06.トクベツの証
 人生最大にして最高のチャンスを目の前に、呆けてしまうだけの自分は待ちくたびれていたのかもしれない。
彼女は静かに紅茶を入れたカップを手に持ち、ゆっくりと程よくぬるくなったそれを喉へと運んでいる。小さくコクリとなった喉にすら、扇情的なものを感じ取ってしまえるほど彼女を渇望しているのに、今彼女が言った言葉を理解できないでいる。

「だめ?」

辛うじて首を横に振る。
だめ、なわけがない。
だけど、そんなことを彼女から言い出すはずがないと思っていた自分にとってみればその衝撃は計り知れなくて、平常心のマスクがずり落ちそうになる。

「私…、男の人、ニガテ、だから」

途切れ途切れに言い辛そうに話している内容は、実のところとっくに気がついていた。彼女を見張る事を人生の第一目的としている自分にとって、それぐらいのことを見破るのは至極簡単なことだ。か弱い雰囲気を漂わせてはいるものの、己の中の弱い部分を見せる事を極端に忌避している彼女は、こちらを頼っているようで自分自身でその匙加減を絶妙にコントロールするところがある。彼女が自分自身を他者に百パーセント預ける、などということは有り得ない話で、それは残念な事に俺に対しても同じ事だ。幸い、他者の中でも俺は母親に次いでいい位置につけているため、頼られる割合が比較的高い。だけど、俺が知り合った誰よりも彼女は依存しているようにみせて、きちっと自立している人間だ。
そんな彼女が、多分彼女にとってこの上もない程の弱点を口にするなんて。
気がついてはいたものの口に出さないでいた自分を褒めてやりたい。自分から告げる、のではなく、彼女からそれを告げられることに意味があるのだから。

「ああ、だったら新しい父親と暮らすのはなあ」

彼女の母親が再婚する、ということは彼女からも母親からも聞いていた。
最初は、またろくでもない人間にひっかかって晴香に迷惑をかけるのかと警戒をしていたが、彼女に聞いてみたところかなり出来た人間だと知って安心した。だからといって、彼女と血の繋がらない異性が、彼女と共に暮らすことを良しとするわけがなく、それこそ全てを闇に葬り去りたくなるほど嫌悪しているのだが。
遠い元親戚といった立場である俺が何かを言えるはずもなく、それこそ指を咥えて待っているしかなかった出来事。
なのに、今ここにこの上もなく極上の解決策が提示されている。しかも、彼女の方から。
冷え切ったコーヒーを口に含む。香りと独特の苦味で少しだけ頭が覚醒する。

「一緒に暮らす…って?」

そう、確かに彼女はこんなことを口にした。俺と一緒に暮らしたいと。
だけど、そんなことは俄かには信じられるはずもなく、もう一度念を押すように確認をする。

「うん、晃さんさえ嫌でなければ、ですけど」
「嫌なわけがない!」

思わずカップを叩きつけるようにテーブルの上へと置いてしまい、琥珀色の液体が僅かに零れ落ちる。
彼女はそれを見てふきんを手にとり、それを丁寧にふき取っていく。

「俺は、大丈夫なの?」

わかりきったことを敢えて訊ねる俺はかなり意地が悪い。
だけど、どうしても、彼女の口から言わせたいと、思ってしまったから。
彼女は俯いたまま、小さく頷く。

「晃さんは、晃さんだけは大丈夫、だから」

白かったふきんはすっかりコーヒーの色に染められ、彼女はこちらに視線を合わせないままキッチンの方へとそれを運んでいく。
ニヤリと笑ったであろう自分自身の顔を見られることがなくて、良かったと、そんな事を思うほど心が舞い上がる。
それは彼女にとって俺が特別であるという証し。
義理の父親になる人間でもなく、中学までのクラスメートや先生たちでもなく、俺だけは彼女にとって触れられる唯一の異性だということ。だけどそんな浮かれた心は、彼女の一言で簡単にどん底まで沈められる。

「晃さんは、私にとって父親みたいなものですから…」

蛇口を捻って軽くふきんをすすぎながら、こんなことをポツリと溢す。
舞い上がっていが心が急激に沈んでいくのがわかる、そんなものになりたくて長年彼女を見守っていたわけではないのに、と叫びだしたくなる。だけど、彼女に悪気があるわけでもなく、親愛の情から来ているものだとわかっているから、それ以上何も言えない。

「ごめんなさい、父さんだなんて、まだ独身の晃さんに失礼よね」
「いや…」

辛うじて返事だけはするものの、思った以上に心にダメージを受けたらしい。
想像の上だけでも、何度も俺は彼女に邪な事をしてしまったのに、と、邪気のない彼女に対し罪悪感すら感じてしまう。

「んっと、兄さんみたい、かな?兄弟がいないから良くわからないけれど」

あくまで彼女にとっての俺は、血縁に例えられるもの以上でも以下でもなく、だからこそ男嫌いの彼女が平気なのだと思い知らされる。

「おかわりいります?」

結局のところ、彼女の提案したおいしい話は有耶無耶のままに終わり、俺は人生最大のチャンスを逃してしまったのだと、後になって知ることになる。
彼女の義理の父親が、何も考えていない能天気な母親に代わって俺自身の前に立ちはだかるなんて、このときは知りもしなかったから。
6.1.2007update/6.30再録
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