口をつけて、顔を顰めた。
     ストレートのバーボンが、喉を焼く。
    「きっつ……。おまえ、朝っぱらからメッチャごっつい酒飲んでるなぁ…」
    「俺としては夜の延長のつもりなんだけどな」
    「…………」
     まだ眠っていない大輔にとっては夜。
     いま起きてきた伊織にとっては朝。
     移り変わる時間に明確な線引きなどはなく、夜でもあり朝でもある今のこの時間は、ひどく曖昧な時間だ。
     もう一口、バーボンを口に含んでからグラスをテーブルに戻した伊織は、室内に流れる音楽に耳を傾けた。
     隣室で眠る伊織を気遣って小さく音を絞ったコンポからは、耳に馴染みのある曲が流れている。
    「ピアフ?」
    「ん」
     意図しているのかどうかは定かではないけれども、大輔は女性ヴォーカルの歌を好んで聴く。だが、ロックやポップスが主で、この選曲はちょっと意外だった。
    「珍しいな。シャンソンって」
     恋人に対する想いを切々と歌い上げた『愛の賛歌』。
     妻のいる恋人との別れを決意した彼女の、久遠の愛の誓い。
     痛々しい色を帯びた歌声には、しかし、魂の強さが宿っている。
    「シャンソンの世界観ってどうも理解できないんだけどさ。この歌だけはなんかこう、胸に響くんだよなぁ」
    「シャンソンの世界観ねぇ………」
     考えたこともないな、と、呟いた伊織が、真剣に思案するようなそぶりで一点を見やる。
     そして、閃いたものが…………
    「フランス!パリ!シャム猫!!って感じ?」
     指折り数え上げる伊織に、大輔が「はぁ?」と、間の抜けた声をあげる。
    「何でシャム猫?」
    「イメージ」
    「わっからねぇ。だいたいシャム猫ってフランスの猫じゃないんじゃない?」
    「何でそんなこと知ってるんだよ?」
    「常識」
     と言いつつも、自分でもようわからない、と、肩をすくめる大輔に伊織が自信満々で断言する。
    「どっちにしろ、東京! 下町! 神輿だワッショイ!! ってノリのおまえには理解できな、いものなんだよ」
    「ちょっと待て。何で俺限定なんだ?」
     そこは俺たちでひとくくりだろ! と、大輔が物申すのだが、伊織は涼しい顔で一緒にするなと言い放つ。
    「だって、別に俺、ピアフキライじゃないもん」
    「俺だってキライって言ってないじゃん」
    「そうなの?」
    「なんでわざわざキライな曲、聴かなないといけないんだよ。この曲は名曲だ!」
     微妙に論点がズレていっているような気がしないでもないが、きっぱりと言い切った大輔に、伊織は俺も、と、頷いた。
    「ああ。これは間違いなく名曲だな」

       たいしたことじゃない、あんたが愛してくれれば
       世の中のことはどうでもいいの

     時は刻々と移ろい、空が少しずつ白み始め、夜の色が光に塗り替えられていく。
     夜から朝へと移り行く空間に、愛を讃える歌が、静かに繰り返されていた。

       もしもいつか、人生があんたをうばっても
       あんたが死んでも、あんたが遠くへ行っても
       あんたが愛してくれさえすれば平気
       だってあたしも死ぬのだから

    「情の深い女の歌だね」
    「そうだな」
     けれど、彼女の想いは理解できる。
     たとえば、世界を敵にまわしても。
     共に在りたいと、想える人がいる。
     どんなことがあっても。
     誰が何と言ったとしても。
     愛し続けると誓える人が。

       あんたがそうしてほしければ
       人があたしのことを笑ったって平気
       なんだってしてのけるわ
       あんたにそう云われれば

     ふいに、伊織が大輔の拳に掌を重ねあわせた。ぬくもりが、伝わってくる。
    「どした?」
     問いかける大輔の穏やかな声音が耳に心地よい。
     彼がこんな甘い話し方をすることを、自分だけが知っている。
     何度も何度も。
     自分を闇から救いあげてくれた男の声。
     だから………
    「俺も。なんだってできるよ?」
    「伊織?」
    「いままでいろんなこと、おまえにしてもらったから。だから俺、おまえのためだったらなんだってできるよ?」
     伊織の言葉が胸に染み入るように入り込んでくる。
     その言葉通り、大輔のためなら、その身を投げ出すことすら、厭わないだろう。
     だが、一方的に与えてばかりいた関係ではない。
     大輔自身も、伊織からたくさんのことを与えられている。
     だから――――――何も望まない。何も求めない。
     願うことは、たったひとつ。
    「そのままでいいさ。何もしなくても、そのまま、そばにいてくれたらそれでいい」
    「大輔………」
     自然に引き寄せあうように。
     ゆっくりと唇を重ね合わせる。
     微かに香るアルコールの香り。
    「ん……」
     角度をかえて何度も合わせられる口吻けは、すぐに深いものに移り変わっていく。
     腕に馴染んだ躯に指を滑らせ、大輔が伊織の耳元で囁きを落とした。
    「していい?」
    「聞くな、アホ…」

       恋が私の毎朝を満たしてくれれば
       私の体があなたの手の下でふるえる時には
       重大問題なんぞどうだっていいの
       あんたが愛してくれるんだから

     ピアフの歌声に熱い吐息が混ざり合っていく。
     昇りはじめた太陽の光が僅かに開いたカーテンの隙間から入り込み、重なる二人を優しく照らしていた。





    End